七海/伊地知
【九.境界喪失】
◆
交通の便がよくない地方都市での任務で、七海の運転手として同行した。
いちおう関東圏ではあるから日帰りの予定だったが、毎度のことながら後ろ倒しで全て終わったころには、空に星が瞬いていた。季節外れの暑さもあって、スーツの中がじっとりと湿っていて気持ち悪い。
「頭から水をかぶりたい気分ですね」
忌々しげに呟く七海の声は疲れきっていた。残業どころか一日拘束されている。
「ええ、本当に……。このままお帰りになりますか。高速に乗る前にお食事されたほうがいいかと思いますが」
どんなに急いでも、都内に戻れるのは真夜中になる。七海は乱れて落ちてきた前髪を邪魔そうに払った。さすがのポーカーフェイスも疲労が色濃い。
「駅前のホテルにでも泊まりましょう。いいかげんシャワーも浴びたいですし」
「かしこまりました。今からこの近辺ですと、普通のホテルになりますね」
高専関連の宿泊施設は多いが、あいにくこのあたりにはない。駅前ならビジネスホテルがありそうだが……。
「どこでも結構、問題なければツインでお願いします」
「はい……えっ?」
準一級以上の術師には、ビジネスホテルであっても一定ランクの部屋を用意することになっていた。
どんなに現場から遠くなっても「高級旅館じゃなきゃ嫌だ」「伊地知は隣の部屋ね」とごねる五条相手を例外として、同行の補助監督は安い部屋か別のホテルに泊まる。厳密なルールではないが、慣例として七海も承知しているはずだった。
だが一級術師は真顔でサングラスを押し上げる。
「本来なら、直帰で私の部屋に来ていただくつもりでいましたので。ベッド一つでは体裁が悪いでしょう」
どちらにしても、伊地知を「補充」する気だったということで。
「ぉふ……」
相変わらず攻撃力の高い言葉に、つい胸を押さえる。自然な流れだとはわかっていたはずなのに、改めて宣言されると気持ちがついていかない。
「手配します」
術師の要望にはできる限り応えるのが、補助監督の務め。これはあくまで仕事の一環だ。
週末で部屋はほぼ埋まっていたが、部屋は確保できた。日帰りをあきらめたスーツの男二人という取り合わせは、とくに不自然ではない。
そんな「体裁」を取り繕いながらも、ここまで仕事モードでやってきた伊地知の「体裁」がどこまで保つかはわからなかった。
なんの色気もない部屋に入った七海は、ジャケットを脱いでハンガーに掛け、背中の武器を下ろした。襟からネクタイを引き抜く勢いが、彼の疲れと苛立ちを示している。
それから、ハンガーを持ったまま手を差し出してきた。
「君も」
「いえ大丈夫です、自分で……」
だが、脱いだ上着はすぐ七海に奪われてしまう。
「すみません、そんなことまでしていただいて」
頭を下げた瞬間、急に目眩がしてよろめいた。
「伊地知君!」
七海が咄嗟に腕を伸ばしてくるが、壁に手をついてなんとか持ちこたえる。
「どうしました」
「いえ、大丈夫です……」
原因はわかっていた。
七海のせい……正確にいえば、七海に対する自分の緊張が切れたせいだった。
任務直後の殺気立った呪力、汗混じりの薄れたトワレ、まとわりつく呪霊の残穢。現場や車内ではあえて意識の外に置いていたそれら全てが、部屋というプライベートな空間に囲われて一気に襲いかかってきた。
立ちくらみを起こすほど濃厚な「七海建人」が、伊地知を覆っている。
「あの……」
ネクタイを緩めながら、上目遣いに相手を窺う。サングラスを外した七海と目が合った。
「今……でも、よろしいでしょうか」
「私はいつでも歓迎ですが……風呂上がりのほうがいいのでは」
彼が戸惑った表情を浮かべるのを見て、馬鹿なことを言ってしまったと気づく。潔癖な彼が、こんな状態で触れ合うことを許すわけがない。
「そ、そうですよね、失礼しました……バスルーム、お先にお使いください」
無意味に眼鏡を直して携帯端末を取り出す。こういう時に限って、急ぎの依頼や五条の無茶振りはない。帰りが明日になることは連絡済みだし……。
「伊地知君」
「はい」
振り向くと、七海がベッドに腰を下ろしている。シャツのボタンを一つ外して、彼はこちらに手を伸べた。
「お願いします」
「……!」
一気に体温が上がる。
七海から求められれば伊地知は逆らえない、という図式を用意してくれたのだ。
「失礼、します……」
その手を取って、厚い肩に腕を回した。そこで眼鏡を外し忘れたことに気づき、あわてて頭の上に引っかける。いつも彼がそうするように頬を寄せると、お互いざらついた感触が肌を刺した。
抱き返してくる七海が、満足げに吐息を洩らす。汗と残穢にまみれていても丸一日ヒゲを剃っていなくても、七海は伊地知に触れることを心地よいと感じている、その事実がぐらついた平衡感覚を完全に麻痺させた。
誘い込まれるように、彼の口元に噛みつく。
それほど体重をかけたつもりはなかったが、二人はベッドに倒れ込んだ。七海の筋肉が伊地知一人支えられないわけはなく、あえて力を抜いたのだとわかる。彼を押し倒す形になって、焦りながらも勢いに身を委ねた。火照りを引きずっているせいか、二人とも初めから息が荒い。
厚い胸板が自分の下にある。大きな手が背中に回されている。汗とトワレと呪力と……。
「あ……」
まずい、と自覚した時にはもう遅かった。昂ぶった熱が下半身に集まり、「反応」している。腰を抱かれていて密着しているから、相手も当然気づかないわけがない。
「伊地知君……」
「っ、ごめんなさい!」
何を言われるのも怖くて、両手で顔を覆った。七海の腕は変わらずに伊地知の体を抱えていて、逃げ出すどころか起き上がることもできない。
「すみません、自分の勘違いだとわかってはいるんです! 本当は接触時間なんて関係ないのについ引き延ばしてしまって、アナタの呪力と存在をずっと感じていたいという欲求が先走っている自覚はあります! 全部エゴなのはその通りなんですが、今までそういう対象としてアナタを見ていたわけではなく……でもこんなことを繰り返して何も感じないというのも生理的に難しくてですね……」
早口でまくし立てる伊地知を、七海がどんな表情で眺めているか確かめる勇気はない。
その気になればもっと合理的にこの術式を得ることもできたのに、七海は食事の時間を共にし、自宅への立ち入りを許し、無防備な睡眠の時間まで共有している。15cmどころかゼロ距離の関係を許してくれている。伊地知なら安全だと信じているからだ。
本来なら孤独を愛する彼のプライベートに入り込んでおいて、信頼を裏切ってしまった。
「……………」
深々と息を吐き出すのが聞こえ、もう終わったと絶望して目を閉じた。この状態から挽回できる要素はない。どんな罵声も暴力も甘んじて受けるしかない。むしろ罰を受けて許されるなら、自分から請いたいほどだった。
七海は冷たい声で呟く。
「久々に、自分に対して失望しています」
「はい……?」
相手の言っていることが理解できないのは、混乱しているからか。
動けない伊地知を、七海は強く抱きすくめた。
「このところ、君の時間をどうやって掠め取ろうかと、ケチなことばかり考えていました。恋のようだと微笑ましく思ったこともありましたが、そんな慎ましやかな話ではないと気づかされましたよ」
せめて恋ならまだ解りやすかった、と今更悔やんでも仕方ない。欲望が先行してしまった後では白々しくさえある。
仰向けに倒れていた七海が、伊地知を脇に放り投げたかと思うと、動きを封じるかのように乗りかかってきた。筋肉の鎧で覆われた重量が胸にのしかかる。
呪霊の囮に使われたあの時のように。
「今度は、芝居ではなくていいですね」
あの時と同じくネクタイを解かれ、しかし今度は本当に顔が火照った。期待と羞恥と疑惑が、己の裡で上位争いをしている。
「無理なさらなくても……」
「何が無理なんです?」」
頑丈な手が有無を言わさず顎を掴む。
なけなしの勇気を振り絞って、真上から覗き込む相手と目を合わせた。怒っているようにしか見えないが、たぶん困っているのだ、と読み取れるようにはなっている。
まだ事態を完全に把握できてはいないものの、自分は七海を困らせているのだ。
「あの、本当に申し訳ありません……」
「謝らないでください。私があまりに無神経すぎました」
険しい表情は、自分を責めているのか。七海は今にも相手の首を落としそうな殺気とともに、伊地知の唇を指先でなぞった。
「君の一部だけを頂こうなどと、謙虚な考えはもう捨てます。君の時間も、心も体も呪いも、私には必要だ。粘膜の接触だけで足りるわけがない。許されるなら、今ここで全て奪いたい」
「は……」
術式だけではない。貧相な肉体も、身の程知らずの欲望も、伊地知自身が「足りない」と言ってくれている。それはまるで……。
「呪いですよ。君からの『縛り』に甘えすぎていた。私の『縛り』も受け入れてくれますか?」
相手に呪いをかけ、縛りを課すことに臆病だと自覚していた二人が、何故か今、相手への気持ちで雁字搦めになっている。
現実的には不可能だとわかっていても、望まれるだけの全てを捧げていい。こちらに七海を受け止めきれる度量は全くないが、彼の隣を歩き続けられるよう、努力はしていきたい。
という想いが、七海の不機嫌そうな困り顔と相対していることで、上手く言語化されなかった。
「は、はいっ! 誓います!」
「……………」
一瞬の間の後、七海は堪えきれないといった様子で顔を背け、そして噴き出した。
「へっ!?」
彼らしくもなく、肩を震わせて笑いつづけている。
「確かに、結婚は縛りとは言いましたが……」
今の今まで、七海が殺人犯になるか伊地知が死体になるかの瀬戸際まで張りつめていた空気が、嘘のようだ。
七海は笑いながら身を起こした。差し伸べられる手をなんとなく取って、伊地知も起き上がる。
「いや、はは……ホントですね、教会でもないのに……」
おかしな返答をしてしまった気まずさはあるが、滅多に見られない七海の笑顔を引き出したことに、言葉にできない感慨が勝った。
手を握ったまま、七海が珍しく笑いかけてくる。
「誓いの口づけを、と牧師が言っています」
「どこにいるんですか」
「いなくてよかったですね」
術式上は何の意味もない、触れるだけのキスを交わした。婚姻においては縛りの儀式だが、すでに縛りを課している二人には、決意表明程度の意味しかない。
「呪力量が増えるわけじゃありませんが……」
「承知の上です。もう君からいただくのは呪力だけではありませんから」
そのまま和やかに済めばよかったのだが、浅ましくも収まっていない自分の欲求を思い出してしまった。
「あの……気持ちだけは一人前なんですけど、こういう状況に慣れていなくてですね……」
「奇遇ですね、私もです」
七海は真顔で答え、もう整髪剤の力も残っていなさそうな前髪をかき上げる。
「まず、シャワーを浴びましょうか」
どちらが先にという話でないことは、彼の瞳の色で察した。
ただでさえあまり広くないバスタブが、とても狭く感じられる。
叩きつける水流の下、今まで接触を阻んでいた衣服は何のためにあったのかと思うほど、相手と密着していた。
頑強な体躯に相応しい七海の中心は、伊地知の欲望などおとなしく思える猛々しさで、初めは怯えもあった。しかしすぐに余計なことは考えられなくなっていく。
太くて長い指が伊地知のそれを力強く扱き、自分の熱も押しつけてくる。一人では経験しようがない快感を、他でもない七海に与えられているという事実が、酩酊に近い感覚をもたらしていた。
「んっ、ぅうっ……」
唇を噛みしめてみっともない声を上げないよう耐えたが、七海が頬ずりするように伊地知の顔を上向かせる。そのまま唇が重なり、どちらからともなく貪り合った。今までと変わらない行為が、何の障壁もないというだけで性行為に変貌する。
今までは触れることも考えなかった逞しい首筋に、鎖骨に、胸元に、顔をうずめた。汗も唾液も、シャワーが全て流してくれるからと。
「っ、ぁは……ぁっ!」
元から大して持久力もない熱は、彼の手の中であっさり弾けた。見下ろせば七海はまだ力を失っていない。苦しげに息をつく彼にも、伊地知の奉仕が必要だ。そう思い相手の下肢に手を伸ばしながら、上下する胸元に目をやってぎょっとする。
白い肌に、点々と紅い痣があった。
「すみませんっ、つい……!」
我を忘れて、調子に乗って、などと苦しい弁明が口からこぼれる。
七海が真剣な表情で伊地知の髪をかき上げ、耳元へ囁いてきた。
「もっと調子に乗ってもいいですよ」
「……!」
この人に必要とされている。それ以上に、調子づくことなどあるだろうか。
返す言葉もなく抱きつく伊地知を、七海は優しい腕で抱きとめた。
肩を揺すられて目を覚ます。枕元を探る手に、眼鏡が渡された。
「ありがとうございます……」
眼鏡を掛け、そして自分を覗き込むように七海が立っているのをやっと認める。
「おっ、おはようございます!」
飛び起きると、七海は頷いてベッドから離れた。
「端末はデスクの上で充電中です。勝手ながらアラームは切らせてもらいました。よく眠れましたか?」
「ええ、はい……」
すでに着替えて髪のセットまで完璧に終えているばかりか、武器の装着も済んでいる。ジャケットを羽織れば今すぐ外へ出られる状態だ。
伊地知はあわててメールを確認した。緊急連絡はなし。現在6時過ぎ。4時には起きる予定だったのに爆睡してしまった。
七海は時計を着けながら、事務的な声で言葉を続ける。
「このあたりの飲食店は9時を過ぎないと開かないようです。このホテルの朝食は7時から。昨日は素泊まりで早朝に発つ予定でしたが、この時間ならコンビニよりはここで食べていったほうがいいでしょう」
「あっ、はい、ありがとうございます……」
とにかく支度をしなくては。昨日脱ぎ捨てたシャツはどうしただろうか。
「シャツと下着はそこの椅子の上です。ランドリーで洗って乾かしてあります」
見れば本当にきっちり畳んで置いてある。衝撃にベッドから転がり落ちそうになった。
「あああありがとうございますごめんなさい!」
本来なら自分がやるはずだった仕事だ。術師に下着まで洗濯させてしまった。こんな失態はない。
あらゆる意味でのぼせ上がった状態でバスルームから出て、少し落ちつこうとベッドに腰を下ろしたところで、即寝落ちた覚えはある。心身共に疲れきっていたのだとは思うが……。
大人は、昨日の衝動をなかったことにするのだろうか。互いに素面だった。詳細まではっきり覚えている。
七海が囁いた言葉も全て。
「伊地知君」
彼はまっすぐこちらを向いているが、サングラスが反射して視線は見えない。
「私は君を支配したいわけでも、傷つけたいわけでもありません」
「はい!」
それはよく理解している。
「任務や生活に支障のない範囲で結構です。昨日の『歩み寄り』を踏まえて、今後も諸々おつき合いいただけますか」
「こちらこそ……よろしくお願いいたします」
そうか、「歩み寄り」で「諸々」だ。さすが大人は違う。完全に目覚めていない頭で妙に納得した。
エレベーターの中で、七海の襟元に絆創膏が貼られているのが見えた。何か怪我でも、と考えかけて血の気が引く。犯人は自分だ。
無我夢中で、シャツで隠れるかどうかなど考えもせず痕跡を残してしまった。自分が調子づくと碌なことにはならない。
「あの、本当に申し訳ありません……首の……」
七海は眉ひとつ動かさず、エレベーターの階数表示を見つめている。
「次はもう2cmほど下にお願いします」
「いえ、もう二度と……」
声が消え入る。恥ずかしさと申し訳なさで胃が千切れそうだ。なぜ本人は冷静でいられるのか。
帰路、七海は後部座席でずっと眠っていた。どんなに長時間の移動でも待機でも居眠りなどしない男が。
伊地知を休ませるために、朝まで起きていたのだろう。ランドリーで洗濯をし、時間を確認し、身だしなみを整え、キスマークを発見し……。
帰投が予定より大幅に遅くなったことに関しても、術師の自分が我が儘を通したためということにしてほしい、と言われた。準一級以上はどんな横暴でも大概許されるという、暗黙の了解を利用した形だ。
高速道路に乗ってからは、法定速度を少し超えていた。
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