七海/伊地知
【七.雲泥万里】
◆
朝から五条悟が元気よく登場することは珍しい。
「本日、クラスの三分の二がインフルエンザに罹ったため、学級閉鎖となりまーす!」
一年生は3名。そのうち人間は2名。風邪をひかない呪骸相手に個人授業をしてやろう、とはならないのが五条だ。そもそも少人数すぎて学級閉鎖などない。
「せっかく時間できたし、ケーキバイキングでも行っちゃおうかなー」
五条は大きな声で独り言を言いながら、まっすぐ伊地知のデスクに近づいてくる。パソコンを覗き込んで仕事に集中しているオーラを出したつもりなのだが、最強にはなんの意味もない。
「伊地知、どこの店がいいと思う?」
それは「今からケーキバイキングの店を探して連れていけ」という意味に他ならないのだが。
「あの、お調べはできるんですが、今日はこれから現場に……」
真後ろに立たれて威圧感を受けながらも、駄目元で抗議してみる。
「へえ、今日そんなに忙しいんだ?」
そう言いながら、五条は隣に座っている新田を覗き込んだ。「ひっ」と小さな悲鳴が上がるのが痛々しい。
「い、伊地知さん! 今日の同行は私に行かせてください! 経験積んでおきたいんで!」
周囲の補助監督たちも「請求書は自分が」「連絡係やります」などと言いながら立ち上がった。皆、特級術師の機嫌を損ねて得はないと知っている。伊地知を差し出すほうがダメージが少ないと判断されたらしい。
「じゃあ、伊地知借りてくよ」
「ちょっ……」
引きずられていく伊地知に、新田が手を合わせて謝っている。そう、彼女は悪くない。誰も悪くない。インフルエンザが悪い。そう思わなければやっていられない。
「こんな急に……どこもやってなかったらどうするんですか……」
必死に検索して、高級ホテルのスイーツビュッフェを見つけ出す。ネット予約可能。今から出ると到着時間は……。
「『五寸召(ごずめず)』の発動、僕が知らないとでも思ってる?」
ふと頭上から降ってきた言葉に、足が止まった。
「いえ……」
隠し通せていると思ってはいなかったが、はっきり言われると、ここまで背中が冷たくなるとは。
自分の術式を否定した五条に、この状況はどう「視えて」いるか。彼はそれをどう判断するか。今まで、努めて考えないようにしていた。
「確かに一番無難だとは思うよ。でもなんで七海なの?」
「はい?」
本当に意味がわからず、訊き返した。五条の顔も声もふざけてはいない。
「だって七海のこと、昔からずっと苦手だったでしょ」
「う……」
冷徹な完璧主義者。刺々しい残穢。近寄りがたい先輩だと思っていた。会社員から呪術師に復帰したと知らされた時も、その印象を引きずっていたことは事実だ。
「先輩だし一級だし顔怖いし、オマエにとってはアイツの存在自体が強制力高いじゃない? アイツの尺度に合わせようと無理してんじゃないの、ってこと」
強制力の擬人化が、自身を棚上げにして何か言っている。
「……無理してないですよ」
端末を懐にしまって歩き出した。
「私と七海さんが釣り合わないことなんて自分が一番よくわかってます」
呪術に関わる者としての格も、生活レベルも、人間としてのスペックも、何もかもが比べ物にならない。今の自分は「身の程知らず」という他ない。だが、七海はそんな伊地知を求めてくれた。
「脚の長さが違いますから、歩幅もそりゃあ違いますよ。でも、隣を歩く人間にちゃんと合わせてくださる方なので。たまには小走りしても、息切れはしてないです」
好意的とまではいかなくても、必要とされていることは事実らしい。ならば精一杯応えたい。その点において、もう自分に迷いはなかった。
「……ならいいや。どうでも」
「どうでもって!」
自分で持ち出した話題を、五条はあっさり放り出した。もっとイジられることも覚悟していたから、拍子抜けしてしまう。
「もっと初々しい感じかと思ったのに、いっぱしに大人でつまんねーの」
しかも不満そうに愚痴りはじめるのだから手に負えない。
「僕はさ、遅れてきた青春!みたいな、キラキラした甘酸っぱい関係が見たいんだよ」
「青春……?」
成人して久しい男が二人、学生並みの青い春を演じていても楽しくないと思うのだが……。
「高専時代からずっと片想いでしたとかさー。離れてる時間が愛を育みましたとかさー。そういうのちょうだい!」
「そんなこと言われても……」
高専の時から、ずっとこうして五条に引きずり回されていた気がする。恋愛など考える隙もなかった。アナタのせいでキラキラも青春も逃しました、とはさすがに言えないけれど。
「てことで、オマエは僕に秘密を握られています。はい、車出して!」
「えええ……」
理不尽もここまでくるとあきらめるしかない。
「ほらほら置いてくよ、僕は七海より脚長いから、他人には合わせてらんないの」
「そういうとこですよ……」
青春時代から少しも大人になった気配のない五条を追いかけ、駐車場に向かった。
貴重な連休に実家へ取りにいった古文書や記録を、片っ端からひっくり返す。
術師になる道を諦め「術式を持っていないことにする」と決めた時から、それ以上この術式について深く知ろうとはしなかった。他に学ぶことは山ほどあったからだ。だが今は情報が必要だった。会ったことのない曾祖母の術式を、少しでも解明しなければならない。
存命の血縁者に力を受け継ぐ者はおらず、術師もいない。残された記録に頼るしかない。
曾祖母の日記は残っていたものの、呪術に関する内容はあまり見られなかった。おまけに旧字と異体字が多すぎる。読めなくはないが、手書きということもありすらすらとはいかない。
「これは大変だ……」
学生時代に戻ったような気分だった。ひとつ異なるのは、明確な目的があるということ。
大原則は、「七海に害をなしてはいけない」の一点。解呪も双方の合意がなければできないため、必要があれば七海を説得する論拠が伊地知には求められる。術師側にしかできない。彼に何かあってからでは遅い。
縛りに代償はないと思っていたが、あの七海が珍しく取り乱していた。解呪を拒否するのも冷静な判断とはいえない。
冷静でなかったために、伊地知を抱きしめ、頬や額をすり寄せ、キスを交わし……。
「あああああ!」
口を押さえて床に倒れ込む。
思い出すだけで顔に血が上るが、何度でも思い返してしまう。
一度目はまだ、任務という建前があった。七海も気にしていないようだったから、自分もそう対応するべきだと思っていた。
二度目も、彼のためになればと思ってのことだった。
だがあまりにも甘美な体験に、大義名分も飛びかけた。
自分よりも温かい肌、石鹸の香り、静かな吐息。馴染んだ呪力と、大きな手と……。伊地知を慮るような触れ方はいつも以上に紳士的で、任務の時は暴力的に「演じていた」のだと知る。触れるだけなら一瞬で構わないのに、まるで恋人を相手にしているかのような優しい口づけをされて、束の間あらぬ錯覚をしかけた。
冷静になろうと努めながら、泊まってもいいかなどと口走ってしまった時には、完全に舞い上がっていたと思う。そのくせ下心があると思われたくなくて「何もしない」とまで。
実際問題、七海相手に「何か」できるはずもない。その前に一瞬で息の根を止められる自信がある。
今回ばかりは全く寝付けず、というよりは寝ぼけて無礼をはたらかないかと、不安で眠れなかった。隣から寝息が聞こえてきた時には、嬉しさと同時に緊張が走ったものだ。
彼はただ伊地知の術式を必要としているだけなのに、邪な考えを抱いてはいけない。それを痛感したのは、寝言を聞いた時。
あの夜、七海は確かに「灰原」と亡き友の名を呼んだ。
知ってはいけないプライベートに触れてしまった気がした。その傷を癒やすことは誰にもできない。少なくとも、自分ではない。
自分にできるのは、ただ彼の迷惑にならないよう、いつも通り黒子を務めることだけ。
「身の程を知れ、伊地知潔高……」
己に何度も言い聞かせながら、今度は黴くさい古文書を手にした。
七海の部屋は相変わらず垢抜けていて、まだ気後れする。しかし伊地知の部屋……職員寮は当然ながら顔見知りばかりで、一級術師が現れるだけで軽く騒ぎになってしまう。それでなくても、古くて生活感しかない自室に七海を招く勇気はなかった。
「その後……体調などお変わりありませんか」
「どうでしょうね。調子はいいですが」
慣れた手つきでパスタを皿に盛りつけながら、七海は他人事のように答えた。
料理は趣味の範疇らしく、台所は絶対不可侵の領域なのだそうだ。伊地知はダイニングの椅子に座らされ、皿洗いさえ手伝わせてもらえない。見通しのいいアイランドキッチンで料理が作られるのを眺め、テーブルに運ばれてくるのを待つしかない。
「自分のことなのに把握しておらず、大変ご迷惑を……」
「いえ、術式は使うことで精度を高めていくものですから。今後も何か影響があるようなら対策を考えますが、今は大丈夫です」
二人は向かい合って手を合わせ、食事を始める。
メインのパスタに、ポタージュとサラダと副菜。アルコールはなし。自分ならパスタだけか、サラダだけの場合もある。そもそもコンビニかスーパーで買ってくるだろう。
仕事相手でも接待でも一対一の食事は慣れているが、家に招かれて手料理というのは経験がない。七海にとっては普通なのだろうか。
「こうして、どなたかに料理を振る舞われることは多いんですか」
「……いえ」
珍しく即答ではなかった。
「家族と、家族になるつもりだった方、くらいです」
「ああ……」
余計なことを言ってしまった。
七海が諦めた生き方の中心部に、間違って自分風情が入り込んでいる。本来ならば、ここに座っているのはもっと七海にふさわしい人間だったはず。五条には啖呵を切ってしまったが。
「私なんかが……」
一級術師、元証券会社勤務、頑強な肉体、整った相貌、落ちついた物腰。術師になれず外にも出られなかった自分とは、仕事上のつき合い以上はなかったはずの存在だ。あまりに不釣り合いで、あまりに分不相応な……。
「因果は重要です」
七海の言葉が、彼の武器のように振り下ろされる。
運命論ではない。原因があって、結果がある。呪術師にとっては基礎理論のようなもの。
「君が『誤作動』を起こしたから。私があの任務で君を囮に指名したから」
伊地知の迷いの急所を狙って、的確な言葉が粉砕していく。
「君が後輩で、同性で、補助監督で……ひとつでも条件が揃わなければ、今の我々はなかった。私としてはこの因果を大切にしたいと思っていますが、術式の主体は君です。限界を感じたら遠慮なく申し出てください」
「とんでもない……」
伊地知側に解呪の理由はない。この関係に、いつまでも縋りついていたいとさえ感じている。少し前まではあり得なかった、説明のつかない感情だ。
強い呪力は攻撃意思に関わらず、晒されるだけで身を刺すような感覚をもたらす。以前は七海に対しても感じていた。旧知なだけに、勝手な引け目や劣等感も加わっていたかもしれない。
しかし今はもう、その時の感覚が思い出せなかった。職場でも、七海の微かな残穢を感じるとつい意識が追ってしまう。シフト表や報告書で七海の名を探してしまう。公私混同は避けなければと己を律しても、感情が制御できない。
まるで呪いのように。
食後のコーヒーを飲んでいると、携帯端末のアラームが鳴る。
「それでは、私はこれで……」
「お疲れ様です」
七海の仕事は終わっているが、伊地知の任務はこれから。直接現場へ赴き、おそらく夜明けまで帰れないコースが待っている。
しばらくはお互いにシフトが合いそうにないため、こんな時間に七海の自宅で会うことになった。「接触」はここへ訪れた時に、玄関で済ませている。つまり、その後は必要な時間ではない。謝礼にしても過剰すぎる。
それでも玄関先まで送ってくれた七海は、わざわざ伊地知の手を握って青い瞳を細めた。
「ご武運を」
「おっ……恐れ入ります!」
いつもは言う側だが、術師に言われると無性に面映ゆい。思いきり頭を下げ、相手の顔も見ずにその場を辞した。
急ぐ時間でもないのに駆け足で車に戻り、シートに凭れたところで大きく息を吐き出す。
「しっかりしろ……」
引きずるな、頭を切り替えろ。
自分を叱咤しながら車を出すが、直前まで浴びていた心地よさをすぐに振り払うことなどできない。
こんなに気持ちが掻き乱されるくらいなら、七海に問いただされたときに素知らぬ顔で解呪してしまえばよかったのか。
知れば知るほど、己と相性が悪いと再確認させられる術式だった。
遺伝とはいえ、元は「誑かし近づき呪う」術式には、それなりの抵抗があった。心情的にも能力的にも、発動条件を満たせるとは思えなかったのだ。
他者をねじ伏せる圧倒的な力か、他者を魅了する容貌がなければ、対象者に近づくことさえできない。身分差があった時代もだろうが、人同士の距離感にプライバシーという概念が根づいた現代であれば尚更に難しい。
五条のような美貌があれば、七海のような体躯があれば。せめて術師として戦える程度の呪力さえあれば。
だが自分はそのどれも持ち得なかった。
先天的にはあまりに平凡、後天的な能力でも頑張って人並み……そんな伊地知潔高の生得術式として、「存在価値も不明」と五条に言われた時は、傷つくと同時に安堵もした。自分の術式をどう使いこなすか、頭を悩ませなくてもいいのだと。
10年も経てば、そんな過去の記憶も遠い感傷となる。取得はしたけれど役に立たない資格のように、持っていることさえ忘れていった。それでかまわないと思っていた。
今、手が届かないと思っていた存在に必要とされて、浮かれているのは自覚している。無価値な術式が価値を得たかのような、そしてそれが永遠に続くとでもいうような、危険な錯覚に陥っていることも。こんな歪な関係が長く続くわけはないのに。
五条に使われることに甘んじているだけでなく、七海にまで自分の生活を預けようとしている。いつまで経っても、他人軸でしか生きられない。
「……求められているのは、『私』じゃないんだ」
バックミラーの中の自分に、そう吐き捨てずにはいられなかった。
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