七海/伊地知

2024_呪術廻戦,[!],[R18]

【十.五寸以内】

 ◆

 かすり傷とは言いにくい程度の怪我を負った。
 家入の反転術式がなければ、全治数ヶ月はかかる。
「お手数をおかけしました」
 ベッドから起き上がる後輩に、家入は視線も向けず「おう」とだけ答えて席に戻る。いつもならそれで終わりだった。
 しかし今日は、首をひねるように長い髪を揺らしている。
「医者として守秘義務はあるし、仕事中に個人的な話はしない主義だけど」
「はい?」
 なんでも遠慮せずに切り込んでくる家入にしては、もってまわった言い方だった。
「先輩としては、言っといたほうがいいと思ってな。……その残穢」
 彼女は七海をまっすぐ見て、白衣の胸ポケットのあたりを指さした。自分の同じ場所を見下ろすと、伊地知がつけた紅い痣が残っていた。
 本人はほとんど無意識のうちにやっているらしく、我に返ってからいつも平謝りされる。実害があるわけでもないと放置して忘れていたが、残穢もより濃くなっていたか。
「……お見苦しいものを」
「五条には見つかるなよ。騒々しいから」
 確かにそれは面倒なことになる、と思いながらシャツのボタンを閉める。今、七海は伊地知の残穢を常に纏っている状態で、猪野のように気づいても具体的な関係性まで露呈することはない。だが状況証拠は、呪術師でなくともわかってしまう。
 家入はデスクに向きなおり、世間話のように聞いてきた。
「アイツの術式?」
「ご存じでしたか」
「ざっくりな。本人の性格と立場上、悪用されやすいって五条が『ないこと』にしたのは知ってる」
 逆にいえばあの頃のメンバーで知らなかったのは、自分だけということか。申し訳ないほど他者に無関心だった。それが今は、誰よりも彼に近い。
 ネクタイを締めなおしていると、家入がカルテに入力しながら呟く。
「オマエの機嫌なんて私にはわからないけど、ここ最近調子がいいのは知ってるよ。その術式のおかげか?」
 ちゃんと寝ろ、偏食するな、残穢を振り撒くな……何度も言われ続けた小言を、そういえば近頃は聞かない。
「いえ……彼のおかげです」
 改めて他人に告げてみると、それが真実なのだと思える。
 缶コーヒー1本分の呪力……他人の存在でこんなにも変わる世界があるとは、医者でも特級でも術師本人でも知りようがなかった。自分だけが幸運にも享受している。
「にやけるな、なんか腹立つ」
 そう言ってこちらを見やった先輩は、珍しく口元をゆるめていた。

 休憩所で新聞を読んでいると、五条悟が紙袋を抱えてやってきた。いつも通り出張土産を吟味しているところを、事務局から追い出されたらしい。菓子はせしめたらしいが。
「ミルクケーキ、チョコ南部、萩の月か……悪くないけど、僕が今求めてる甘味は違うんだよなあ」
「食べないなら私がいただきます。萩の月ください」
「やだね」
 不満そうな顔をしつつも、五条は中身を取り出し並べている。
「伊地知もだけど、七海もなーんか落ちついちゃってさ。もっとゴタゴタするかと思ったのに……」
「自分に迷惑をかけるなと言ったのはアナタですよ」
「ほんっと、張り合いがない後輩達だよ」
 どうもトラブルを期待されていたらしい。それなりに揉めた自覚はあるが、彼には伝わっていないようで安堵した。
「現実的に折り合いをつけただけです」
 五条に教える気はないが、新たな「縛り」を設けた。縛りによって、不安定だった期間と術式効果が安定する。
「アイツもさあ、うっかり目をつけられなきゃ、怖~い筋肉一級術師と時間外に顔合わせることなんてなかったのにね、かわいそうだね、よしよし」
 隣にいる架空の伊地知をエアで撫でている。本人にもそれくらい親切にしてやればいいのに。
「……アナタに私用でこき使われているほうが、よほど不憫ですが」
「そんなことないって、アイツは僕のお世話ができるの光栄だと思ってるよ、これはガチ」
 ガチなわけはないと断言できるが、五条が本気でそう思っている可能性のほうは捨てきれない。いったいどういう思考回路なのか、と考えるのは学生時代にもうやめている。
「つまんない女とか三級以下のザコとかに引っかかったら、邪魔して別れさせてやるんだけどさ。七海ならまあ……」
「待ってください、何の権利があって?」
「権利? あるでしょ、僕だよ?」
 ……考えるのはやめたはずだ。
「アイツは、僕の先鋒さ。そのために育ててるんだ。プライベートで潰されちゃたまらない」
 今の五条悟がただ呪術界に従っているわけでないことは、親しい者なら薄々感づいてはいる。個人的な我が儘を通すためだけに伊地知を傍らに置いているわけでもないらしい。
「……本人は知ってるんですか」
「さあ。でもそんなに重要なことじゃないよ。あ、七海も戻ってきた時点で僕の仲間に入ってるからね」
「勝手に共犯にしないでください」
 伊地知や七海が承知していようといまいと、五条は強引に巻き込んでくる。選ばせもしない。全てが計画通りだという顔で。
「七海、何か飲む?」
「ではコーヒーをお願いします」
 五条はにかっと笑って自販機を指さした。
「僕、イチゴミルクね」
「……………」
 渋々立ち上がって、缶コーヒーと紙パックのイチゴミルクを買う。五条は当然の顔でそれを受け取りながら、世間話のように問いかけてきた。
「そういや、伊地知の左手が飛んだの知ってる?」
 急な言葉に戸惑って彼の顔を見た。
「……何かの比喩ですか?」
「ううん、そのまんまの意味。呪霊にやられて、すぱんと。先週ね」
 五条が自分の左手首を切るジェスチャーをしてみせる。
「……!」
「僕の出張中に、真希の同行でね。帳の外にも別の呪霊がいたんだわ。居合わせた子供を呪霊から庇ったせいらしいよ。飛ばされた手は真希が回収して、早めに硝子がくっつけたから大事はないって話だけど」
 一年の禪院真希は、呪力がない代わりに卓越した身体能力を持つ。すでに二級の実力があるため、一人での任務も可能だ。それでも、顔見知りの手を拾いながら呪霊を倒すのは並の精神力ではない。
「真希は気丈に見せてるけど結構ショック大きいみたいだし、伊地知は不甲斐ないって謝るばっかだし……僕だって言いたいことは山ほどあったさ。でも説教のタイミングが難しくてね」
 無事だと知らされているのに、血の気が引いていく。缶を持ったまま押し黙った七海にかまわず、五条はしゃべりつづける。
「すぐに帳を上げれば助かるかもしれない、でも内側の呪霊まで襲ってきたらもっと危なくなるかもしれない。まあ、術師にはお決まりの問題だね……」
「……彼は補助監督です」
 やっと言葉が出た。
 補助監督の本分は術師の「補助」。基本的に戦闘は許されていない。人命救助も、可能な範囲でということにはなっている。だが現実はそう簡単に分業などできない。術を使うことも、呪霊と相対することもある。負傷・死傷の割合も残念ながら一般人より高い。
 伊地知もそういう立場だと知っていた、はずなのに。動揺する自分に動揺していた。
「真希はまあ、僕の責任でなんとかするよ。アイツはタフだし、仲間もいる。でも伊地知は……」
「アナタがいるでしょう」
 声に苛立ちが混じってしまう。何のための「最強」か。だが五条は冷静に返してきた。
「僕のせいだろうね。現実味がないんだ、きっと」
 傷ひとつつかない、ついたとしても自己治癒できる。誰の補助も支援も必要としない……「最強」の傍らに置かれている限りは、腕を落とすことなどあり得ないのだ。
 七海にそういう類いの加護は不可能だ。どう足掻いても、伊地知の選択を止められない。
「……初めて、アナタに嫉妬しているかもしれません」
 他人を利用するのに長けているだけなのだと思っていた。
 ひどく乱暴で、世間的な倫理や常識からも外れているが、伊地知は確かに五条の庇護下にある。彼のプライバシーを侵害する権利はないとしても、五条は五条なりの慈悲で伊地知を使っている。
 その理由はおそらく「同じ学び舎にいた」という理屈でない情からきているのだろう。七海に対しても。
「やめて、暑苦しい三角関係に巻き込まないで」
 五条が紙パックをくずかごに放り投げたところで、七海もようやく缶コーヒーの存在を思い出した。
「一寸の虫にも五分の魂、缶コーヒー1本にも七海の元気……」
「ぶつけますよ」
 無下限は中指を立てて笑ってみせた。

 枕にもたれて本のページをめくりながら、七海は隣を見やった。
 いちおう半分空けてあるベッドの端寄りに、伊地知は両ひざを抱えて座っている。
「労働はクソです」
「……完全同意します」
「残業もクソ」
「おっしゃる通り……」
 彼がまだこの寝室に気後れしているのは仕方ないとして、今日は任務が長引き、約束した時間に間に合わなかったという負い目を抱えている。
「10日って、思ってたよりもあっという間ですね……」
「年々加速しますね」
 10日ごとに、夜を共に過ごす。それが新しい「縛り」。
 不規則なシフトと激務に追われる現代人には、非常に難易度が高い。少なくとも、会社員時代の自分には不可能だったと思う。
 だからこそ効果は高い。接触の程度に関わらず呪力は安定して二人を繋ぎ、会えない不安も、暴走する欲望も抑えられている。10日後に必ず顔を合わせると思えば、そのあいだは相手のことを忘れ去っていてもかまわない。
 この平穏な夜を確保するため、伊地知は自身と七海のシフト調整に奔走している。
「自己犠牲もクソです」
 伊地知は初めて顔を上げた。
「左手を見せてください」
 本を閉じ、読書用の眼鏡を外してベッドサイドに置く。
「お恥ずかしい限りで……」
 袖をまくって見せられた腕には、皮膚が癒着したような線がぐるりと手首に残っている。切断された手があったから、反転術式でここまで治せた。もし食いちぎられでもしていれば、家入でも元通りに治すのは難しい。
「10日間接触してはいけないという縛りはなかったはずです」
「申し訳ありません!」
 触れるのに躊躇したが、完治しているのだと言い聞かせてその手を両手で包み込んだ。
 一歩間違えば、この手は存在しなかった。あるいは、ここに彼がやってくることは二度となかった。
「完全に私の失態なので、とても自分からお伝えする勇気が……」
 噛み合っていない。説教されるために報告しろというのではなく、直面した危機と無事を知らせてほしいだけだ。全て終わった後に他人から聞かされるのは、想像以上に堪える。
「君の業務範囲ではないでしょう」
「はい……」
「自分が生き残ることをまず優先させる。それが大勢を救う手段です」
「承知しています」
 何を言っても説教になってしまう。他の言い方はないものか。
「君が死ねば、多くの人々が悲しみますよ」
 あまりにも薄っぺらい。案の定、腑に落ちていない表情をしている。
「だけでなく、私を含めた多くの人間が迷惑を被ります。五条さんは君が食い止めているストレスに逆ギレして、いらぬ揉め事を起こすでしょう」
「あぁっ想像つきます……」
「死んではいけません。五条悟に世界を滅ぼさせないために」
「荷が重すぎます!」
 報酬より義務感で生にしがみついている人間には、責められるほうが効くのか。
「それに、私が眠れなくなる」
 伊地知は眼鏡を外し、自分のひざに顔をうずめた。
「十分重いですよ……」
「呪いですから」
 呪言など使えない。だが、一途な願いは呪いを強化する。
「七海さんも、必ず私の15cm以内に帰ってきてください。明日からの10日間も、どうかご無事で」
 10日後という約束があるから、彼の元へ帰るという目標があるから、能動的に生き延びられる。術師を支える彼に相応しい「呪い」。使い道は立派にある。
 呪い合うことで、相手を生かすことができるなら。
「約束します」
 無事に戻ってきた手に、そっと口づけた。彼は照れくさそうに肩をすくめたが、遠慮がちにこちらへ倒れ込んでくる。
 その体を抱き寄せながら、七海はベッドサイドの灯りを消した。

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