七海/伊地知
【一.強制発動】
◆
かじかんだ手をさすりながら、夜空を仰いだ。
乾燥のせいか、荒れすぎた唇が切れて血が滲んでいる。気にするのも馬鹿馬鹿しいが、地味に痛い。たまに血の味を感じる。
などと他愛もないことを考えていると、背後の帳から先ほど入ったばかりの術師が出てきた。
仕事が早いですねと声をかけようとしたが、七海は険しい顔つきで足早に歩み寄ってくる。
「伊地知君、帳は別の方に任せて、中へ来てくれませんか」
「えっ、あっ、はい……」
術師でない自分を伴う理由は見当がつかない。しかし呪霊はまだ祓われていないのだと悟り、近くの住宅街で見張りをしていた補助監督を呼びつける。
「本当に、私でよろしいですか? 少しお待ちいただければ応援の術師を手配しますが……」
「いえ、そこまでではありません」
口ぶりからして、七海も伊地知が適任と思っているわけではないらしい。それでも術師が不要ということは、単純に人手が必要なのだろう。一級呪術師の彼がわざわざ呼ぶからには必ず意図がある。
再び帳が下りる。だが伊地知が立っているのは外でなく内側。目の前には、古いネオンが途切れ途切れに点滅していた。先日廃業に追い込まれたラブホテルには、その原因となった呪霊が今も巣くっている。
「それで、私はなにを……」
「呪霊が姿を現さないので、おびき出すお手伝いをしていただきたい」
囮ということか。たしかに、二級相当の呪霊と聞いていたが、ほとんど気配を感じない。巧妙に隠れているようだ。
「かしこまりました」
進んでやりたい役回りではないものの、その程度なら自分でも参加できる。非術師の身としては光栄だと思うことにした。
ひそかに意気込む伊地知とは対照的に、七海は普段以上に眉を寄せ、気難しい表情を崩さない。
「説明しづらいのですが、とにかく私の言うとおりに、決して逆らわないでください」
「はい、勿論です」
電気系統は切れているはずだが、照明が不規則に瞬いている。
伊地知は懐中電灯で足下を照らした。残穢は至るところにあるが、却って絞り込みにくい。七海は迷わずに非常階段を上り、四階の突き当たりにある客室を目ざしていた。すでに攻略プランがあるのだろうと、おとなしくついていく。
ドアの壊された部屋が目的地らしい。照明こそつかないが、派手な装飾はそのままで荒れた様子もなく、やたら大きなベッドマットだけが残されていた。
近づいて照らしてみれば、古くて染みや汚れもある。廃業時に打ち捨てられていったに違いない。
「五条さんならはしゃぎそうな場所ですねえ……」
不真面目なほうの術師を思い浮かべた、その拍子に。懐中電灯を持った手をいきなり掴まれる。
「うわっ……」
つい声を上げてしまったが、その手が七海だと気づいて息をついた。
「ど、どうしました?」
背の高い七海が、こちらをまっすぐ見下ろしている。苦虫を噛み潰したような顔は変わらない。ただ、手首を掴む力は痛いほどに強かった。
「私に従ってください」
「え……」
有無を言わせぬ腕力で引き寄せられ、厚い胸板に倒れ込む。そのまま抱きすくめられて、一瞬思考が止まった。ふわりと鼻をかすめた場違いな匂いは、彼の香水だろうか。
「七海さ……」
「逆らわないでと言ったでしょう」
耳元で発せられたのは平素の硬質な声ではなく、甘さすら感じる囁きだった。
「え、え……?」
逆らうもなにも、頑丈な腕にがっちりと捕らえられていて動けない。
「私に身をまかせて……」
広い手が、伊地知の腰をなぞり下ろす。
「ひゃっ」
脚をもつれさせ、背後に体が傾くのを感じた。そこに筋肉質の長身が体重をかけては、伊地知では支え切れない。
「わっ……」
二人で倒れたのがマットレスの上だったのは幸いだが、そうも言っていられない。七海の荒い息が首筋にかかり、ワイシャツの裾はズボンから引っぱり出されている。
「ななななな七海さん!?」
生真面目で有能な一級術師の彼が、こんなところでたちの悪い悪戯などするはずがない。わざわざ伊地知を指名して連れてきた理由があるはずだ。
考えろ、考えろ……!
伊地知は必死に脳を回転させた。
「!」
被害者は利用客のみ、店員は無事だった。客は必ず二人揃って食われている。遺体の残骸はほぼ服を着ていなかった。
一人でいる者は襲われない。呪霊が姿を現さない。手伝いは非術師でも構わない……。
「……っ」
伊地知は意を決して、七海の頭を抱き寄せる。グラス越しに目が合った。
七海は伊地知を襲う「ふり」をしているだけだが、それでは効果があるかわからない。
「あの、遠慮、しなくていいですから……」
自分の声が震えているのを感じながら、乾ききった唇を相手のそれに重ねる。七海は驚いたように息を止め、しかしすぐに伊地知の口へと噛みついてきた。
「んっ」
今度は「ふり」ではない。舌の感触に怯みつつも、伊地知は懸命に応えようとした。
眼鏡同士がぶつかって音を立てる。自分の眼鏡を額に押し上げた伊地知を、七海はサングラス越しに見やった。
苛立たしげに息をつき、濡れた唇を舐める七海の殺気は、乾いた空気よりも伊地知の肌を裂きそうだ。
「もう少し、付き合ってもらいますよ」
「どうぞ、好きにしてください……」
外した眼鏡を遠ざけるため片腕をマットレスに投げ出したら、もう片手はせいぜい七海の広い背に縋りつくことしかできない。こちらはネクタイもシャツも乱され、ベルトも外された。
自分はほとんど着崩していない七海は、伊地知の胸元に額を押しつけ、我慢ならないという風情で呻いている。もう伊地知の服に手をかけるのをやめ、自身のベルトを外しているのだと気づいたとき、「ふり」だとわかっていても伊地知の体は強ばった。
緊張と焦燥で息が上がっていく。
と同時に、頭上へ不快な圧力がのしかかってくるのを感じ取った。伊地知でもわかるほどに強い何かが、こちらへ近づいてきている。
「ぁ、七海さん……」
喉を反らせた伊地知は「それ」が天井から滲み出てくるのを認めた。
巨大な口が姿を現し、そして何本もの腕が天井から垂れ下がる。これが、ここに巣くっている呪霊か。
「早く……っ!」
「わかってます」
獲物へと伸びてきた腕を、七海は振り向きざまに薙ぎ払った。マットレスの弾力をバネに身を起こし一気に立ち上がった彼は、すでに武器を手にしている。
「手間かけさせやがって……!」
彼らしくない罵声とともに、鉈が振り上げられた。
まさに一閃。
呪霊は耳障りな悲鳴を上げて四方に飛び散り、消滅した。七海は暫く様子を伺っていたが、呪霊の気配はなかったらしい。深々と息をついて鉈を下ろす。
一方の伊地知は、マットレスに横たわったまま動けないでいた。
「お疲れさまでした。怪我はありませんか」
「はい……無事です……」
差し出される手を取ると、強い力で立たされる。七海はベルトを締めなおしているだけだが、こちらはひどい有様だ。
「無理をさせて申し訳ありません。君なら協力してくれると思っていました」
「先におっしゃってくだされば……」
シャツの裾をしまい込みながらもそもそ呟くが、すぐに余計なことを言ったと気づいた。
「ほう、芝居は得意ですか?」
「いえ……出すぎたことを申しました……」
もし事前にそういうことをしなければならないとわかっていたら、ぎこちなさでボロを出したと思う。七海の判断は残念ながら正しい。
「にしても、独り身は食わないだなんて、失礼な呪霊ですね」
ラブホテルという場に相応というべきか、呪霊が食った人間はいずれも行為中のカップル。七海が一人で駆けまわったところで、出てくる気配すら見せない。ならばおびき出すしかない。
七海が伊地知を指名したのは、もう一人の補助監督が若い女性だったからだろう。高専時代の後輩のほうがまだダメージが少ないと判断したのだ。消去法とはいえ、楽しい作戦ではない。ずっと消えなかった眉間の皺も納得がいく。
「七海さん、大丈夫ですか? 私なんかが相手で、気持ち悪くなかったですか?」
男とのラブシーンをリードしながら演じるのは、彼の仕事の中でもまちがいなく「クソ」の部類に入っているはずだが、さすがは一級術師、そこまでは言わない。
「考えている余裕はありませんでしたね。君こそ……」
「いえ、むしろ恐縮です!」
なにを言っているんだと自分で思いながらも、たしかに不快感どころではなかった。お互い、人間や呪霊のあらゆる体液も臓物も慣れきっている。今さら男同士でどうのと騒ぐのも却って気恥ずかしい。
「私でよければ、いつでも使ってください。そのための補助監督です」
「こんなリソースの無駄遣いはもうしませんよ……君、眼鏡はどうしました?」
伊地知の懐中電灯を拾い上げた七海が、ふとこちらに向きなおる。当然だが気づかれてしまった。
「ええと……」
呪霊が現れた時点でさっさとかけなおせばよかったのだが。急な展開に動けないでいるところへ、七海が粉砕した肉塊が落ちてきて、消滅する前に運悪く眼鏡を押しつぶしてしまった。しいて言うなら自分のせいだ。
「それは申し訳ない……」
「あ、でも車に予備が置いてありますので、戻れば大丈夫です! お気になさらず!」
「そうですか」
安心した様子で懐中電灯を渡してきた七海は、そのまま伊地知を引き寄せて手を握った。
「はい!?」
「外まで連れていきます。足下がおぼつかないでしょう」
「あっ、ありがとうございます……」
力任せに掴まれるよりも、拒みがたい。
握り返すかどうか迷っているうちに、七海は伊地知の手を掴んだまま歩きはじめる。前のめりで転びかけて安全性を優先した結果、彼の大きな手を握り返すことになった。
濡れ場を演じるのは抵抗がなかったのに、手を繋いでいるだけのほうが照れくさい気分になる……のは自分なのだけだろうか。
車に戻り、スペアの眼鏡で視界を取り戻した。
あとは七海を自宅前まで送り届けるのが自分の仕事。
駐車場の端に自販機があったので、缶コーヒーを2本買って現場まで車を回した。1本は残って事後処理をする同僚に。もう1本は後部座席に乗り込んできた七海に。
「その……お口直しを」
七海はなんのことかと言わんばかりの顔で伊地知を見つめ、それから気づいたように自分の唇を指でなぞった。
「血の味は、慣れていますから」
無表示にそう言われて、今さら唇の出血を思い出した。
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