魁利/透真
『自分より大きくて強いやつなんて、いくらでもいるんだぞ。危ない目に遭ったらどうするんだ』
いつもギリギリで大怪我だの警察沙汰だのは免れていたから、そう言われても実感がわかなかった。兄の言葉は中身のない空虚な小言に過ぎず、反発と嘲笑でさらに兄を怒らせていた。
子供っぽい年下に興味なんかなかったはずなのに、アルコールのせいか苛立ちと欲求不満を妙な方向で初美花にぶつけようとしたのは、ほんとうにどうかしていたとしか思えない。
どれほど明るくポジティブに見えても、彼女はそのへんを歩いている頭のゆるい女子高生とはちがう。理解不能なほどに繊細なところがあって、それを取り扱う技術は魁利も透真も持ち合わせていない。そんな壊れ物に荒っぽく触れようとしたのだという自省は魁利にもあった。
「おまえ……ゆうべの初美花と同じ顔してるぞ」
だから、その言葉の意味がわからなかった。わかりたくもなかった。彼女よりずっと強いはずの自分が、透真に対して「身の危険」を感じたなどと。
わずかながら相手のほうが体格がいいのは知っていた。力もそれなりにある。本気で殴り合えばけんか慣れしている魁利が勝つかもしれないが、それでもただそこにいるだけの透真に怯んでしまった。具体的にどうされると考えなくても、自分の中のなにかを浸食されそうな恐怖に襲われた。
だから、文字通り噛みついた。同じダメージを与えてやりたかったのか、今となっては判然としない。だが透真は少しもこたえたようには見えなかった。
「べつに、怖くないからな」
理由を問う魁利に対して透真が無感情に言い放った言葉は、魁利に興味がない、侵犯する気などないという宣言だったのだと思う。
その言葉にどこか安堵した自分にも、その気もないのに平然と魁利を屈服させられる透真にも腹が立った。一方で不毛だという自覚もあって、結局反撃も不発に終わったまま、自分のベッドに逃げ戻る。
もともと夫婦の寝室だったのか古びたベッドは二つ仲良く並んでいたが、最初に部屋の両端へ動かした。目を開けてすぐに顔を合わせるなんて冗談じゃない、という点で相談の必要もなく意見が一致したからだ。
窓際にあったソファをそのあいだに置いたのは、二人とも赤の他人とできるだけ距離をとりたかったからだろう。そこは共有スペースとでもいうべき場所なのだろうが、そのソファを二人がいっしょに使うことはない。どちらかが占拠しているときには、片方が遠慮するのが常だった。
さっきまで魁利が寝そべっていたそのソファで、今は透真が分厚い洋書をひざに乗せ読んでいる。
この部屋の調度とともに置いてあったフランス料理のレシピ集だそうだ。透真はすることがなくなると、その重い本を持ち出しては一ページずつ丹念にめくっていた。
今、この部屋で魁利の居場所はベッドだけだ。追いやられた気がして、むしゃくしゃした気分を抱えたまま寝返りを打った。
その夜、隠れ家に戻ってきた三人の機嫌は今までにないほど悪かった。
魁利はシルクハットをテーブルに叩きつける。
「ふっざけんなよ!」
コレクションを眼前にして、ターゲットに逃げられたのだ。敵を足止めしようとした透真とそれを援護しようとした初美花が互いに邪魔し合い、追いかけようとした魁利に攻撃が当たってしまった。直撃は免れたが、かすった腕がまだ痛む。
「仕方ないよ、情報より敵の人数多かったんだしさ」
フォローしようとする初美花の言葉も今は虚しく聞こえる。
「勝手に動くからだ。足を引っぱり合うために三人いるんじゃないぞ」
「どっちが足引っぱったんだよ……」
「つぎつぎ! またがんばればいいって!」
今にも掴み合おうとする男二人のあいだに、初美花が割って入るがそうたやすく収まるものでもない。
「おまえもテキトーなこと言ってんじゃ……」
努めて明るい声を上げた初美花とそれに当たろうとした魁利に、透真は冷たい一瞥を向ける。
「……次のチャンスがあればな」
言い捨てた彼は靴音も荒く部屋へ戻っていった。
「なんだよあれ……」
頭に血が上り、彼のあとを追って階段を駆け上がる。二人部屋に飛び込むと、透真が苛立たしげにジャケットをソファへ放り投げていた。
「なんもかもオレらのせいにしてっけど、そっちが一人で先走るからしくったんじゃねえの」
怒りを隠そうともしない目がこちらを睨みつける。カフスを外しながら、透真は皮肉たっぷりに口をゆがめた。
「失敗を他人になすりつけて気が済むなら、いくらでも喚け」
「てめ……」
勢いよく掴みかかったせいで、不意を突かれた透真もろとも床に倒れ込む。背中をしたたかに打ちつけた透真が呻いたが、気遣う余裕も理由もない。
「なんのための三人だって!?」
透真の肩をつかんだ白い手袋に、赤い染みが広がっていく。それに気づいた透真がはっとこちらを見上げた。
「おまえ、怪我して……」
「どうでもいいだろ今は! 協力できなきゃ、性格歪んでるだけやつといっしょにいる意味なんかねえんだよ!」
殴ってやろうと拳を握りしめた刹那、腕に痛みが走って思わずうずくまる。混乱の中、どちらの攻撃が当たったのかは三人のだれにもわからない。だからそのことを責めるつもりはなかったが、この状況だと透真のせいにしたくなってくる。
「……くっそやっぱ痛ぇ……」
透真がため息混じりに身を起こした。
「脱げ。こっちまで染みてきた」
見下ろせば、言葉どおり白いシャツに点々と赤い染みがついている。彼が怪我をしているわけではないとわかっていても、ぎょっとする見た目ではあった。
「話はその後だ」
「……………」
気持ちは収まらないが、痛みが強くなってきているのも事実だ。血まみれの手袋を外し、よく見れば袖口に血がにじんでいる赤いジャケットを脱ぎ捨て、シャツをベストごと肌から引き剥がす。思ったよりも傷が深い。道理で血が止まらないわけだと思う。促されるままソファに腰を下ろしてクッションにもたれた。
透真が手早く血を拭って手当てしていくのを、ただ眺める。痛いと騒いでも意味がないから、声を殺してひたすら耐えるしかない。
控えめにドアを叩く音がした。初美花だ。ところが透真は答える気配もなく、ただ包帯を巻いている。仕方なく「入れよ」と声をかけてやると、そっと開いたドアの隙間から彼女がおずおずと覗き込んできた。
「あれ……」
意外そうな声を上げたのは、すごい剣幕で部屋に入っていった二人がけんかもせずソファに座っているせいか。しかしすぐに真剣な顔で駆け寄ってきたところを見ると、彼女も仲間の負傷については気づいていなかったらしい。
「魁利、その怪我……」
テーブルの上にある血のついた脱脂綿やシャツが、余計に不安を煽ったようだ。
「なんともねえよ。ちょっとかすっただけだって」
「ごめんね、あたしが当てちゃったかも……」
「だからだいじょぶだって、だれのせいでもねえよ」
うつむいていた透真がわずかに頭を上げてこちらを一瞥するが、無視して初美花をなだめるのに専念した。
「だからさ、今度はもうちょっとしっかり、事前に打ち合わせて……」
「魁利」
包帯を巻き終え、それまで一言も口をきかなかった透真が初美花の言葉を遮った。
「……歪んでるのは、元からだ。おまえらに合わせていい顔をするつもりもない。だが協力が必要なのは認める」
文脈がわからない初美花はきょとんとするが、魁利のほうは思わず噴き出してしまった。
まさか気にしていたのか。その話はとっくに終わったと思っていたのに。
痛みのことばかり考えていたせいか、いつのまにか怒りや苛立ちは収まっていて、だからよけいに神妙な顔をしている透真の様子が愉快に見える。
「どっか歪んでなきゃ、泥棒なんかになってねえよ。オレも初美花も」
「まあ、そうかもね」
大切な人のために、すべてを捨てて。普通に暮らしていたら一生知り合うこともなかった連中と一つ屋根の下で、人には言えない秘密を共有して……。
「まだあきらめるのは早いでしょ」
初美花の言葉で閃いて指を鳴らす。
「そうだ、オレのジャケットに入ってるもん出して」
「え?」
彼女は首をかしげながら、床に落ちていた赤いジャケットを拾い上げて胸ポケットからカードを取り出した。
「これ……さっきの地下クラブの招待状?」
「なんだと?」
客に渡されていたのを戦闘中の混乱に乗じてかすめ取ったのだが、作戦の失敗ですっかり忘れていた。
「それに書いてあるとおり、系列店が他にもあんの。そこ叩いていけば、必ずやつにたどりつくってわけ……」
「次のチャンスか」
透真が呟いた。その声だけではどういうつもりか判断できなかったが、少なくとも「次などないかもしれない」と思っていた先ほどまでとはちがう心境だろう。
「チャンスは待ってちゃダメなんだよ、こっちから奪いにいかなきゃ」
「さっすが魁利!」
「だろ?」
単純な初美花とはわかっていても、賛辞は素直にテンションが上がる。さっき瞬間的に沸き上がった頭はすっかり醒めていて、「次」のことも冷静に考えられるようになっていた。ほっとしたのかあくびを噛み殺す初美花に、寝ていいぞと笑いかけるまでには機嫌が直っていた。
「じゃあね、おやすみ」
「おう、寝坊すんなよー」
「それは魁利でしょ!」
普段どおりの憎まれ口と笑顔がドアの向こうに消え、大きく息を吐き出す。
「あー疲れた……」
包帯の巻かれた腕を眺めながら、透真のひざの上へ倒れ込む。とっさに文句を言おうとした彼を遮り、わざと大きな声を上げた。
「腕も痛ぇし、明日は店出れないわ……」
「なんともないんじゃなかったのか」
ため息混じりの声が頭上から落ちてきて、それから無造作に後頭部をつかまれた。
「重い」
「気にすんな」
着替えるのも、自分のベッドまで戻るのさえも億劫だった。透真はベストもタイも外していないが知ったことではない。血がついたシャツを洗うのも、どうせ透真だ。
透真のひざを抱え込んだまま目を閉じる。頭の上から舌打ちが聞こえたが、あきらめたのか彼もソファにもたれかかった。頭の上に置かれた大きな手が、無意識なのか動物をあやすように髪をいじっている。
ただそうして互いの体温を感じているだけの時間は、不思議と居心地の悪いものではなかった。
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