往壓/放三郎
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邂逅
腹に響く音が、近づいてくる。
まただ。
往壓はうんざりといった顔で息を吐き出した。昼間は玉兵に追いかけられて釣りかけた魚を逃すし、夜になれば雨雲もないのにこの雷。それが雷でないのは知っていたが、深く考えないことにしていた。面倒事は御免だ。
無視しようと決めたそばから、ひときわ大きな音が鳴り響いて思わず空を仰ぐ。夕立ならばさっさと来ればいいものを。だが来るのは夕立ではないのだ。それがわかっているだけに、ますます気が滅入ってくる。
「そこの浪人」
「あ?」
ふり返ると、身なりのいい侍が立っていた。
歳はわからないがそれほど上ではないだろう。着物も本人もぱりっとして、千代田のほうから来たのだと知れた。
「なにか……聞こえるのか」
「……いや。あんたには聞こえるのか」
ぞんざいな口調で問い返すも、相手は無礼だと憤る様子もない。
「いいや。残念ながら私にはなにも聞こえぬ」
真顔でそう答え、なにもない曇天を見上げる。
「残念ってあんた……」
引っかかるものを感じてさらに尋ねようとしたとき、再び雷が鳴った。近くに落ちたのかと思うほどの轟音に顔を上げると、曇った夜空に大きな影がぬっと突き出す。
「おい、ありゃあ……」
呆然と見上げる往壓の肩を、若侍が掴んだ。彼は見も知らぬ浪人を庇うように往壓の前に立ち、夜空の影を見上げる。
「やはり神鳴りが聞こえていたのだな!?」
「神鳴り?」
だが往壓の問いに若侍が答える隙はなかった。
大きな筒を何本も束ねたようなそれは、生き物のようにこちらを向いた。筒の中が火を熾したように赤くなり……
「!!」
地面に転がった往壓は、今まで己が立っていた地面が焦げて抉れているのを呆然と眺める。往壓を突き飛ばして自らも転がった侍はさっさと身を起こし、刀に手をかけている。
「おい、あれとやり合う気か……」
「お頭!」
往壓の声を遮り、かん高い子どもの声が聞こえる。見れば、前髪付きの童と(生意気にも二本差しだ)、湯上がりかと思うほど艶めかしい女、それから槍を持った熊のような大男というちぐはぐな連中が、侍のそばへ駆け寄ってくる。
「お頭、大事ないですか!? その汚い男は!?」
「偶々行き会ったのだ。それより、この男……」
「また来ますよ!」
短筒をかまえた女が(その声はどう聞いても男だったが)、空を仰いで叫ぶ。化け物が再び火を吐こうとしているのを見て、往壓と奇妙な四人は築地の陰に駆け込んだ。
「宰蔵! アビ!」
「はい!」
「承知!」
童が手にしていた何本かの扇を広げると、先から飛び出した糸が投網のように化け物の身体を縛る。そこへ、熊が奇妙なかたちの槍を投げつけた。一本の槍はどういう仕掛けか何本もの槍に分かれて化け物に向かっていったが、突き刺さることなく筒に当たってばらばらと落ちてしまった。
「アビの槍でも敵わぬとは……」
侍が悔しげに呟くのを聞いて、往壓は彼の顔を見る。彼はまっすぐ化け物を睨みつけていた。
「なあ、お侍さん……」
彼の肩に手を置く。
「なにをしている、さっさと逃げろ」
そうはいくまい。化け物の先触れさえ聞こえぬ身でありながら、行きすがっただけの浪人を護ろうと化け物の前に立ちはだかった男だ。このまま見捨てていっては寝覚めが悪いというものだろう。
「さっきの礼をさせてくれ」
「なに?」
先ほどの投網で、大筒の化け物は身動きが取れずもがいていた。なんとかならないこともなさそうだと往壓は算段をつける。悪くしてもこの江戸から浪人が一人ばかり減るだけだ。
往壓は曇った夜空を突く影を見上げて、苦く笑った。
「面倒事は御免だと、てめえで言ったじゃねえか……」
「これが漢神……初めて見ましたよ」
「えどげん! 私にも見せろ!」
「ほらご覧、列甲と書いてある」
男の声をした女と、男か女かもわからぬ童が、小さな珠を手にはしゃぎ騒いでいる。
「漢神顕現か……」
そう呟いた若侍は、珠よりもそれを出した浪人に興味があるようだった。巨大な化け物を単身打ち払った男に、侍は真正直に頭を下げる。
「蛮社改所筆頭、小笠原放三郎と申す。御身の力、是非……」
「ばんしゃ……? よくわからねえが、俺ぁ只の浪人だ。お侍さんに頭を下げられる覚えはねえよ。じゃあな、礼はしたぜ」
話がややこしくなる前に手を振ってその場を立ち去ろうとすると、目の前に大男が立ちはだかった。無言で見下ろされ、思わず怯みそうになる。
「おいおい、怠け者が久方振りに働いて疲れてんだ、寝床に帰してくれても罰は当たるめえ?」
「じゃあせめて、お名前だけでもお聞かせ願えませんか、旦那?」
横からしなを作った声がかけられる。男だとわかっていても色っぽい流し目に、往壓は思わず目を細めていた。
「竜導……往壓」
おとこ女の色香に負けて不承不承名乗れば、童も口を挟んでくる。
「大層な名だな。旗本の御落胤とでも言う気か?」
「さあな……そうだったとしても、今の俺には関わりねえことよ」
曖昧に笑って少年を見下ろす。背丈の割りには体つきや顔のつくりに男らしさが感じられないのが奇妙だった。
「何者かは些事に過ぎない。要は、おまえが漢神を操る力を持っているということだ」
若侍の言葉に、往壓はため息をつく。半ばわかってはいた展開だ。
「小笠原さんといったかい。俺ぁこの通りの根無し草だ。しかも枯れかけときた。そらぁ、あんたらより長生きしてるぶん、知ってることもいくらかはあらぁね。だがどれも大したもんじゃねえ。今さらご公儀のためにできることなんぞ……」
「何故だ?」
はっきりとした声が、往壓の言葉を遮る。
「歳や身分などなんの意味がある。力を持っているのだ、何故世のために使おうとは思わぬのか?」
「……………」
往壓は今一度、その男を見た。
どこから見ても隙のない武家だ。その後ろには、女のなりをした男、前髪付きの坊主、毛皮を着た山男。異様な三人を従え、彼は揺るぎも恥じもせず、そこに立っていた。
そして今、老いた浪人に手を差し伸べている。憐憫で救ってやろうというのではない。この竜導往壓の力を欲しているのだ。それも、この江戸のために。
「化け物より、希有な御仁だ……」
往壓は口の中で呟いて、一人笑った。
世のため人のためなどという世迷い言を信じるには、歳をとりすぎている。給金付きの落ちついた暮らしも、その日暮らしが板についた今では煩わしいだけだ。
だがこのまっすぐな目には逆らえそうにない。
「いいぜ……俺の力、預かってもらおうじゃねえか、小笠原さん……」
江戸のためでも、己のためでもなく。
ただこの男のために、永いこと持てあましてきた忌まわしい力を使おうと心に決めた。
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