七海/伊地知
【八.一日千秋】
◆
鉈が叩き落とされた。
ほんの刹那、怯んだ隙を突かれて両腕が絡め取られる。蛙の舌にも似たその触腕から、水気と粘り気のある呪力が服に染み込んできた。これは厄介だ。
青空が広がる外とは対照的に暗い教室で、七海は迫りくる敵に目を凝らす。
《ぬルヌる・・》
《ゴむ・なイの・・》
耳障りな片言とともに、たくさんの口を持つ呪霊の頭部が近づいていた。
ここはとある高校の旧校舎。元からいかがわしい噂は絶えなかった。教師と生徒が逢い引きに使っていた、いや教師同士だった生徒同士だった、不倫絡みで謎の死を遂げた者がいる……調査結果を読んでいるだけで嫌になるほどの、醜い感情が渦巻く場所だ。
予想と違っていたのは、その中に核となる強力な「呪い」があったこと。それが、複数の低級呪霊を盾にして獲物を待っていたこと。油断していたつもりはないが、獲物と見なされたのは事実で、屈辱でもある。
《おネが・い》
口から伸びた触腕……やはり舌なのだろう……の一本が七海の顔面に突きつけられる。顔を背ければその弱気につけ込んでくるに違いない。
視線を外さない七海の顔を、その舌がぞろりとなぞった。サングラスが床に落ちる。
《ろーショん・・》
舌は七海の唇をなぞり、食いしばった歯を無理矢理にこじ開けようとしていた。
「ぐ……ぅっ」
《しゃ・ぶレよ・・》
抵抗も虚しくそれが口の中に這い込んできて、命の危機を感じる。このまま内臓まで蹂躙されかねない。舌の長さは……冷静に考えながら、顎に力を込めて呪霊に噛みついた。
《!!!》
7:3の急所を食いちぎられた呪霊は、悶えながら全ての口で咆吼する。腕に絡む力が弱まった今しかない。噛みちぎった呪霊の切れ端を吐き捨てて、足下の鉈を蹴り上げた。
もう隙など作らない。腕、胴体、頭、それぞれに呪力を叩き込んで「劃」かつ。反撃の余裕もなく、呪霊は消失した。
「クソ……っ」
祓除とともに七海を拘束していた付着物もなくなったが、口の中の「味」はそのまま残っている。
サングラスをポケットに突っ込み、現校舎の水場まで走った。顔を洗って口をゆすぎ、なんとか不快感を吐き出そうとする。胃液が出るほど咳き込んでも尚、嫌な感触だけが消えない。
「フー……」
しばらく咳き込みと深呼吸を繰り返し、気持ちを立て直す。
今日の担当が伊地知だったら……と思いかけて自分を詰る。彼が今ここにいたら? 何をさせていたというのか。口直しにキスを求めていたとでも?
不愉快な呪霊も下劣な発想も、帳の外に持ち出してはならない。校舎の窓ガラスを見ながら、完全に崩れた髪を後ろへ撫でつけてネクタイを締め直す。それから、帳の縁に向かった。
同行している補助監督は経験が浅いため、あまり不安にさせたくはない。
「どうされました!?」
帳を張っていた新田が、頭も服も濡れている呪術師を見て叫ぶ。
「少し汚れたので洗っただけです」
「今タオル……や、車回してくるっス!」
一瞬で敬語を忘れた彼女は駐車場へ走っていき、七海は晴天の空を見上げた。
仕事は終えたが、酷く惨めな気分だ。あの術師ならどう切り抜けたか、とベテラン術師達のスタイルを思い浮かべる。冥冥であれば、触手の先さえ触れさせはしないはずだ。日下部なら……。
やってきた車に乗り込み、バスタオルを受け取った。
「それとコレどうぞ、お疲れ様です!」
運転席から差し出されたのは缶コーヒー。
「ブラック無糖でよかったっスよね?」
「お気遣い感謝します」
「いやあ、伊地知さんから言われてて……」
新人の彼女と二人で任務に出るのは、そういえば初めてだった。伊地知が指導担当とは聞いている。
「高専へお願いします。報告は向こうでしますので、着くまで休ませてください」
「っス……承知いたしました!」
粗雑な面を見せないよう努めているが、運転は少し荒めか。都市部はそうでもないが、郊外では気が緩むようだ。
途中で複数車線の交差点で信号に引っかかり、大きな舌打ちが聞こえる。
「あのぅ……」
無意識にやってしまったその行為をごまかすように、彼女はミラー越しに声をかけてきた。
「伊地知さんとは、おつき合い長いんスか?」
「はい?」
「たまに時間外にも会われてるみたいなので、仲良いのかなって」
「直接の後輩なので、多少は」
慎重に言葉を選びながら答えた。今の関係は術式が関わっている。情報の開示には気をつけなければならない。
「彼が私に親しみを感じているかはわかりませんが」
独り言のように付け加えた言葉に、新田が「またまた」と笑った。
「ああいう性格の人っスから、自分からは有名術師の後輩なんて言いませんし、高専時代の話は絶対しませんけど。補助監督の中でいえば、ダントツ距離近いと思いますよ」
五条悟、家入硝子、七海建人。自分を含めるのは僭越ではあるが、呪術高専の関係者であれば知らない者はない。そして、いかなる賄賂や便宜を以てしても、決して取り入ることができない顔ぶれでもある。「後輩というだけで」重用される伊地知に集まるのは、尊敬と同情の眼差しだけではない。処世術として、徒に妬まれたり目立ったりする言動を避けているのだろう。
「彼も苦労しているようですね」
「伊地知さん、プライベートは五条特級術師に支配されてるって、笑いながらおっしゃってたことがあって。冗談にしてもキッツ……って思ってたんスけど、七海術師ともおつき合いがあるなら、アレはヘタクソなジョークってことで安心しました」
「……だといいですが」
昔よりはマシになったが、五条は自分の我が儘を通すために他人の迷惑など考えない。相手が自分のペースに慣れるのも嫌がる。伊地知がちょうどよく振り回せる立ち位置なのは、腑に落ちてはいないが納得はできる。
「私も伊地知さん目指します!って言ったら、嫌がられました」
「彼らしい」
心安まる立場ではない。後輩には、もっと穏便な任務につける補助監督になってほしいのだと思う。運転に関しては、もう少し伊地知を見習ってもいいのだが。今もかなり無理な右折をした気がする。
「やっぱ、仲良いんスね」
「……そうなのでしょうね」
本当に「そう」なのだろうか。
術式の仕様上、また関係性の面でも仕方ないとはいえ、七海が必要な時に声をかけることになっている。伊地知からの誘いは一度もない。
必要としているのは自分だけではないのか。
何度目かの信号無視を見なかったことにして、タオルに顔をうずめた。
その商業施設は昼間の営業がメインだから、夕方を過ぎると人が少なくなる。上階の男子トイレはとくに。
個室に二人で入ると、ほとんど身動きが取れない。
七海と伊地知は額を突き合わせるように狭い空間で向かい合った。第一段階、五寸以内の接触。
眼鏡を外した伊地知の頭を両手で引き寄せる。耳から頬に手を滑らせた。第二段階、皮膚の接触。
唇を合わせ、その内側が触れた。第三段階、粘膜の接触……。
舌が触れかけた瞬間、外から足音が聞こえてくる。顔の距離が僅かに離れた。
「!」
衣擦れさえ聞こえてしまう気がして、完全に身を離すこともできない。鼻先を突き当てたまま、意識を個室の外へ集中させていた。
スーツが皺にならないように気遣ってか、伊地知はトイレの壁に手をついているだけで七海の体には寄りかかっていない。
入ってきた男が一番奥の個室に意識を向けたかはわからないが、反対側の小便器のほうへ行ったのはわかる。それから男が用を足して、手も洗わずに出ていくまで、二人ともほとんど息を止めていた。
「……っ」
伊地知がまず先に息を吐き出して、七海の襟元に額を押しつける。
足音が遠のくのを聞きながら、宥めるつもりで彼の耳を食んだ。しかし催促と思われたのか、顔を上げた伊地知が急いた様子で唇を重ねてくる。
接触時間が長ければ呪力の有効期間が延びる、というわけではない。だが、二人とも願掛けのようにそう思おうとしている節はある。この行為が快ければ快いほど、効果が強まると。全く術師らしくない思考だが。
「ん……っ」
相手が苦しげな声を上げたら終わり、と決めていた。もう一度と強請りたくなるのを抑えて、ハンカチを取り出す。惚けた表情で眼鏡を開く伊地知の口元を拭い、自分の口も拭う。
声を出すのはよくないとは思ったが黙って帰るのも気が引けて、意味もなく相手のネクタイを直してから個室を出た。人はいない。
素知らぬ顔で手を洗い、男子トイレから立ち去る。
時間差で伊地知も出てくるはずだが、外で落ち合うことはない。これから二週間程度は「会わなくても」よくなるからだ。接触の段階が上がれば上がるほど、「会わなくてもいい」期間が伸びる。
皮肉なものだ、と思った瞬間、それを皮肉と感じる自分の心を自覚せざるをえない。
術式効果は安定している。「缶コーヒー1本分の」……おそらく本当にそれ以上でも以下でもない呪力には、代償など存在しない。最初からわかっていたはずの事実に、気づかないふりをして彼に責任転嫁していただけ。
必要最低限の接触で、最大限の効果を得ることに、全くといっていいほど意味を感じられなくなっている。
「……もう、会いたい」
革靴の爪先に、伝えようのない言葉を落とした。
猪野が元気よく手を挙げて店員を呼ぶ。
「ハイボールひとつ、あと串盛り合わせ追加で!」
「塩で」
「そう、塩!」
七海はビールのジョッキを片手に、居酒屋の軒先に座っていた。
任務後に寄った高専で猪野と出くわし、彼に誘われるまま路地の奥にあるこの店に連れてこられた。狭い店内はすでに席が埋まっているが、店の前に簡易的な席ができている。
「今年の交流会、東京の一年がヤバかったらしいじゃないですか」
「そうですね。前途有望だと聞いています」
特級過呪怨霊を背負った一年生は、転入前に秘匿死刑対象になった……という裏の情報がなくとも、すでにかなりの噂になっている。
七海自身は学内で見かけた程度だが、剥き出しで抱えている呪力の大きさに慄いた。五条から「本人にも内緒だよ」と無理矢理聞かされた話によると、死んだ恋人を怨霊へと変えた「天才」らしい。焦りや脅威を感じるよりも先に、自分と同時代にばかり「天才」は現れる、と投げやりな気分になったものだ。
「私のような凡人には、無縁の世界ですが」
「いやいやいやいや! 七海サンが凡人なら俺は何なんですって!」
超凡人だろうかと思ったが言わないでおく。
「特級以外は大概凡人ですよ」
「基準!」
まだ若いのだから、この先化ける可能性はいくらでもある。猪野には速く昇級してほしいと本気で思ってはいる。そして自分に楽をさせてほしい。
「ハイボールの方〜!」
奥から出てきた女性店員を見るなり、猪野は七海に目配せを送ってきた。合図されるまでもなく、店員の腕に小さな呪霊が絡みついているのは見えていた。この程度なら放っておいても問題はない。
「ごめんなさいね、今日なんか腕に力入らなくて、一回トレイ置かせてください……」
さっき店内でガラスが割れる音が聞こえたのは、この呪霊のせいか。
ジョッキを受け取ってから、猪野は首をかしげつつ声を上げた。
「おねーさん、なんか虫ついてない?」
「えっやだやだ、どこ?」
猪野は軽く彼女の腕を払うふりをし、呪霊の尻尾を掴んで彼女から引き剥がした。腕を下ろしながら地面に叩きつけたそれを、七海が踏みつぶす。
低級呪霊は呻きも上げず消滅した。ただの蝿頭、二級と一級が二人がかりで祓う相手ではない。
「ちょっと、何もいないじゃないですかぁ。うち、お触り禁止ですからね」
「ごめんごめん、おねーさんキラキラしてるから目が眩んじゃって。見間違えたかなあ」
「おだててもダメですよ……」
居酒屋店員と酔客らしいやりとりがあった後で、猪野は何事もなかったように七海に向き直る。
「こういう時、君の性格は便利ですね」
「どうも……あ、褒めました? 今、七海サンに褒められました俺!?」
「いえ、事実を述べたまでです」
自分にはできない、選ばない方法だと思う。
後から別の店員が運んできた串の盛り合わせがテーブルに置かれ、会話はまた有耶無耶になった。
「何の話でしたっけ……あっ、聞こうと思ってたんだ、伊地知サンと何かしたんですか?」
「何かとは?」
急に名前が出てきても驚かないくらいにはなっている。
「いや、前は一時的なアレかなと思ったんですけど、ときどき伊地知サンに七海サンの残穢見えるんで、何かアレしたのかなって」
ほぼ何も言っていないが、それなりに核心は突いている。昇格を目ざすだけあって……あるいは七海への注意力が他人と違うだけはある、というべきか。伊地知には五条の強力な残穢がまとわりついていて、七海の残穢などすぐにかき消されるはずだ。
「ある種の『縛り』です。それ以上は」
「そッスか」
呪術師が非開示と宣言すれば、それ以上の追及は無意味。仕事だろうと私用だろうと、他人が割り込むことはできない。猪野もあえて尋ねず、ジョッキを傾ける。
「なんか、七海サンらしいっスね」
「らしい?」
らしくないと言われれば片っ端から反論していくつもりではあったが、「らしい」というのは腑に落ちる部分がなかった。
猪野はジョッキを片手に串をつまんでいる。
「これが他の術師なら、俺だってイロイロ思うとこありますよ。どこのどいつだ、羨ましーなオイって。七海サンに術式かけるレベルって何?特級?とか考えちゃいますけど。でも補助監督で後輩なら、きっとそういう問題じゃないんだろうし、仕方ないかーってなりますもん」
「はあ」
自分のせいで伊地知が見当はずれの妬み嫉みを受けるのは哀れだ。「七海らしい」で済まされるなら、理屈はわからないがそれで構わない。
「五条術師も、なんかそういうアレで伊地知サンをそばに置いてるってことあります?」
猪野には、まず自分と五条の正しい距離感を知ってもらう必要がありそうだが。
「あの人に他人の支援なんて必要ありません。彼が求めているのは、運転から始末書提出まで何でもこなす雑用係です」
自分で口にしてから、伊地知に求める物が五条と正反対だと気づいた。
五条は伊地知の術式を否定する代わりに、私生活を侵食する勢いで伊地知を使い倒している。
一方、七海の日常で伊地知の手伝いが必要な場面はない。要不要ではなく、ただ自分がそうしたいから伊地知と会っている。
いや……術式が先のはずでは?
自分の思考経路に混乱したが、猪野は勝手に話を続けていた。
「俺も伊地知サン好きッスね。ちょっと腰低すぎるけど、とにかく仕事が丁寧だし、なんかやらかしても優しいし。補助監督になるために生まれたみたいなキャラじゃないですか」
「補助監督になる前からあの性格でしたよ」
「あっ、マウントですかー? 自分のほうがよく知ってる的な!」
そうは言われたものの、実際は学生時代の彼のことなどよく知らない。食事の量や好み、仕事への考え方など、最近知ったことしかない。
「俺も七海サンに、猪野君のこと一番知ってますよって言われたい!」
「生憎、ほとんど知りませんが」
「何でですか、知ってくださいよ!」
このまま2軒目に突入すると面倒になりそうだ。早めに酔い潰してタクシーへ叩き込もう、と酒を追加で注文した。
猪野を自宅へ送還したものの、飲み足りなくて別の居酒屋へ寄った。
先ほどの活気にあふれた店とは打って変わって落ちついた雰囲気の空間で、ゆっくり酒を飲む。ぎらついた電球も酔っぱらい達の喧噪もない。
今、伊地知は五条の補助で首都圏を離れている。お互い時間がとれるのは一週間ほど先。高専で遭遇したとして、人目がある場所では接近しか許されない。周囲からは近しく見えているのに、実際の距離はこんなにも遠い。
深々とため息をつく七海の横に、見知らぬ人間が座った。
「お一人ですか」
静かに飲める店だと思っていたが、どんな店にもこの手合いはいる。サングラスをかけた強面の大男に、ある種の期待を持つらしい。生憎その手の期待には応えられないし、応えようとしたこともなかった。
あの呪霊に抱いた不快感と似たような感覚になる。自分が「獲物」と見なされる屈辱だ。
「いいえ、待ち合わせの時間潰しです」
言い訳がましく腕時計を見やりながら、自分で馬鹿馬鹿しくなる。次の約束まで一週間はあるのだ。自分の言葉が本当なら、大層な時間を潰さなければいけない。そして、それまでに互いが生きている保証も全くない。
支払いを済ませて店を出た。
夜の闇の中には、伊地知の呪力よりもずっと弱い「呪い」がひしめいている。七海が近寄るだけで威力を失うほどの、取るに足らない呪い達。しかしそれらも積もり積もっていけば、強大な力を得る。
ふと、自分の唇をなぞった。件の呪霊を引きずるほど初心でもないが、誰かにぶつけるほどの欲求もない。
ただ呆れるほどに単純で曖昧な願いが満たされないだけ。
「これも、呪いか……」
行き場もなく発せられる殺気に慄いた呪い達は、暗がりの奥へと引っ込んでいった。
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