七海/伊地知
桜隠し
凍えた手をこすり、伊地知はたったひとつの外灯に照らされた桜を眺めていた。ここ以外に明かりはない。夜空も重たい雲に覆われている。
「せっかく咲いたのに、寒そうですね……」
北日本では四月の後半でも桜が咲いている。そして急な雪も降る。すっかり春のつもりで咲き誇っていた花々は、氷付けにされて枯れることもできずにその色を雪の下から主張していた。
「さっさと済ませて帰りましょう」
調査が長引いて、現場への到着が真夜中になってしまった。七海は腕時計を見やり、日付が変わっているのを確認する。
「そうですね、七海さんなら余裕で……」
伊地知が端末を開いたタイミングで、着信が通知された。隣にいた七海からは見るともなく、画面に表示された「五条」という名前が目に入る。
「そちらから先に対応してください」
「いえ……大丈夫です」
伊地知は素早く返信してから、愉快そうにこちらを見上げた。
「七海さんにもいってますか、五条さんのバースデーメール」
「……そういえば来ますね、毎年律儀に」
高専卒業後、もう繋がりはないと思っていた時も、テンションの高い画像や動画が送られてきていた。返信もせず無視していたが、あえて削除や拒否もしなかった。そのおかげで、五条への連絡という選択肢が自分の中に植え付けられていたのかもしれない。
……ということは。
「今日でしたか。おめでとうございます」
0時少し過ぎだから、五条は日付が変わってすぐ手動でメールを送ってきたことになる。そういう妙な気遣いというか謎の律儀さを好む節が、あの男にはあった。
「あっ、いえ……どうもありがとうございます」
他人の誕生日など知る機会もない。この歳になると改めて祝うこともなくなり、普段と変わらず過ぎていく。だが誕生日のしかも深夜に仕事で出張というのは、さすがに哀れだった。
動きに支障が出そうなコートを脱ぎ、伊地知に託す。その拍子に冷たい小指と小指が触れ、すぐに離れた。
暫しの沈黙の後、サングラスを押し上げながら聞いてみる。
「……帰りに温泉でもどうですか」
「えっ」
「一泊食事付きがいいですね」
春でも雪が降る北国、来る途中にも温泉郷の看板をいくつも通り過ぎた。二人とも叶わないことは口にしなかったが、ここまで労働時間が延びたのなら、帰りが一日程度遅れても文句は言われないだろう。
口を開けたままの伊地知に、もう一言付け足す。
「私からの、ということで」
「ふぁ……」
誕生日祝いとは気恥ずかしくて口にできなかったが、相手の顔から仕事モードが剥がれ「うろたえる後輩」の表情になっているのを見て、つい唇を噛みしめた。
なんとか笑わずに耐えて、マフラーも渡す。すぐに寒さなど感じなくなるだろうから。
「手早く済ませます」
「はいっ、ご武運を!」
背後で帳が下ろされてから、七海はやっと頬を緩めた。
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