七海/伊地知
【五.充電不足】
◆
補助監督同士の会話が聞こえる。
「一級案件か……冥冥術師は今海外ですよね」
「七海術師も青森出張で……何かトラブルで長引いてるようです」
「津軽半島の端でしたっけ。移動だけで一日つぶれるとこじゃないですか」
それにしても長い、と伊地知は思っていた。
最後に顔を合わせたのは、半月ほど前。本格的な繁忙期に入ったこともあって、わざわざ会う機会を作る余裕もなくあっという間に時間は過ぎていく。
術式の効果は数日で切れているはずで、彼はきちんと眠れているのかと心配していた。ただでさえ人手が足りずに遠方の出張が多くなる時期だ。今回も七海が派遣されるからには、厄介な案件なのだろう。
せめて担当になれればと思うが、自分は優先的に五条悟に回される。七海のように面倒が少ない術師には、若手がつくことが多い。
「あっ、連絡来ました! 七海術師、祓除完了したそうです。このまま直帰すると」
「直帰っていっても……明るいうちには着きませんよね」
担当者が頭を抱えて呻く。
「明日の報告聞くの怖いなぁ……」
七海はどんなに相手にも礼儀正しく、気遣いを忘れない理想的な術師だ。しかし、笑顔を見せることはほとんどない。現場帰りは殺気を滲ませている。歳の割に親しみやすさの欠片もないのが、若い補助監督に敬遠されている所以だった。
「直帰……」
確かに、ここへ寄る元気はないのかもしれない。そんな時こそ自分の力を使ってほしいと思うのだが、帰りに職場へ顔を見せるほうが疲れるだろう。
それとも……しばらく伊地知なしで過ごしてみて、実はあまり変化がないと感じていたら?
「……!」
今までは七海の誤解か思い込みで、伊地知の術式は最初から役立たずだったということになる。頻繁に伊地知と会う必要はなくなり、合理的な彼からは真っ先に解呪を求められるに違いない。
心臓のあたりが冷たくなるのを感じながら、メール処理に頭を戻す。それ以上考えてはいけない気がした。
その日の夕方、私用の端末が鳴った。七海からのメッセージだ。
『今日は何時に上がれますか』
明日を待たずしての連絡に、少し安堵した。まだ自分は用済みではないらしい。
未処理案件がたまったメール画面と、山積みの書類を交互に見やる。今日も残業確定だが、いつもいつも仕事が終わらない補助監督だと思われたくない。19時45分までには職場を出る、と心に決めて返信した。分単位で期限を意識するのは、時刻を守るのに有効だ。
『では、20:45に』
同じく分単位の時刻指定と、それから位置情報が送られてきた。どこの店だろうと地図アプリで開いてみて、思わず天井を仰ぐ。
「嘘でしょ……」
何度も車をつけたことはあるが、入ったことはない。
部屋番号までは知っている、七海の自宅マンションだった。
「8時43分……よし!」
手土産も用意した。歴代補助監督に受け継がれてきた贈答品リストから、今回は「一級術師への慰労と謝礼の無難な菓子」で外れはない。
意を決してインターホンを鳴らす。それ自体は業務の一環として今までもあったが、オートロックのエントランスを開けてもらい、目的の部屋までエレベーターで上がるのは初めてだった。
二度目のチャイムを押すのは、指が震えた。
ドアを開けた七海が、想像の三倍くらい険しい顔をしていたため、さらに震えた。
トレードマークのサングラスを掛けていないせいか、それとも整えていない髪が額にかかって影が落ちているせいか。突き刺さるような残穢のせいか。
「おっ、お疲れ様です!」
「お疲れ様です。どうぞ中へ」
低い声がもう一段下がっている。
春も遠い北国への出張、予定より長引いた仕事、利便性が低い集落への滞在、乗り継ぎでの長距離移動……確かに、機嫌をよくする要素がひとつもない。
「失礼いたします!」
もう今から自分が叱られるとしか思えないが、今日は労いのつもりでどんな不平不満も受け止めよう。そう覚悟して、脱いだ靴をそろえる。
「遠距離の出張、ほんとうにお疲れ様でした」
「まったく、今回もクソ……いえ、今日はやめましょう。明日まで忘れさせてください」
苛立ったため息とともに吐き出された言葉に、あと100回くらいお疲れ様を言いたい気分になる。なにがどうクソなのか、事後処理担当として気にはなったが、今日は話したくないというのだから従うしかない。
「時間に正確で助かります。そこに座っていてください」
「あっはい……うわ、すご……」
なにがすごいのか具体的に言えないほど、目に入る光景に現実味がない。
広くて片づいたリビング、しゃれたダイニングセット、アイランドキッチン、間接照明、観葉植物……モデルルームだろうか。寝に帰るだけの狭い自室とは雲泥の差だが、七海建人が住むならこの空間以外にありえない。
御三家やその関係者が暮らす空間も目にする機会は多いはずなのに、それなりに距離が縮まった相手が「そちら側」だと知らされて、一気に萎縮してしまった。やはり彼は別世界の存在なのだ。私的な交流があるからといって調子に乗ってはいけない、と自分に言い聞かせる。
「あの、ほんと恐縮です……夕食までご用意いただいて」
「買ってきた惣菜ですよ。作ったのはスープだけです」
しかしテーブルに並ぶのは、あきらかに百貨店地下食品街の気配がする。決して高専の麓にあるスーパーの見切り品ではない。パックのままでなく皿に盛りつけてあるのも自分との格差をひしひしと感じる。
「買い物も料理も食事も、ストレス解消です。お気になさらず」
そう言うわりには少しも解消されていない顔をしている。
食べる量の差が大きいことに対する気遣いなのか、皿から好きなものを好きなだけ取り分けてくれとのことだった。こちらも、食べきらなくてはと焦らずに済むのはありがたい。
「い、いただきます……」
「どうぞ」
手作りだというスープは、どう考えても片手間に作った味ではない。
「美味しいです」
「それはよかった」
本人も食べてはいるが、表情が変わらないので味わっているのか見当がつかない。
おそろしく片づいた空間で、二人きりの食事。自宅なら、夜の静寂に耐えきれずテレビをつけている。しかしこの家には見る限りテレビがないようで、沈黙に耐えかねた伊地知が口を開くしかなかった。
「七海さんは、食べるだけじゃなく作るのもお好きなんですね」
「どうせ食べるなら、美味い物のほうがいいですから」
三人前くらいのサラダをあっという間に平らげた七海は、スープカップに口をつけながら一言付け足した。
「これが最後の晩餐になるかもと思うと」
以前も聞いた。明日ある命かわからない。ならばせめて、今日を。
何もかも一貫しているな、と伊地知は感心しながら切り分けられたキッシュを味わう。野菜と肉が入っているようだが、美味いということ以外は何もわからない自分が情けない。
「覚悟は、あるつもりですが。食事をそういう観点で考えたことなかったです」
時間さえ決まっていないことも多い。仕事が一段落して空腹に気づいた時が食事の、というより栄養補給の時間。食べたい物ではなくその場で食べられる物を、自分よりも同行者優先で。それが伊地知の「食事」だ。
「それぞれですよ。何をしておけば今際の際に後悔が残らないなんて、誰にもわからない。後悔する余裕があるかさえ、わかりません」
七海ほどの術師が、一瞬で呪霊や呪詛師に仕留められる状況は考えにくいが、自分なら十分にあり得る。
死が近すぎて、補助監督たちは逆に直視しない。まともに向き合ってしまっては仕事にならないから。
「私との食事は……大丈夫でしょうか」
「そうでなければ、自宅に呼びつけたりしませんよ」
何しろ表情が険しいままで、本心は読めない。彼が嘘をつかない人物だと信じるしかない。
「高専へのお土産は明日持っていきますが、君だけ特別にというわけにもいかないので、この夕食で勘弁してください」
「いえ、大変恐縮です」
自宅へ招かれる以上の特別待遇はなかなか思いつかない。しかも呼ばれなければ、残業しながらカップ麺でもすすっていたかもしれない身に。
「雪はどうでしたか」
「滞在中はずっと降っていました」
「それは……お疲れ様です」
一級以上の術師は常に不足しているが、一級以上の呪霊は容赦なくどこにでも現れる。現状、七海の仕事は減りようがない。
「こちらはずっと晴れ続きで……そう、裏山の梅が満開でした」
「梅ですか」
七海の顔から僅かに険が取れた。高専の敷地内には四季折々の樹木や植物が植わっていて、小さな梅林もある。もう半月もすれば、校舎周りの桜も咲き始めるだろう。
「私も先週、授業の準備で通りすがっただけですが。まだ残っていると思います」
「明日、寄りますよ」
会話に詰まったら天気の話をしておけとは言うが、高専内の風景は共通認識だから確かに話題が尽きない。花壇の水仙は、梅林の奥の桃は……ぽつりぽつりと覚えている「春」の答え合わせをしながら、いつの間にか皿が空になっていた。
「ごちそうさまでした。大変美味しかったです」
「出来合いで申し訳ありません」
「いえいえ!」
片付けを手伝おうと腰を浮かすが、先に立った七海に制止される。
「君はお客様です、座っていてください」
そう言われると下手に動けない。
「いただいた空也には緑茶が合いそうですが、コーヒーがよければ淹れますよ」
「どちらでも、七海さんと同じで結構です」
さらに自分が持ってきた手土産を出されるとは思わず、混乱しっぱなしだった。
何よりも今日、彼は一度も伊地知の「15cm以内」に入っていない。まさか、ほんとうに伊地知が必要なくなったのか。この食事は、今までの礼と決別の……。
「な……なみさん!」
焦るあまり、椅子から立ち上がる。
「はい」
「僭越ながら、私から接触させていただいても、よろしいでしょうかっ!」
伊地知の決死の叫びに七海はわずかに目を見開いたが、取り出した湯飲みを置いて手を差し出してきた。
両手でその広い手を握りしめる。これで終わりのはずだが、実感がないため逆に不安が大きくなった。
「すみません、失礼いたします!」
なんだこの流れはと自分で思いながら、彼の体に抱きつく。スリッパがすべって前のめりに飛び込む格好になってしまったが、さすがの筋肉は微動だにせず伊地知を受け止めた。
「……………」
いつものトワレではなく、爽やかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。などと言っている場合ではない。
「どう、でしょう……」
伊地知の術式は、術師本人からはほぼ自覚できないのが最大の難点だった。七海からの反応をもらわないかぎり、機能しているかも確信が持てない。
「どう、とは?」
「やっぱり……私なしでも困りませんでしたよね……」
「はい?」
苛立ちのこもった問いかけのあと、深々と息を吐き出すのが聞こえた。なにがあっても声を荒げない代わりに、このため息で周囲を怯えさせるのだ。そろそろと離れようとしたところで、頑丈な両腕が背中に回された。
決して攻撃的ではないが、この腕力からは逃げられない。
「伊地知君……」
「はい……」
気まずさと恐怖で泣きそうだった。なんなら少しだけ泣いていた。やはり解呪だろうか。
「缶コーヒーばかり飲んでいました」
「はい?」
「現場近くのバス停の横に、自販機があって。コンビニもない場所でしたから、そこで毎日コーヒーを買っていました」
息を止めたまま、吐き出される言葉を聞く。
「酷い現場でした。依頼者も被害者もクズばかり……外部の人間には非協力的なくせに、色目を使う者はいる……肝心の呪霊に辿りつくまでにくだらないやりとりや手続きが多すぎて、発狂しそうでした。移動時間で切り替えられるかと思ったのですが、ストレスに晒された期間が長すぎたようです」
低い声で報告されるのは、よくある呪術師の日常ではある。だが他の術師も補助監督もいない中、一人でその任務をこなすのは、七海ほどの術師といえども心身共に負担が大きい。
ドアを開けたときの不機嫌な人相は、気のせいではなかった。
また息をついた七海は、やっと伊地知の体を解放する。相変わらず楽しそうな表情ではなかったが、怒っているというよりは困っているように見えた。
「落ちつくまでは君を無意識に害してしまいそうで……でもやはり最初にお願いすべきでした」
伊地知の肩に手を置き、七海はうなだれる。
「君は自分の力を缶コーヒー1本程度と言っていましたが、その力にどれだけ救われていたかを思い知りましたよ。どうか今後とも、お付き合いいただきたい」
つまり……自分は役に立っていた。
「よかった……」
安堵のあまり、その場にしゃがみ込んでしまう。心配そうに見下ろす七海の顔を真下から見やると、なんだか笑いが込み上げてきた。
「大丈夫ですか」
「この術式が必要とされるなんて、ずっと信じられなくて……今日は解呪しなきゃいけないんだとばかり。でも本当のことみたいだって、今やっと実感が……」
彼が自分を気遣ってくれた結果なのだというのがわかって、本当に嬉しい。そんなに尊重されているということが素直に嬉しい。
やや間があって、大きなため息が降ってきた。
「君は、意外に人を信用しないんですね」
「それは失礼しました」
立ち上がったところで、七海が思いもよらぬ提案をしてきた。
「よければ、泊まっていきませんか」
「いえいえいえ! そこまで甘えるわけにはいきません!」
初めて来た家に泊まるなど、不調法すぎる。あわてて手を振る伊地知に、予想の斜め上の台詞がぶつけられた。
「私が甘えたいと言ったら?」
「え……」
「そんな術式でないのは心得ているつもりですが、一晩充電させていただきたいと」
今の七海には伊地知が「足りていない」ということか。
「ぅはぁ……」
全く何の裏も含みもなく、言葉どおりの意味だとわかってはいても、この顔とこの声で言われると妙な誤解をしてしまいそうになる。
「風呂と着替えは提供します。ベッドは広いので安心してください」
何をどう安心していいのか心の準備ができていないが。
出先でそのまま泊まり仕事になってもいいよう、車に最低限の用意は常にしてある。こちらに断る理由はないのが問題だった。
「あ……朝、5時に失礼しても、よろしいですか……?」
「4時に起こしますよ」
「痛み入ります……」
さっきとは別の理由で、伊地知は顔を覆ってしゃがみ込んだ。
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