映司/アンク
【ベッドと誤解とコンドーム】
部屋に戻るなり、アンクは目の前にあった椅子を思いきり蹴飛ばした。
「おいおい!」
あとから入ってきた映司があわてて駆け寄り、転がった椅子を起こす。
「気持ちはわかるけどさ、ものに当たるなよ」
のんびりと言いながら椅子をどけている映司を、アンクは振り向きざま睨みつけた。
「あの女……身体が戻ったら真っ先に引き裂いてやる!」
唯一残った右腕で拳を握りしめるが、この腕すら元の力を発揮しきれない。それもこの脆弱な肉体のせいだ。こんな身体を使う必要さえなければ、そもそもこんなところにいる理由もないのに。
「いいから今日はもう寝ようよ。明日も早いんだし」
シャツを脱ぎながらそんなことを言うこの男も。長いあいだ離れていられないこの肉体も。どういうわけかこの自分を哀れみつづけるあの女も。全ての人間という人間が疎ましい。
「いつまでもおとなしくしてると思うなよ!?」
苛立ちが収まらないアンクは、映司の顔をわしづかみにした。
「ふがっ!?」
タコのような顔になった映司は今まさにズボンを脱ごうとしていたところで、とっさに反撃もできないでいる。上は裸、下は膝まで下ろしかけている映司をベッドに追い詰めれば、彼も気圧されるままにぺたんとベッドへ座り込んだ。
「アンク?」
ものも言わずに映司の肩をつかんで、無防備に開いた口へと噛みつく。
「……っ!?」
驚いた映司が押し返そうとするのを全体重で押さえつける。二人はベッドへと倒れ込み、それから引き離そうとする力と離れまいとする力がぶつかって、無言の格闘がつづいた。
「……なんだよっ、いきなり!」
顔を真っ赤にして、映司が叫ぶ。
力比べで負けて引き剥がされたアンクだが、濡れた口元には笑みが浮かんでいた。映司がアンクを押しやるまでに、その口腔をさんざん舐めまわしてやったからだった。
「……気分はどうだ?」
「どうって……」
手の甲で口を拭う彼は、迷惑そうな顔はしているがアンクが期待したほどダメージを受けたようには見えない。
大多数の人間は同性との性的接触に嫌悪を示すはずだ。この肉体の持ち主にもその傾向があり、彼自身その中性的な外見からか何度か不快な経験をしている。
それを知っていたからこそ、この忌々しい身体と映司に対して復讐してやったつもりだった。腹いせのはずが思い通りの結果にならず、アンクはまたも悔しさに歯ぎしりする。
「おまえ……ホモか?」
「ちがうよ。……どうでもいい言葉は知ってるんだなあ」
感心したような呆れたような口調で言うのが腹立たしくて、アンクはもう一度映司をベッドに押しつける。
「口だけじゃ足りないか?」
「アンク、何度も言うけどその身体は……」
なにかを諭そうとした映司は、目の端になにかを認めて顔を引きつらせた。
「あ、いや、ちがうんです知世子さん!」
記憶したくなくても忘れられない天敵の名前を耳にして、再びアンクの身体が怒りに熱くなる。なぜ今ここでその人間のことを思い出さなければならないのか。
映司の視線を追って振り返れば、開けっぱなしのドアの前に天敵が立ちつくしていた。
べつに、青年たちのプライバシーを覗くつもりなどなかったのだ。
しかし開け放たれたドアの奥でなにか騒いでいるのが聞こえたら気になるのは人情というもので、通りすぎざま部屋の中に目をやっただけだった。
それがまさか、下着しか身につけていない映司がベッドの上でアンクに押さえつけられているとは……
「いいから早くどいてよ!」
「うるさいおとなしくしてろ!」
決定的なその場面に行きあってしまった白石知世子の脳内では、瞬く間にひとつの物語ができ上がっていた。
映司曰く、ひどく劣悪な環境で育った哀れな青年、アンク。本人に言わせればそこは「欲望の渦」と呼べる場所らしい。そこでどんな生活を送っていたか、アンクも映司も触れようとはしなかった。
あんな仏頂面をしていなければ、もともと天使のように美しい顔立ちだ。大人たちの醜い欲望の餌食にされつづけてきたことは想像に難くない。そして映司が彼の過去を詳しく語りたがらないのも納得がいく。
「そうだったのね、アンクちゃん……」
幼いころから欲望に飢えた男たちの相手をさせられてきた彼は、自分から男を求めるほど行為に溺れてしまっているのだ。明らかにアブノーマルな道具を右腕に装着しているのも、ノーマルな行為では満足できなくなってしまった彼の哀れさを物語っている。
歳に似合わずアイスキャンディが好きだというのも、単に子どもっぽいのだと思っていたけれど。そういえばカップアイスを食べているのを見たことがない。必要なのはアイスではなくその形状であり、きっと口淫を求めてしまう深層心理の発露なのだ。
そして彼を闇から救い出したという映司もまた、その危険な美貌の虜になった一人にちがいない。ただ彼の優しさはアンクの誘惑を拒みつづけている。穢れのない純粋な魂を知っているがゆえに。
しかしそこに罪悪感を覚えることなどない。それは罪ではなく愛なのだから……
「なんてことなの……」
究極の自由人である映司は、究極の愛を持つ男でもあった。これぞ人間のあるべき姿、理想の姿だわ!と知世子は感激に打ち震える。
「いや、あの、たぶんものすごい誤解を……」
「さっさと消えろ。貴様から食われたいのか」
アンクが凶悪な顔で凶悪な台詞を吐くが、知世子の心にわき上がるのは憐憫と慈悲だけだった。目に浮かんだ涙をそっと拭って、彼らを安心させるために聖母の微笑を作る。
「いいのよ……ここではなにも隠さなくていいの」
彼らのためにできることはないだろうか……と考えてはっと思いつき、その部屋に駆け込んだ。
「ち、知世子さん!?」
つい先月まで物置にしていた部屋だから、まだいろいろなものがあちこちにしまってある。古家具風の引き出しからコンドームの箱を何個か取り出した知世子は、こちらを睨みつけているアンクにそれを差し出した。
「これ……使って。サイズいくつかあるから、どれかには合うと思うわ」
「サイズって……」
映司ほどではないが世界を旅し、多国籍な相手と多国籍な恋を展開した知世子の軌跡である。
「なんだこれは」
怪訝そうに箱を見つめるアンクの姿に、知世子はまたしても泣きそうになった。
この程度の気遣いすら、彼には与えられなかったのだ。健康そうに見えない人相も、弄ばれつづけた彼の身体がぼろぼろになっていることを示している。
「アンクちゃん、愛を確かめるには二人の体だけでいいの。その変な道具は外して、こっちの使い方を映司くんに教えてもらいなさい」
「道具だと!?」
「ああっちがうんです、これはあの、グローブ的なアレで!!」
気色ばむアンクの右腕を、隠すように抱きかかえる映司も、知世子の目には愛の抱擁にしか見えない。
「映司くん、アンクちゃんに真実の愛を教えてあげられるのはあなたしかいないのよ。よろしく頼むわね」
「いや、だからそういうんじゃなくてですね……」
公言したくないという気持ちはよくわかる。この国にはまだ彼らの愛を受け入れる余裕はない。しかし知世子だけは知っている。彼らの純粋な愛を。
「だいじょうぶ、比奈ちゃんにはナイショにしておいてあげるから」
アンクにいい感情を持っていないらしい彼女には、少し刺激の強すぎる話かもしれない。やがて彼ら自身から話すのを待とう。それまでは自分の胸に秘めておこうと、知世子はひとりうなずく。
「ごゆっくり~」
微笑みながら部屋のドアをしっかりと閉め、じゃまにならないよう階下へ向かう。
その胸には、世界を敵に回しても二人の青年の将来を応援しようという、固い決意が満ちていた。
二人はしばらく呆然と、閉まったドアを見つめていた。
「……オス同士で卵ができる心配はないだろう」
信吾の記憶を探ったらしいアンクが、面倒くさそうに呟いて渡された箱を放り投げようとする。
「わかってると思うけど人間は卵で生まれないからね。それに感染症予防とかいろいろあるんだって」
映司はアンクの手からそれらを奪い取った。知世子がなにをどう誤解したのか、だいたいわかってはいたけれど、どう訂正したらいいのかもわからない。彼女は今まで以上にアンクを苛立たせることになるだろうが、結局はどれもアンクの自業自得なのだ。
「はい、どいてどいて。俺もう寝たいんだよ」
さすがの彼も毒気を抜かれたはずだ……と軽く押し返したのが、逆効果だったらしい。
「俺に命令すんな!」
苛立ちに任せて映司の手から箱を奪い返したアンクは、猛禽の爪でその紙箱を全て握りつぶす。さらにかたちの崩れた箱をいちいち引き裂くものだから、避妊具のパッケージが映司の上にばらばらと降ってきた。
「あーあー、どうするんだよこれ……」
映司はため息をつきながらひとつひとつ拾い集める。パッケージが破けてしまったものもある。中身は無事らしいが、使わないのなら意味はない。
「もったいないなあ」
ぼそりと呟いたのを耳さとく拾い上げたアンクが、にたりと不穏な笑みを浮かべた。
「使えばいい」
「はあ!?」
映司に馬乗りになったままのアンクは、外装の破れた包みをつまみ上げて興味深げに眺める。その表情は嘲りと蔑みの色を帯びていた。
「はっ、ここまでするか。卵はいらないが欲望は満たしたい、というわけだ」
「その卵って、わざと言ってるでしょ」
驚異的な学習力で現代社会の知識を吸収したこの怪物が、生物として最も基本的な生殖機能について理解していないわけがない。ただ見下していたいのだ。
「おまえが使うか、この身体が使うか……選ばせてやる」
「どっちもやだよ……むぐっ!?」
即答しかけた映司の口を、アンクは再びつかんだ。
「おまえじゃなきゃあの女でもいいんだぜ? それともこいつの妹にしようか……人間は血縁との交配もいやがるからな」
凄む表情はたしかに迫力満点だが、実際のところ知世子にはあの調子であしらわれるだろうし比奈には逆に締め上げられるだろう。それでなくとも、計算高い彼がこの住処を失うか居づらくなるような行動を起こすわけがない。
心配することはないけれど、こんな状態が長引くのはよくないとも思うから難しい。
そもそもアンクの目的は性欲を満足させることではないのだから、なにか別のストレス解消法を与えれば済む話だ。しかしそれが具体的になにかと考えると、映司も見当がつかないのだった。
表向きは焦りを見せない映司に、アンクのほうが焦れている。さっきの脅迫が無効だということにも気づいたようだ。
「くそっ、これじゃウヴァだ……」
思慮の足りない、もしくは安っぽい脅迫と言いたいらしい。自覚はあったのだと思うと、こんな状況なのに噴き出してしまった。
くすくすと笑う映司を見下ろし、アンクの顔からいっさいの表情が消えた。目が冷たく細められる。
あ、と気づいたときには遅かった。
「……っ」
下着を引きずり下ろされたかと思うと、素早く急所を掴まれていた。
その手は人間のものではなく、彼の本性だった。人の肌とはかけ離れた硬い羽毛と鱗の感触。鋭い爪の先が腹を刺すたび、痛みと恐れに身をすくめてしまう。
なにより恐ろしいのは、人間の頭では理解しがたいけれど、その掌についている「口」だった。歯も舌もない、大量のメダルを体内に吸い込むための、ブラックホールのような穴。
「あ……っ」
背筋を寒気が駆け上がっていく。アンクが「手」を動かすたび、その「口」が映司の陰茎に吸いつくような感覚を与える。
その「口」がメダル以外のものを吸い込むのも見たことがあった。その気になればアンクは映司の一部さえ食らうことができると、語らずに知らしめているのだ。
「やめっ、アン……」
思わず彼の服をつかんで懇願すると、無表情だった顔に凶悪な笑みが広がっった。
嫌がれば嫌がるほど彼を悦ばせることになる。それはわかっているが、かといってこちらも男としての危機だ。
映司は恐怖で荒くなる呼吸を必死に鎮めながら、殊勝な顔で上目遣いに訴えてみる。
「わかった、俺を好きにしていい。だからまずその手、離して、ね?」
「ほぉ?」
ゆるめられた手をすかさずつかんで、ひとまず最大の危機は脱した。
「その代わり、他のだれも傷つけないこと。もちろん刑事さんも込みで」
言いながら彼の鼻先にコンドームを差し出す。ここは譲れない。
アンクは不満そうに呻ったが、自由な左手で映司からコンドームを取り上げただけだった。
「おまえだけは、好きにしていいんだな?」
「明日も元気で働けて戦えるくらいなら」
にっこりと笑顔で言ったのがまずかった。
「ふざけんな!そんな器用ないたぶり方ができるか!!」
大声で怒鳴ったアンクは鳥の手を収めると、細くなった腕でするりと映司の手から逃れた。
そして映司を押しのけ、そのままベッドに倒れ込む。いや、しっかり枕の上に頭が乗っているのと、ベッドのセンターに陣取っているところから見て、映司にこのベッドを使わせまいとする強固な意志が伝わってくる。
「地味にクるなあ……」
嫌がらせとしては今までの中でいちばん幼稚だが、意外にそんなものが有効だったりするのだ。
半裸の映司は肩をすくめ、ひとまずベッドの上や下に散らばったコンドームを拾い集めた。
無傷なものだけまとめて、知世子がしまっていた引き出しにもどす。なにか言われるかもしれないが、この際知世子の脳内設定につき合うことも必要になってくるだろう。
毛布を床に敷いて寝ころがった映司は、彼がほんとうにその気になったらどうしていたのだろうと考える。
映司がメダル集めの道具であるかぎり、アンクは映司の身体を傷つけることはできない。だがそれは映司も同じだった。アンクが泉信吾の肉体を使いつづけているかぎり、アンクを監視しながら同時にアンクを守らなければならない。この先もともに行動するなら、お互いにダメージが小さい妥協案を考える必要があった。
「どうしたもんか……」
呟きながらも、あまり深刻に悩んではいない自分に気づいてはいる。そのときになれば、それなりに対処すればいい。今日もなんとかなったのだから、明日もきっとなんとかなる。
映司が穏やかに寝息を立てはじめるまで、そう時間はかからなかった。
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