丈瑠/十臓
淫月夜(みだらづきよ)
細く引き締まった胸の上で、無骨な珠の連なりが耳障りな音を立てる。
苛立ちのままにその肌へ爪を立てると、手の下で筋肉が誘うようにうねった。
頬に張りつく蓬髪をかき上げて、男はまっすぐこちらを見つめる。
『志葉、丈瑠』
肩書きではなく名を呼ばれ、心が波立つ。そのざわめきが歓喜か焦燥かもわからず、ただ身体をぶつけた。
他のだれでもなく、その男が欲しくてたまらなかった。
「……………」
丈瑠は暗がりの天井を暫し眺めていた。
壁の古めかしい時計に目を移せば、まだ朝も遠い真夜中。両手で顔を覆って深く息を吐き出す。
「くそ……っ」
このところ、似たような夢を一晩に何度も見る。吐き気がするほど淫猥で、許されないほど甘美な夢を。
そしてそれがただの悪夢ではないことを、丈瑠は知っていた。
唯一の救いは淫らな夢に身体が反応していないことだが、それでも夜着は汗で濡れ、息苦しいほどに暑い。屋敷の中は夏でもひんやりとして涼しいはずなのに。
再び横になってはみるものの、目が冴えて眠れそうにない。丈瑠はもう一度ため息をつき、起き上がった。
稽古着に着替えて、皆を起こさぬよう静かに屋敷を抜け出す。
あと二時間もすれば流ノ介が目覚めるだろう。彦馬も近ごろはめっきり朝が早くなってきた。だが黒子が起こしに来るのは夜が明けてからだ。一時間ほど木刀を振ったら布団にもどるつもりだった。屋敷の裏にある高台まで行くことにしたのも、庭先では黒子に気づかれるかもしれないと思ってのことだった。
石段を上りきったところで、小さな社の前に立つ黒い影にぎょっとして立ち止まる。ここは志葉家の敷地で、しかも今は真夜中だ。
「……だれだ」
低い声で誰何しながら、その目はすでに相手を捉えていた。
「十臓!?」
汗が引いたばかりの身体が一気に熱くなる。忌まわしい夢が具現化したような気がした。
「なぜここにいる!」
身を硬くして木刀を突きつければ、相手はまっすぐこちらを見据えて一言だけ発した。
「おまえに会いに」
「……!」
おかしくはない。十臓はこの自分との戦いを心から望んでいる。他のだれでもない、この志葉丈瑠を。そのためなら敵にも味方にも自在に立場を変えるほど、彼はそれだけを切望していた。
だが、なぜよりによって今……
混乱しながらも、丈瑠は木刀を下ろした。
「……ひとつ、訊きたい」
「なんだ」
距離をとりながら、ゆっくりと動く。敵を前にして石段の真上に立っているのは利口ではないし、月明かりが逆光に近いのも不利だ。侍としての本能で、丈瑠は社の正面に回りこんだ。
十臓のほうは動く様子もなく、ただこちらから視線を外さない。
丈瑠は静かに息を吸って、相手を見据える。
「あの夜、俺は……なにをした?」
十臓の蓬髪が揺れた。頭をかたむけるさまは、驚いたようにも見えた。
「思い出したか」
「!」
感情の読めない声がよこしてきたのは、あれが夢ではなく記憶だという紛れもない事実。
「……いや」
丈瑠はため息をついて首を横に振った。
「なぜ、あんなことをしたのか……少しも思い出せない……」
断片的に残っている記憶と感覚に、感情が追いついてこない。なにを思って目の前の敵を……
「毒の副作用だろう。と言いたいところだが……」
丈瑠自身も気づかないほどわずかによぎった救いへの期待を、十臓はあっさり握りつぶす。
「おまえは、俺の名を呼んだ。自分が犯している相手がだれかをわかっていた」
つまりそれは……
木刀を握りしめる手が汗ですべる。
「なぜ言わなかった」
「言ってどうなる。おまえはくだらん感情に縛られて、俺を斬れなくなる。おまえと斬り合うことだけが俺のすべてだ」
十臓の言葉はいちいち合理的だったが、それは彼自身にとっての合理性だった。丈瑠の混乱に答えてくれるものではなかった。
「顔を上げろ。目的を果たそうではないか」
十臓が、刀の柄に指をすべらせた。生ぬるい夏の空気が、にわかに張りつめる。
丈瑠は迷いながらも、木刀を握りなおした。
「!」
二人が石段のほうを見たのは同時だった。
だれかが駆け上がってくる。黒子だろうか。いや、黒子は足音を立てない。これは……
丈瑠はとっさに十臓へと駆け寄り、その腕をつかんでいた。
「来い!」
内心で詫びながら志葉家を守護する社の扉を開け、十臓を引きずり込む。
二人が埃っぽい床の上に座り込んで息を止めた瞬間、石段の上に彼は現れた。
「っしゃー! 記録更新ー!」
息を切らしながら両の拳を突き上げているのは、ねじり鉢巻の青年。
「寿司屋……?」
呟きかけた十臓の口を押さえる。
それにしても、源太なりに鍛錬をしているとは気づいていたが、こんな時間とは思わなかった。流ノ介にくっついていた時期もあったから、なにか妙な方向に影響を受けたのだろう。夜更かしは身体に毒だと、あとで説教してやろうと心に決める。
源太は身体をほぐすような動きをしながらこちらへ歩いてきて、迷いもせず社の前に立った。
月明かりが社の中に差し込んで、板間に格子の影を作っている。光が届かない暗がりに身を潜めている二人は、さらに奥へと縮こまった。
中に人がいるなどとは思ってもいないらしい源太は、社に向かい手を打って頭を下げる。しかも願い事までしている。丑三つ時だというのに。
「明日もしっかり丈ちゃんを守れますように! あ、ついでに丈ちゃんがもっと笑いますように! ああっ、それと丈ちゃんの……」
賽銭も払わずに欲ばりすぎだ。それ以前に、自分のことを願え。と、言ってやりたくて仕方がなかったが、あいにく声が出せない。盗み聞きするつもりはないのに、彼の純粋すぎる願いを聞かされているのが、ひどく居たたまれなかった。
十臓がなにか言いたげに口元を動かしたので、押さえつけたままで睨んでやると、呆れとも憐れみともつかない視線を返される。
やがて源太は「よーし、ラストスパート!」と叫びながら、別の階段を駆け下りていった。
「行ったか……」
ほっと壁にもたれて相手をふり返ってから、あわてて手を離す。丈瑠が十臓を抱きこむようなかたちで、二人は寄り添っていた。
気まずさから顔をそむける丈瑠に、十臓は気にも留めていない様子で尋ねてくる。
「なぜ隠れた? 二人がかりで俺と戦うこともできたはずだ」
「う……うるさい!」
黒子であれ源太であれ、今はだれとも顔を合わせたくなかった。人には言えない夢のことで頭がいっぱいになっている上に、それが夢ではなく実際に自分が犯した罪だと知ったばかりの今は。
「あの寿司屋は、おまえのなんだ? 他の四人とはちがうようだが」
十臓のほうはあいかわらず、敵の隣に座り込んで警戒する気配もない。世間話のように声をかけてくる相手に、丈瑠もわずかに気をゆるめた。
「幼馴染だ。侍の生まれでもないのに、俺のために戦ってくれてる」
十臓は考え込むように格子の外を眺めていたが、ふと丈瑠に視線をもどした。
「いつ契った?」
「ちぎる?」
意味がわからない。二人のあいだには二百年の隔たりがあるのだからむりもないのだが、丈瑠の戸惑いを見て十臓もまた困ったように眉根を寄せた。
「抱いたのかと訊いている。それとも抱かせたか?」
「だ……」
それすらも理解するのに数秒かかったが、意味がわかると顔に血が上った。
「なに考えてるんだ、そんなわけないだろ!? どうしてそうなる!? 源太は大切な友だちで仲間だぞ! あんなこと……」
十臓への仕打ちが、再び脳裏によみがえった。「あんなこと」を十臓に対しては、してしまったのだ。敵とはいえこちらを害する意図のない者を傷つけるなど、許されることではない。
「……ごめん」
床の上に放り出した木刀を眺めながら、頭を垂れる。
「毒にやられていたとはいえ、おまえを傷つけたことは事実だ。ほんとうに、すまなかった」
あくまで自身の欲望のためではあるが、十臓は丈瑠の命を救ったのだ。礼が言えないならせめて詫びておくべきだと思った。
「かまわん。俺は契りだと思っている」
赦しとは少しちがう言葉に、丈瑠はまた困惑する。「ちぎり」とはその行為全般を指すのか。たとえ合意でなくとも。
丈瑠の顔を見て、十臓は言い含めるような口調で言葉を補った。
「契るとは、間柄を約束すること。互いを縛り合い、結びつけることだ。俺とおまえは契りを交わした。一方的に踏みにじられたわけではない」
「そんなの……」
意味不明だ、と抗議しようと開いた唇に、そっと指を当てられた。
「女のごときやわらかい唇をしているくせに……俺を串刺しにしたのは硬くて熱い刀のようだったなあ?」
「……………」
言葉もなく震える唇を、硬い指がなぞっていく。
払いのければ済むことだった。なのに、身体が動かない。この身体を傷つけ貪ったのだと思うと、拒むことができない。
「やめろ、十臓……」
「本気で言っているようには見えんぞ」
いつのまにか相手の声音が変わっていた。かすれて、どこか艶かしい。そんなふうに感じる自分自身にぎょっとした。
「今夜は脱がせやすい着物だな」
手馴れた様子で腰周りが緩められていく。袴が剥がされ、帯を解かれ……その手がどこへ向かうかはわかっているのに、なにもできない。
「下帯だけは何百年経っても変わらないか」
初めて、十臓の声に笑みが混じった。和装のときはごく自然にそうしていたが、殊更に指摘されるととたんに羞恥を覚える。
反論しようと口を開いたとき、布の内側に入り込んできた指が先端をこすり上げた。
「ぁあ……っ」
自分の声にぎょっとして口を押さえる丈瑠を、十臓は前髪のあいだから見つめている。
「んぅ……」
硬い指の腹に撫で上げられ、腰が浮きそうになった。剣一筋で生きてきたとはいえ、健康な肉体だからそれなりの生理的欲求はある。だが、こうして他人に触れられたことはなく、それだけに勝手がちがいすぎた。予測のつかない動きに翻弄され、声を殺すのがやっとだ。
「なぜこらえる? あの夜はあれほど素直に……」
「それは俺じゃない!」
「もう認めたらどうだ。おまえは……」
やめろと叫んで制止する代わりに、丈瑠は十臓の口を自らの唇でふさいだ。
ぬるりとした舌の感触におののいたが、今さら引けない。自分からそうしたのか十臓に誘われたのか判断がつかないまま、舌を絡め合った。
やがて小さく息をついた十臓が、あごから首へと唇の触れる位置を変えていく。
思いの外やわらかいひげが肌を刺す、その感覚が異常だと感じながらも、敵意のない接触が心地よくて拒めない。噛みつかれるでも吸われるでもなく、ただ熱い息とともに唇が押し当てられるのを受け止めていた。
緩やかな愛撫に呼吸が慣れはじめたとき、丈瑠を握ったままだった手が再び動き出す。十臓の肩に縋りついていた丈瑠はとっさに自分の口を押さえられず、代わりに彼の着物に噛みついた。
「ん……ぅんん……っ!」
敵であるはずの男の手の中で、制御しきれない欲望がふくれあがっていく。ついばむように、味わうように、肌をなぞっていく唇もそれを煽る一方で、丈瑠は恐怖にも似た不安を覚えていた。
帯が解けている道衣は肩から落ち、袴もその役目を果たしていない。裸よりも惨めな有様の丈瑠に対して、十臓はその肩口を丈瑠の唾液で濡らしているにすぎない。
「っ、十臓……っ」
喘ぎをこらえて必死に呼びかけると、彼はちらりと目を上げてこちらを見た。涼しげな顔をしているように見えたが、そのひたいには汗が浮かんでいる。
「仕返し……なのか?」
「……………」
十臓が受けた屈辱的な仕打ちを、丈瑠に仕返そうという気持ちならばわからなくもない。だがそれにしては、その行為はひどく緩慢で、優しすぎた。快楽を得ているのは丈瑠だけなのだ。十臓の意図が読めない。
「十臓……っ!?」
重ねて問おうとしたが答えはなく、代わりに胸の小さな頂を強く吸い上げられる。未知の感覚に震える間もなく、そこを舌先が押しつぶすように転がした。
「やっ、やめろ、気持ちわる……んっ……」
不快というほどでもない奇妙な感覚に身をよじり、この行為がなんなのかを必死に考えようとした。
彼の言う「契り」なのか。それとも、やはり意趣返しなのか。
ふと、十臓の身体が離れた。呆然と眺めていると、自らの帯を解いている。
今から犯されるのだ、と丈瑠は直感的に思った。どれほどの痛みか想像もつかない。背筋を冷たいものが駆け抜けると同時に、覚悟も決まる。殺されてやる義理はないが、けじめはつけたかった。
ただ、解放されずに勃起したままの自身を放置されているのはさすがに苦しい。自分の手で処理することもできず、丈瑠は助けを求めるように十臓を見上げていた。
自身の支度をしていたらしい彼が、汗を滲ませ荒い息をつきながらも、耳元へと口を寄せてくる。
「今度は……忘れるなよ」
「え……!?」
聞き返そうとしたところへ、真上を向いた先端を指でなぞられ言葉を失う。動けなくなった丈瑠の上に、十臓は自らの腰をゆっくり落としてきた。
「……!!」
肉を裂くような不快感と、それを圧倒的に上回る強烈な快感が、身体を貫く。
「ぁあ……っ!」
自分で聞いたことのない自分の声が、狭い社の中に響いて、口を押さえる。だが今度はとてもこらえきれそうにない。袂の手拭いを手探りで拾い上げ、無我夢中で自分の口に突っ込んだ。
「ふ……んぅうっ」
必死に歯を食いしばっても、喉の奥から勝手に悲鳴が上がる。
手でされるのとはわけがちがう。内壁が丈瑠自身に隙間なく絡みついて、拒絶しながらも奥へと誘い込んでいた。ゆっくりと搾り取られるような動作が焦れったくて、腰をつかんで激しく突き込みたくなる。
丈瑠はなんとか自らの衝動を抑えようと、床に広がった着物をつかみ握りしめていた。
「ぁあ……っ」
十臓がひそやかに喘ぎながら背をのけぞらせる。扇情的な声と姿が丈瑠の意識を攫い、月明かりの中に汗が伝い落ちる様子までも見せつけた。
「んん……くぅ、ん……!!」
噛み殺した喘ぎ声とは裏腹に、凶暴な絶頂の波が丈瑠を襲う。
腰は意志と無関係に揺れ、十臓の最奥へ容赦なく欲を注ぎ込んだ。丈瑠はただ目を見開いて、苦悶とも愉悦ともつかない十臓の表情を見つめるしかできなかった。
乱暴な手が、食いしばった歯からむりやり手拭いを奪い取っていった。息をすることを思い出した丈瑠は、懸命に呼吸をとりもどそうとする。
「っ、はっ、はぁっ……」
戦いのあとと同じように息を整えればいい。頭はそう考えているのに、身体は行為の衝撃に動揺していて平静をとりもどせないでいる。
「おもしろいほどに乱れるものだ。そんな図体でまったくの初心とはな……」
「……っ!」
丈瑠は言葉もなく、ただ潤みかけた目で相手を睨みつけた。経験がないことを揶揄されるくらいなら、犯されたほうがまだましだった。
手早く着衣を直した十臓は、いつもどおりの読めない無表情で、鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づけてきた。
「だが俺が求めるのはこの程度の快楽ではないぞ。次こそ、この飢えた魂を満たしてもらおう」
「……………」
汚れた手拭いが裸の胸に放り投げられる。なにか言おうと口を開けたときには、十臓はすでに社の扉を開け出ていくところだった。
外からきっちりと閉められた格子戸を眺め、丈瑠は唇を噛む。
身体の奥では、未だ放たれぬ熱が駆けめぐっていた。あの強烈な感覚を知ってしまった若い身体が、一度きりで満たされるわけがなかった。だが敵の袖をつかんで求めるようなことなどできるはずもない。
屋敷にもどっても、熱を静めてくれる者などいない。それができるのは、この身に火をつけた張本人だけ。彼はたしかに丈瑠を縛りつけていった。それを契りというのならば、二人はもう相手を斬ることでしかその結びつきを絶つことはできない。
「十臓……っ」
いつのまにか月はかたむき、祭壇奥の鏡にその姿を映りこませている。
銅の鏡に映った月はどこかいびつで、妖しげに輝いていた。
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