七海/伊地知

2024_呪術廻戦,[!],[R18]

【六.青春挽歌】

 ◆

 いつもと違うアラームの音で目覚める。
「ぅん……」
 頭の後ろから眠そうな声が聞こえ、他人と背中合わせで寝ていたことに気づいた。
 そうだ、伊地知だ。
 15cm以内の接近とはこういうことか、とあえて動かずに彼の体温を背中に感じる。彼が起きるまではこうしていようと思ったが、伊地知の脳が覚醒するのは意外に早かった。
「あっ……おはようございます!」
 彼が飛びのくように起きるので、仕方なく七海も体を起こす。
「眠れましたか?」
 無理を言ったのは承知していた。伊地知の性格上、緊張のあまり眠れないというなら酒でも飲もうかと思っていたのだが、先に寝息を立てていたのには驚いた。日々よほど疲れているのか、車中泊など過酷な状況に慣れているからなのか。
 根がこういう性分だから、他人の安眠も保証してくれるのかもしれない。
 見慣れない寝顔を眺めつつ自分も眠りについたことは覚えている。
「はい、とても……こんないいベッドに寝たことないです……」
 眼鏡を掛けるとなじみのある顔が現れるが、髪は跳ねているし、貸したトレーナーは大きすぎて肩が落ちていた。スーツ以外の姿さえほとんど見たことがないのに、寝起きは人並みに隙だらけなのだなと、目覚めきっていない頭で考える。
「朝食を作りますね」
「いえ、そこまではさすがに! 出勤途中で食べますので!」
 スーツは皺を伸ばしたほうがいいのではないかと思ったが、伊地知は恐ろしい速さで身支度を済ませると、「大変お世話になりました、お邪魔しました!」と頭を下げ、あっという間にいなくなった。
「……………」
 一度起きたら、もう一度ベッドに戻ろうと思うことは少ない。だが今朝は、二人で寝ていた場所にまたもぐり込みたくなった。
 布団の中はぬくもりが残っていて、七海は伊地知のいた場所に手を滑らせる。
 残穢というにはあまりに微かだが、確かに彼の気配が残っていた。それを心地よく感じながら、七海は微睡みに落ちていった。

 出戻りの「新人呪術師」だった頃、京都校の一年生に話しかけられたことがある。
「アンタ、どんな女が好みだ?」
「はい?」
 一年ながらすでに準一級の推薦を受けているという、彼のことは知っていた。彼のほうも、鳴物入りで加わった術師には興味津々だったに違いない。
 待機中だった七海は席を外すこともできず、学生の相手をする羽目になる。とはいえ、教師の真似事はできない。
「まず、異性に対して敬意が感じられない表現はどうでしょう。また、常に相手が異性愛者であることを前提とした言動も不適切です。そのようなセンシティブな質問に、初対面で答える気はありません」
 東堂葵は僅かに眉を寄せ、だがすぐに不敵な笑みを取り戻した。
「じゃあ質問を変えよう」
 予想はしていたが、面倒な相手だ。七海の想像通りの人間なら、ただの失礼な若者では終わらない。とても頭が切れる学生のはず。
「俺の師匠に、アンタはなんて答えた?」
 やはり、彼女の関係者か。
 自由奔放で謎だらけの特級術師。七海も二度しか会ったことはない。
 悩み多く多感な時期に突如ぶつけられた問いは、七海を大いに混乱させた。異性の好みなど考えたこともない。もの静かな? 話が合う? 芯が強い? あれこれ考えた末に、結局なんと答えたか。
「……私が触れても、壊れない人」
 東堂が眉を上げる。
「私が触れても壊れない人。九十九特級術師にはそう答えました」
『そりゃまた、ずいぶんと過激だね』
 あの時の彼女は愉快そうに肩をすくめたが、それ以上突っ込んでくることはなかった。
 しかし弟子のほうはまだ納得していない。
「アンタはそんなに『激しい』のか」
「君が思っているよりは、保守的で凡庸(ノーマル)ですよ」
 七海の術式は、明確に暴力だ。破壊以外に用をなさない。弱い者を守ることはできても、癒やしたり救ったりはできない。
 だからこそ、儚く手の中で崩れるような存在は苦手だった。手荒に扱うつもりはないが、容易く壊れない、頑丈さがほしい。外見の美醜も肉体的な優劣も、あっさり崩れ落ちて無惨な姿になることを知っているから。
「そういう女性がいなければ男性でも、またセクシュアリティが異なっても構わない。何故なら性的な属性や外見を重視しないので。以上です」
「なるほど……」
 彼は笑みを浮かべて何か言おうとしたが、口を開いたところでちょうどよく邪魔が入った。
「ちょっと東堂! 何やってんのー!」
 廊下の向こうから怒声が耳を刺す。彼の担任が拳を振り上げているのが見え、正直ありがたいと思った。
「ありがとう、ミスター七海。非常に参考になった」
「……どういたしまして」
 厄介だが、とにかく強いことはまちがいない。すぐに一級へ昇格するだろう。できれば師の志は継いでほしくない。凡百の一級術師としては、高専に所属する術師の人数が多ければ多いほど、楽ができる。
「好みね……」
 正直、今も昔もくだらないと思う。外見はすぐに老い、病み、変わっていく。ならば心身ともにも健全で、七海を呪いの世界から引き戻してくれるエネルギーを持っていてほしい。
 そんな人間と巡り会う可能性が、自分に待っているかは別として。

 内ポケットの携帯端末に手を伸ばしかけて、七海は大きく息を吐き出した。
「……クソッ」
 伊地知と別れてまだ3日しか経っていない。術式効果が切れたわけでもない。
 なのに、何故か会いたくなっている。声を聴きたい、肌に触れたい。そんな話は聞いていなかったが、本人も認識していない代償なのか。
「今日も気合い入ってますね!」
 隣から能天気な声がかかる。猪野琢真は今回の助っ人。
 当初の調査よりも呪霊の数が多かったため、事務局を通じて応援を頼んだら来たのが彼だ。七海が呼んだわけではないが、初めて組むわけではないから気負わずに済む。
「君も、いつもどおり元気そうですね」
「アザッス!」
 皮肉が通じない相手にあたっても仕方ないと、目の前の廃屋に意識を向けた。帳のおかげで逃すことはなさそうだが。
「分散されるとこちらには不利です。君は裏からこちらに追いつめてください」
「了解!」
 七海と猪野の戦闘スタイルでは、敵をできるだけ集中させて一息に仕留める必要がある。
「それじゃ、片づけますか!」
 猪野が駆け出し、七海も武器をかまえた。

 強くて二級程度の呪霊を蹴散らし、多少時間はかかったものの、最後の一体まで仕留めることに成功した。
 帳を出ると、送迎役の補助監督が通行人の相手をしている。どうも今祓除した廃屋について話をしているらしい。これが警官や役人ならどうにでもなるのだが、一般人となると気を逸らすのが難しい。補助監督がこちらに気づきつつも帳を上げないのを見ると、自分たちは下手に関わらないほうが良さそうだ。民間人への対応は彼らのほうが慣れている。
「いったん戻りましょうか」
「そっスね」
 帳の中に戻って、そこにあった自販機の前で一服することにする。帳が上がるまではここから動かないほうがいい。どちらにせよ、バスも通らない道から帰る方法は車以外なかった。
「猪野くん、何飲みますか?」
「あっ、ごちそうさまです! ホットコーヒーお願いします!」
 決して遠慮しないのも彼の長所ではある。
 缶コーヒーを飲みながら、猪野の雑談を聞き流す。彼は一仕事終えたせいか、すっかり気の抜けた様子でしゃがみ込んでいた。
「七海サンって、休みの日に何してるんですか」
「聞いてどうするんです?」
「真似できれば、しようかと思って」
 悪い男ではないが賢くはない。彼の長所は、自分が賢くないという自覚と向上心があることだ。術師の家系ながら、身内ではなく自分が認めた術師に推薦してほしいと主張するだけ、将来性は見込める。
 邪険にしてもいいことはないので、素直に答えてやった。
「家事を除けば、料理、読書……そんなところです」
「へえ……」
 どっちも苦手だと顔に書いてある。それでもあきらめないのが猪野だった。
「誰かと出かけたりとかしないんスか? ほら、五条特級術師とか……」
「あの人とプライベートで関わりたくはないですね」
 高専の先輩ではあるが、それだけだと七海は思っている。そもそも五条のほうが七海を「友人」と認めているとは思えない。とはいえ、猪野からすれば会話ができるだけ親しく見えるのだろう。
「一人で過ごすのが好きなので」
 そうつけ加えると、猪野は何か思い出したように眉を上げた。
「じゃあ彼女いないって噂、ガチだったんですね」
「……………」
 五条の邪悪な笑顔が頭に浮かび、つい舌打ちしていた。五条本人か、あの場にいた補助監督から広まったのか。次は京都校あたりで言われる覚悟をしておかなければならない。
 猪野に罪はないので、丁寧に情報を補足しておく。
「術師をやっているうちは、恋愛も結婚も無縁の心づもりでいます」
 今日は生き延びたが、明日はわからない。伴侶や人生設計など考えられない。他人に生活を、ましてや心を託すなど、今は想像もできない。
「あっ、それは……真似しなくてもいいですかね……」
「いいんじゃないですか」
 自分と違って代々術師の彼には、呪術を次世代に継いでいく使命もある。本人の一存では決められない。何より猪野は「したい側」のようだ。相手がすでにいてもおかしくない。
「ちなみに、ずっとそのポリシーです? 一緒になりたい人とかいなかったですか?」
「ポリシーではありません、現状です。伴侶の必要性も感じていませんが」
「かっけぇ……」
 コーヒーを飲み干してしまった。いつもはそれほど苦にならない猪野との会話が、今日はやけに長く感じる。
 缶コーヒー1本分……そんなものでは断じてない。
 コーヒーが飲めないくらいでこんなに苛つくことはない。すぐに代替品は見つかる。だが今、自分が求めているものは、何を以ても替えられない。
「あ」
 帳が上がった。
 申し訳なさそうな顔で補助監督が走ってくる。通行人の姿はなく、やっと帰れそうだ。
 帳によって切れていた回線が繋がり、携帯端末が着信を告げた。出張中の伊地知から、事務局へ戻るのは明日になる旨のメッセージが来ていた。
「……………」
 つい握りつぶしてしまった空き缶を後ろ手に隠しながら、大きく息を吐き出す。
 会いたい、触れたい。
 たった一人の人間のことで、思考が占められている。
 まるで呪いのように。

『いつでもいいので』
 実際に会えたのは、返信した二日後だった。
 ドアが開いて彼が現れた瞬間、その腕を掴んで引きずり込んでいた。
「どうしました!?」
 日付も変わろうかという時刻だったが、伊地知は七海のマンションまでわざわざ駆けつけてきた。たった一言に、何か切羽詰まった状況を感じたのだろう。
 コートの上から伊地知を抱え込む。
「君が足りなかった」
 玄関先でいきなり抱きしめてしまうほどには。
「ぉわ……っ」
 押しつぶされたような呻き声が上がったが、七海の様子がおかしいのに気づいたらしい。
「すみません、私のせいですね。すぐ解呪を……」
「いえ」
 今この瞬間の安らぎを手放すなど考えられない。その思考自体が縛りに毒されているのだと気づきながら、伊地知の顔に頬をすり寄せた。眼鏡が顔に当たるが気にならない。
「呼んでくれませんか」
「えっ、えっ?」
 伊地知は面食らった様子で、だが七海の背中へ腕を回しながら、請われた通りにした。
「……七海さん、本当に大丈夫ですか?」
「はい」
 返答によって縛られる呪霊や術式なら、即死だ。そう考え笑いを噛み殺す。
「……食事は?」
 少し冷静になって、伊地知を離した。ずれた眼鏡を直した彼は、戸惑いながらも答える。
「仕事中に済ませましたので、大丈夫です」
「では、少し私の我が儘につき合ってください」
 伊地知は相変わらずの怯えた顔でこちらを見上げていた。

「びっくりしました……というか、しています」
 ソファーに座らされた伊地知は背筋を伸ばして、テーブルに置かれたコーヒーカップを眺めていた。
「呪力の供給が止まることによる代償はないはずなんですが……勉強不足で……」
 先代と直接面識がないため、術式について詳細に継承されているわけではないという。それでなくとも、個人によって能力差は大きく、実際に発動するまでわからない部分もある。
「ところで、どうしてマッサージなんですか?」
「合法的に接触していられるので」
 ソファーの後ろに立った七海は、伊地知の肩を揉んでいる。高専関係者が見たら卒倒するかもしれない。
「今までも違法ではないですが……恐れ多いというか……」
「私がしたいだけですから、気にしないでください」
「はぁ」
 細い首は石のように硬い。元からの猫背と、運転やデスクワークのせいだろう。それとストレス。
「下心は抜きにしても、横になっていただいて全身揉みほぐしたいですね」
「それはさすがに……こちらが何かお支払いしなければいけないパターンですので」
 なかなかほぐれない体を相手に、しかし苛立ちはない。直前までの焦燥は消えてなくなっていた。15cm以内にいるだけで落ちつくのかもしれない。
 伊地知が、愉快そうに呟く。
「東洋医学の授業を思い出しますね」
 呪術はかつて医術でもあった。鍼灸や整体は呪いにも祓いにも関わりが深い。そのため、座学と実習が課せられている。七海が突然マッサージをさせろと言って伊地知が比較的素直に応じたのも、その前提があったからだろう。
「私が七海さんで実習させていただいた時……」
 その言葉に、ふと手が止まる。
「私で?」
「あ、もちろん覚えてらっしゃらないですよね、昔のことですし……」
「……すみません、記憶が曖昧で」
「いえ、思い出さなくて大丈夫です」
 伊地知の肩に力が入った。
「……………」
 緊張が走った理由は、全て自分にある。
 灰原雄の唐突な死。夏油傑が起こした凶行、そして失踪。異質さを増した五条悟。不幸と呪いに塗りつぶされた七海の姿を、伊地知は見ていた。そして耐えきれずに逃げ出す姿も。
 一般社会に逃げ込めば、忘れられると思った。大学でも会社でも、必死に「普通」を求めた。本意でない交際も、不愉快な交流も。似合わない愛想笑いも。「普通の人間」になるために、様々な理不尽に耐えた。
 そんなもので上書きして忘れたのは、他愛もない、だが楽しかったはずの日常だったのか。この後輩との会話さえ、ほとんど思い出せないとは。
「……私は、そのとき何か言いましたか?」
 伊地知は肩をすくめて笑う。
「私がツボを見つけられなくて苦戦しているところに一言、『なってない』って……それから私をひっくり返して、正しい位置を教えてくださいました」
「そうですか……」
 無愛想で困らせただろうし、落ち込ませたかもしれない。しかし伊地知はただ懐かしんでいる。彼にとっては、青春時代の1ページとして記憶されているのだ。
 軽く息を吐き出して、彼の肩をさすった。
「あの頃は何も見ていなかったような気がします。楽しい時間も、きっとあったのでしょうね」
 灰原を失った傷だけが残っていたけれど、それだけ彼との時間がかけがえのないものだったということでもある。夏油の離反も、一方的に糾弾するには彼という人間を知りすぎていた。
 騒々しい先輩も、頼りない後輩も……全て、自分の大切な一部だった。
「つらいことは確かにたくさんありましたけど……楽しいことも多かったです」
 頼りなかったはずの後輩は、いつのまにか過去を乗り越えて大人になっている。
 その彼が、こちらを振り向いた。
「七海さん」
 目が合うと、気まずそうに眼球が動いて微妙に視線を逸らされる。ごまかすように眼鏡を押し上げているが、耳も首も真っ赤になっていた。
「肌の接触では不十分ということでしたら、お嫌でなければ、その……」
 その先の。
「……いいんですか」
 粘膜接触は最も強い効果をもたらす。粘膜とは人体の内側。弱点、急所、秘所。容易に他者と触れ合える場所ではない。
 七海は伊地知の頬に手を添え、はっきり言いきれない唇を指の先でなぞった。
「内側に、触れても?」
「はい、どうぞ!」
 覚悟を決めたのか固く目をつぶって肩をすくめて、どちらかというと殴られ待ちだ。
 彼が見ていないのをいいことに微笑みながら、七海は身をかがめて口づけた。
 こうして触れるのは二度目。あの時は任務遂行のことしか考えていなかった。必要で仕方ないことだと割り切るべく努めていた。
「っ……」
 もう荒れていない唇をそっと押し開けると、望み通り唇の内側同士が触れた。この時点で条件は果たされたことになるが。
 舌先が触れ、互いに戸惑いながら絡み合っていく。
 また頬に眼鏡が当たる。外してからにすればよかったと思いつつも、一度離れるという頭はない。
 一般的な呪霊の与奪と異なり、触れてすぐに呪力の変化が実感できるという類ではない。今感じるのは、彼の体温と鼓動と、濡れた音、官能的な感触。
 ごく普通の口づけに、脳が痺れるほど酔いしれていた。
「ぅん……っ」
 苦しげな呻きが聞こえ、はっと我に返る。無理な体勢をさせた上、肺活量の差も思い足らなかった。
「すみません、つい……」
 夢中になってという言葉を飲み込み、かなり曲がってしまった眼鏡の位置を両手で直す。伏せられていた伊地知の目がはっと開き、七海の顔を認めた。
 自分も今、こんなに締まりのない顔をしているのだろうかと思わず唇を噛む。長々と見つめ合っていられるものではない。
「ありがとうございました」
「いっ、いえ! こちらこそ! なんのおかまいもできず!」
 明らかに的外れな返答だったと気づいた伊地知は、頭を抱えてうずくまっている。礼を言ってしまった自分も大概だが。
「コーヒーを入れ直してきます」
 七海は口実を作ってその場から逃げ出した。
 とはいえ、キッチンからリビングまで壁らしい壁があるわけでもない。気まずい静けさが部屋に満ちているのを感じながら、ケトルを火にかけた。
 少し冷えた頭で、伊地知が解呪を申し出るかもしれないと考える。
 玄関先でいきなり掴みかかったり、息の根を止める勢いで口づけたり、七海の勢いを不安に感じていてもおかしくない。体格も腕力も差がありすぎて、七海からの一方的な接触は、暴力になる危険を常にはらんでいる。これが縛りの代償によるものなら、解呪が最も確実な解決方法と普通は判断するだろう。
 惜しくはあるが、伊地知がそう決めたのなら固執するだけ無駄だ。引き際はきちんとしなければ、今後の仕事にも影響する。
 意を決してコーヒーを持っていくと、伊地知が身をすくめて口を開いた。
「あのっ……!」
「はい」
 やはり解呪か、と思った矢先。
「今夜こちらに泊まらせていただいてもいいですか。誓って、何もしませんので!」
 何もしないとは。
「どちらかというと、私の台詞ですね」
 部屋に来いなどとあれこれ要求しているのは常にこちらで、今夜も彼が来る前から引き止めるつもりでいた。しかし「何かしてしまった」手前、解呪を恐れることしかできなかった。少しも冷静になれていない。
「勿論、よろしくお願いします」
 テーブルにカップを置く。いつの間にか伊地知はソファーの端に移動していた。七海の座る場所を空けてくれたのだと気づき、つい口元が緩んだ。

「七海はさぁ、中学で付き合ってた子いた?」
 ちょうどパンにかぶりついたところでそんな質問を投げつけられ、そのまま固まってしまった。
「悟、やめないか」
「答えなくていいぞ七海」
 夏油と家入の声が別方向から飛んできて、無口な一年生は結局ただ黙々とパンを咀嚼するしかない。
 午後の合同授業が終わり、次の授業の前に中庭で腹ごしらえをしているところだった。育ち盛りの高専生に、昼食から夕食までの時間は長すぎる。休み時間の栄養補給は必須なのだ。
 会話の主導は常に二年の五条。今も夏油が交際していた大学生と別れたという話を、本人に嫌がられながら楽しそうにしていた。
「いつも、恋も女もくだらないって言ってるくせに」
 哀れな後輩から自分へと五条の意識を引き戻し、夏油はゼリー飲料を啜っている。
「俺にはくだらないし不要だよ? でも他人の話はエンタメだから」
「最低」
「最低だな」
 嘲るような口調の五条に、同級生から容赦ない罵声が飛んだ。
「オマエらには言われたくねーし」
 喧嘩腰の会話にも慣れてきた。最初は不仲かと思ったが、恐ろしく仲が良いだけだと今はわかっている。
 七海の隣でおにぎりを頬ばっている灰原も、早々に微笑ましい光景だと認識したらしく、気にする様子もない。しれっと食事を続ける後輩二人を、五条は焦れたように指した。
「部屋も隣同士なんだから、たまにはそういう話もするだろ?」
 自分にも振られると思っていなかった灰原は、きょとんとしてから口の中の物を飲み込む。
「あんまり興味ないので、話したことないです! 先輩たちはよく話すんですか?」
「は……」
 天然故の見事な切り返しに、家入が噴き出している。五条はぽかんと口を開け、そして「こいつのネタだけだよ」と夏油を小突いた。
「あーあ、張り合いねーの。来年に期待かぁ」
「悟は年下に興味ないんだろ」
「だから俺じゃなくて……」
 いつもの言い合い。爽やかな風と、ゆったり流れる雲と、少し傾いた太陽と。午後の中庭は眠くなるほどに普段通りだった。
 風下で煙草を吸っていた家入が、校舎の時計を見上げる。
「一年、そろそろじゃないのか」
 その直後に予鈴が鳴り、二人はあわてて立ち上がった。二年生はこの時間は休みで、まだ教室に入らなくてもいい。急がなければいけないのは自分たちだけ。
 駆け足で教室に向かいながら、灰原は首をかしげる。
「でも、なくはないよね。来年になれば後輩もできるし」
 そんな余裕があるとは思えないが……という七海の生真面目な不安を、彼は快活に笑い飛ばす。
「俺、そういう人ができたら、七海に紹介するよ」
 されても困ると答えたが、先を歩く彼には聞こえていないようだった。
「絶対、したくなると思うんだ」
 廊下に西日が差し込み、彼の笑顔が見えなくなる。足の運びは変わらないのに、どんどん友人の姿が遠ざかる。

「灰原……っ」
 飛び起きてから、自宅の寝室だと気づいて息を吐き出した。
 柄にもなく学生時代の話などしたからか。
 それにしても、なんと牧歌的で起伏のない夢だろう。呪霊も死人も出てこない。ただの夢か、実際の記憶かさえ判然としない。
「ぅん……」
 傍らの伊地知が寝返りを打つ。こちらに背を向けてうずくまり、寝顔は見えない。
 相変わらず他人の寝床で熟睡している……とその呼吸に意識を向け、先日と違うことに気づいた。不自然に寝息を立てているように思える。
 七海が起きた拍子に、目を覚ましてしまったのか。
 確かに今、どうしたのかと声をかけられたところで、まともな返事ができるとは思えない。自分が起きがけに何か口走ったのなら尚更。彼なりの気遣いが、さほど上手くない「寝たふり」なのだろう。
 七海は再び布団の中に潜り込む。
 そして、丸くなっている背中にそっと額を押し当てた。息をのんだのがわかって少し笑いそうになった。
「悪い夢ではありませんでした」
 そう呟くと、安堵のため息が静かに聞こえた。

 七海が触れても壊れない人。
 必死に駆けつけてきて、七海に安らぎを与えてくれる存在。
 灰原に彼を紹介したいと、強く思った。

 ◆

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!