七海/伊地知
残桜
ネクタイを締める伊地知を見やって、コーヒーをカップに注いだ。
「目覚ましにどうですか」
「ありがとうございます、いただきます」
本当は朝食も……と言いたいところだが、出勤時間が早い彼をだらだら引き留めるわけにもいかない。
何より未練がましいと思われたくない。そんな見栄が邪魔をして、この程度の「邪魔」しかできなかった。
ダイニングテーブルでかしこまってコーヒーを啜っている伊地知は、すでに補助監督の顔をしている。一方の自分は、ついさっきまでの微睡みに名残を感じながら、テーブルにもたれてマグカップを片手に立ちつくしたままだ。
ほっと息をついた伊地知が、カップから目を上げずに呟いた。
「しばらく、ご一緒する機会もないと思います」
「今日から出張でしたね」
伊地知が七海の補助をすることは多くない。もっと手間のかかる面倒な術師達が待っていて、引く手数多だから。そして二人とも、無理矢理シフトを合わせるなどという権限も度胸も持っていない。
「向こうは雨らしいです」
「風邪をひかないように、気をつけて」
他愛ない会話で引き延ばそうとしても、時間は止まってくれない。
「ごちそうさまでした。お見送りは結構ですので」
「ええ、お気をつけて」
玄関先までついていくことも許されないようだ。オートロックも考え物だと思いつつ、マグカップを無意味に持ち直した。
立ち上がった伊地知は丁寧に椅子の位置を戻し、それから躊躇うように眼鏡を押し上げて、こちらに向き直る。
「あの……」
「はい」
「その、いつまで会えないか、わかりませんし……」
肩をすくめてこちらを窺う表情に、はっと気づいてカップを置いた。別れ難いのは自分だけではない。
「よかったら」
恐る恐る伸ばされた手を、力強く握り返す。顔を上げた伊地知が唇を重ねてきた。触れるだけですぐ離れていこうとするのを、首を抱き寄せてこちらから口づける。コーヒーの苦みを感じながら、昨夜の名残とこの先の空白を惜しむ。
「……ごちそうさまでした」
指先で彼の口元を拭いながらそう言うと、伊地知は困ったような笑顔を見せた。ずれた眼鏡を直し、スーツの襟を正して皺を払ってから、半歩下がる。
「……仕事は程々に」
「七海さんも……」
伊地知は深々と頭を下げると、足早に部屋を出ていった。
「……………」
ため息をついて髪をかき上げる。互いに他人行儀な顔を作ってから送り出そうと思っていたのに、最後にこちらを見た彼の表情は、完全に昨日の夜に戻っていた。上手く立て直してくれればいいが。とはいえ、自分も午後から出張だ。それまでには完全に切り替えておく必要がある。
仕方なく顔を洗いに洗面所へ向かった。
寝起きでシャツを羽織っただけの自分と向き合って、胸元に情事の痕跡を見つける。
「あ……」
未練がましく枝にしがみついて、他の花より遅れて落ちた花弁のように。口ごもって別れを惜しむ彼のように。
七海は鏡を見つめたまま、愛おしいその紅を撫でた。
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