七海/伊地知
【二.塵芥一握】
◆
呪術高専は、一般的な高専と違って生徒数が極端に少ない。
すぐ顔も名前も覚えてしまう人数が、寮で一年から四年ものあいだ、生活を共にする。時には命を預け合い、生死を左右する場に立ち会う。そのため、同時期に学んでいた先輩から後輩まで、友情よりも強固な仲間意識や敵愾心で繋がっている。どの時代でもどの世代でも変わらない。
そんな中で伊地知潔高は、七海にとって比較的印象が薄い後輩だった。一年上の先輩が強烈すぎたのもあるが、何しろ呪力も弱い、適性もさほどない。気弱で臆病で優しすぎる。
呪術界に残るなら、補助監督か窓しかないだろうとは学生時代から思っていた。
数日続いている自身の「変化」は、どうも思い過ごしというには違和感が強い。
記憶を辿れば、やはり先日の現場からだろう。あの呪霊か、別の呪いか、それとも同行者か……。
報告書の提出と諸手続きのために呪術高専の事務局へ行ったところで、運悪く面倒な人物と遭遇した。
「聞いたよ、伊地知とラブホ入ったんだって?」
常に人の勘に障るポイントを的確に突いた発言をするのが、五条悟という男だ。
「ええ、任務で」
苛ついては相手を悦ばせるだけなので流そうとするが、おとなしく引く相手ではない。
「七海はプライベートで行ったりしないの?」
「用がありませんから」
「じゃあいきなり自宅に連れ込む系だ……」
「そういうご自身はどうなんですか」
つい言い返してしまってから、対応を誤ったと気づいた。顔の半分が見えないにも関わらず、邪悪な笑みが浮かんだのはわかる。元々よく通る声が、元気よく張り上げられた。
「えっ何? 七海ってば僕のえっちなエッチの話聞きたいの? 七海のえっち〜! しょうがないなぁ、じゃあ今までつき合った人数せーので言おうぜ……」
「お一人でどうぞ」
しかし時すでに遅し、職員たちの視線が二人に集まっている。興味のある人間は多そうだから、話したいならいくらでも話してほしい、自分が立ち去った後に。
「じゃあ今相手いるかどうかだけ教えてよ、知りたがってるヤツいっぱいいるからさ」
「いません、これで満足ですね」
面倒な先輩にいつまでもつき合ってやる義理はない、と踵を返したとき、五条がさらに声量を一段上げる。
「ねえねえ伊地知ぃ」
見れば、ファイルを抱えた伊地知がちょうど入ってきたところだった。
「なんですか?」
七海に気づいて「お疲れ様です」と頭を下げてくる伊地知に会釈で返す。例の接触は任務内でのことと割り切ってはいたが、今の会話でペースを乱されていたのがよくなかった。
五条は七海を指さし、よろしくない部分だけをピックアップして告げる。
「このスペックで恋人いないの、逆にヤバくない?」
「いきなり何の話ですか!?」
それはそうだろう。帰るタイミングを逃した七海は、伊地知が駆け寄ってくるまで間抜けにも立ち尽くしていることになる。
「また七海さんを困らせてるんですね……五条さんが毎度すみません」
「オマエ僕のお母さんなの?」
「失礼ですが五条さんだって、フリーだって前からおっしゃってるじゃないですか」
さすが、七海不在期間も五条と忍耐強くつき合ってきた男は、こんな話題でも簡単には動じない。五条の意識が伊地知へ向いたことに七海は少し安堵する。
「僕は理想が高いだけだからさ。最低限、僕程度に顔がよくて背が高くてお金持ちで呪力が強い相手じゃないと、つりあわないじゃない?」
その条件だと人類は諦めたほうがいい、と思っているのはおそらく七海だけではない。
「でも七海はそこそこだから、そこそこの相手を切らさないと思ってたんだよねえ。伊地知と違って」
「私と五条さんの共通点を初めて見つけましたね……」
七海よりも直球で貶められた伊地知は、苦笑しながらファイルを抱えなおす。
「そんなことより授業でしょう、五条さん」
「えー、まだ早いでしょ」
誰が時計を見るより先に、チャイムが鳴る。もちろん始業の。
「アイツらも勝手にやってるって、大丈夫大丈夫……」
「学長に怒られますよ!」
「伊地知が代わりに怒られといてよ」
「この前もそう言って……」
先輩後輩の気安さか、年若い補助監督は最強の特級術師を教室へと追い立てていく。五条悟と関わりたがらない職員もいる中、伊地知はなにかと重宝されているらしい。
意識的かどうか、視線は一度も合わなかった。
週末の夜、伊地知は七海が指定した店に現れた。
「時間外に呼び出してしまい、申し訳ありません」
「いえ、お約束がなければ残業していましたから……お店まで予約していただいて恐縮です」
伊地知の表情は硬い。
呪術師が補助監督を個人的に呼び出す、その意味をよくわかっているからだ。学内では……他人の耳目がある場所では話せない事案と決まっている。
「ちょうどいい個室を他に思いつかなかったもので、馴染の店で失礼します。ここは私の奢りですので、存分に」
「いえ、それは……!」
伊地知が全力で断ろうと腰を浮かせたときに、ワインが運ばれてきた。彼は肩をすくめて口をつぐみ、おとなしくグラスを手にする。
「まずは、お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
値段を気にしているのか、別のことを考えているのか、味わっている表情ではない。
確かに、学生時代からの顔見知りではあるが、授業と任務以外で二人きりになった記憶はない。お互いの立場を考えれば、緊張も当然だろう。
前菜を運んできた店員が下がるのを見計らって、伊地知は居住まいを正す。
「……それで、私は何をすればよろしいでしょうか」
控えめに、しかし心得た様子でこちらを窺っている。呪術師が立場の低い補助監督をもてなすのは、なんらかの便宜を図ってほしい場合だと彼はよく知っている。
さて、どう切り出そうか。
「これは私の個人的な関心なので、ご存知ない、答えられない場合は遠慮なくおっしゃっていただきたいのですが」
「はい」
あの夜からの違和感は、ひどく曖昧な感覚だ。ただの思い違いもあり得る。
「先日ご一緒した任務の後、伊地知君の残穢を微かに感じているのですが……」
怪訝そうだった相手の表情が、しだいに強ばっていく。
「あの……もしかして、七海さんの身に何か?」
「異常というほどでは」
「悪化ではなく好転でも、異常は異常です」
口ぶりからすると、どうやら七海より状況を把握しているらしい、と違和感をそのまま伝えることに決めた。
「ここ一週間ほど……とてもよく眠れています」
普通なら「それはよかったですね」以外に返しようもない個人的な報告に、伊地知は深刻な表情で眼鏡を押し上げた。
「大変申し訳ありません……私の術式に巻き込んでしまったようです」
伊地知の術式。可能性は考えていたが、実際に知らされるとやはり驚きはある。
「君に術式があったとは初耳です」
学生時代の伊地知について知っているのは、五条悟に引導を渡されて、術師から補助監督へと進路を変えたことだけ。確か生得術式はなかったはず。他人に無関心な七海の気を引くほどには、卓越した能力はなかったと記憶している。
「いえ、ぜんぜん大したものじゃないんです。使い道がないと言われているくらいなので……。このスープ、美味しいですね」
「お口に合ったようで光栄です」
料理が運ばれてくるたび、二人は会話を中断して料理を褒める。実際、伊地知が食事を楽しんでいるかはわからないが。七海の贔屓の店なのは事実で、味わってほしいとは思う。
店員が静かに去ってから、伊地知はナイフとフォークを置いた。
「『五寸召(ごずめず)』……特定の相手に、自分の呪力の一部をほぼ永続的に与えることができる術式です。私の前には曽祖母が術者でした」
「術師の負担が大きそうですね」
七海の常識的なコメントに、伊地知は力なく首を振る。
「術師自身に障りはないんです。術式の対象者がダメージを受けても私には影響がない。逆に私が不調でも呪力は消えませんから、呪力量に変化はありません。両者が生存しているかぎり、または解呪しないかぎり、呪力の付与は特定の条件下で持続します。対象者の能力に関わらず、呪力を常に強化することができます。
また使い方によっては、対象者の呪詛も可能です。大昔はそちらの用途が主流だったようですね」
「なかなかに思えますが」
通常、呪力のやりとりは増減を伴う。他の器へ移せば、元の器の中身は少なくなる。強力な呪術師や呪霊は、多少与えても奪われてもすぐに復活するが、それも一度は減っているのだ。目減りすることなく他人に呪力を付与するとは、つまり呪力量を無条件で二倍にできるということ。
だが伊地知はずっと困り顔だった。
「いやあ……これがせめて二級以上の術師なら、御三家付も夢じゃなかったんでしょうけど。ただでさえ低い私の呪力の、さらに一割程度しか送れなくて。せいぜい『生身の体を元気づける』ことしかできないんですよね……」
「ほう」
「曽祖母も引退後は、持病で弱っていた夫の体力を維持するために使っていたそうです。つまり治癒力はないということですね。五条さんに言わせると、いくら永続的でも一日で缶コーヒー1本ぶんくらいの足し、とのことで……存在価値がわからないくらいの術式なんですよ」
さすが五条悟、生まれついての特級術師らしい傲岸不遜な言い回しだ。世界を支配できる力と引き換えに、デリカシーと人の心は持ち合わせていない。思い出すだけで腹が立つ特級はさておいて。
「効果には個人差があるようですね。私の場合は、あの日の夜から妙なほど寝つきも寝覚めも良くなりました。ここ数年記憶にないくらいです」
「うわあ……」
居心地悪そうに聞いていた伊地知は、眼鏡の下に手を入れて顔を覆った。
「そんな乳酸菌飲料みたいな効果あると思いませんでした……」
嬉しいけど微妙……などと、テーブルに突っ伏すような姿勢で呟いている。
「乳酸菌飲料は試したことがないのですが……先ほども言ったとおり、あくまで個人的な好奇心で、君の術式というものに興味を持っています」
顔を覆って深くうつむいていた伊地知が、そのままの姿勢で大きく肩をすくめた。
「開示でどうこうっていう術式じゃありませんが……」
そこでまた料理がやってきて、伊地知は顔を上げ食事に戻る。そして今の会話から無難な箇所だけを取り出して会話に乗せてきた。
「そんなに、いつも眠れないんですか?」
「元々あまり寝つきがいいほうではなかったのですが、前職では昼も夜もなく働いていたので常態化していまして。今は、その後遺症みたいなものでしょうか」
子供の頃は、気味の悪い怪物が自分だけに見えるという恐怖で眠れなかった。高専に入ってから仲間を得て緩和されたはずが、友人の死を引き金に夜毎うなされるようになる。呪いと悪夢から逃げるように勉学や仕事に打ち込んでいるうち、まともな睡眠がどんなものだったか忘れてしまった。
「それは、大変ですね……」
伊地知の相槌には芝居ではない実感がこもっている。
「何か現状に対する打開策があればと思いまして」
半ば諦めていたことだから駄目元ではあるが、呪術師として異変を放置しておくのも落ちつかない。迷ったあげくに伊地知を呼び出した。
ワインを一口飲んでから、伊地知は視線を落としたまま語り出す。
「私の術式ですが、呪力を送れる相手は一度に一人のみ。対象者もその間は他の術師から同様の支援を受けることはできません。
対象者に課せられる縛りは、これが発動条件でもありますが、術師と『五寸以内』……約15cm以内の接近か接触です。身体の接近、表皮の接触、粘膜同士の接触、の順に強度が上がっていきます。強度といっても呪力量ではなく、期間の延長です。
接近の場合、衣服などの遮蔽物があっても有効です。この場合、離れて1日程度で繋がりは薄れ、やがて効果がなくなります。直接の接触は状況次第で、3日から半月近く持続します。ただ、七海さんクラスですと、私の呪力ではほとんど差がわからない程度でしょう。
反動や離脱作用はとくにないようですが、解呪まで自然消滅はしません。他の呪力支援を受けられなくなるだけなので、現状はデメリットしかないですね」
確かに、呪力が強化された自覚は全くない。なにかが目減りしていく感覚もない。呪力にほぼ影響がなかったからこそ、七海でも原因が探れなかった。
「しかし、いったい何故私に?」
彼はのろのろと顔を上げ、だがこちらを見ないまま小さな声で白状する。
「おそらく、『誤作動』ではないかと……」
「そうですか」
これはある程度想定していた。偶然発動条件が揃ってしまった結果なのだろうと。
「補助監督が無意識の術式発動なんて、どんなに無害でも始末書モノですよね……」
なるほど、彼が気に病んでいたのはそこだったか。ただのミスではない、呪術高専職員としての処分を伴う。
「君が始末書を書くとなると、先日の報告書で私がごまかした部分も明らかになってしまいますね」
伊地知を囮として使った詳細については、必要もないと思い報告していない。伊地知も当然報告書を確認している。術師の機転と補助監督の協力で任務を成功させただけだ。必要に迫られてあのような行為に至ったことは、本人たちが忘れてしまえばいい。
そんな暗黙の了解で報告されない事実は山ほどあるのだが。
「私、七海さんにご迷惑を……」
ただでさえ血色の良くない顔がどんどん色を失っていく。気の毒に思いながらも、その状況すら利用する自分がいる。
「お互い、始末書の作成と報告書の再提出を逃れるためということで」
七海の皿は空になっていたが、相手のほうは半分以上残っている。自分基準で選ぶと、伊地知には多すぎたかもしれないと思った。
「差し支えなければ、発動条件を教えてください」
伊地知は無意識での発動を相当恥じているらしく、肉を細切れのように小さく切っては口に入れていた。しかし結局は、無言の圧力をかけてくる七海に負けたらしい。
「乾燥で唇が切れてたのが悪かったんでしょうね……契りに必要ですから」
「血ですか、なるほど」
血は、呪術において最もスタンダードな触媒だ。本人の一部であり、肉体の大きな欠損も不要で、交換が容易い。しかし大量の血液を浴びたのならいざ知らず。
「何故『誤作動』が起きたのでしょう」
半ば答えを予想しながら尋ねる。伊地知は汗を拭き、努めて冷静に話そうとしていた。
「儀式の一部を偶然満たしてしまったことが直接的な要因として考えられますが……術式の主体である私と、強い呪力を持つアナタが、あのとき利害の一致にせよ、お互いを求めたから、と推測します……。接近や接触を許す相手というのは、つまりそれだけ親密な間柄になったということなので……」
確かに、かなり肌に触れた覚えがある。口づけは言うまでもなく粘膜の接触に当たる。すぐにでも呪霊を攻撃できるよう張りつめていた七海の呪力が、発動の触媒となった可能性も非常に高い。
「一連の芝居が、『合意』になったわけですね」
「ぅう、はい……」
伊地知が七海の目的を理解し、受け入れたとき、彼にはなんの躊躇もなかった。現場対応力の高さと、七海への信頼ありきではある。
「縛りも厳しいですし、汎用性が低すぎて、生涯使う機会はないと思っています、が……」
ちらりと上目遣いでこちらを見る。
「理解しました」
皿が下げられ、デザートとコーヒーが運ばれてきた。
甘いものはそれほど得意ではないが、ここのティラミスは美味い。せっかくだから伊地知にもそう思ってほしいところだが、このタイミングでは難しいかもしれない。
「その、握手程度でしたら、だいたい3日ほどだと思います。私もほとんど使ったことがないので、しばらくは探り探りになりますが」
さすが補助監督、こちらの意図はすでに悟っている。
「つまり、数日に一度の握手で元気づけていただけると」
「そうなりますね……」
「無理強いをするつもりはありませんが」
改めて「縛り」を課してほしい。なぜならよく眠れるから……。任務に全く関係ない、とてもこの個人的な我が儘を、なんとか通せないものか。
「接触のついでに、今日のような食事にお誘いしても?」
「それは……っ、全然、無償で大丈夫ですので……私と会うこと自体が縛りですし!」
声が裏返るほどに怯んだ伊地知は、カップを置いて七海と視線を合わせた。
「あの、おわかりだと思いますけど、私の呪力なんて微々たるものですよ? 缶コーヒー1本程度のサポートにしかならないですからね、栄養ドリンクほどもお役に立てませんよ?」
自分の呪力に良くも悪くも影響を及ぼす術式でないことは、理解した。
しかし、実体験は理屈ではない。
体力と筋力のおかげで、体調を崩すことはめったになかった。しかし万全かというと、常時寝不足ではある。肉体的には壊れないからこそ、精神は追いつめられていく。会社員時代よりはマシかもしれないが、呪術師という職種自体がメンタルにはマイナス面しかない。
「私は好きですよ、疲れた時の缶コーヒー」
憂鬱な仕事に向かう朝。途中で手を引けない案件の真っ最中。もはや思考も働かない徹夜明け。手応えのない成果に自分なりの区切りをつけようとする瞬間。深夜でも強い光を放つ自販機に、夏の虫の如く引き寄せられるのが労働者という生き物だ。
「はは……コーヒーって例えるとそうなりますか……」
伊地知はティラミスを少しずつ削っては口へ運んでいる。
「とても光栄だと思います。でもその、七海さん相手に私ごときが烏滸がましいといいますか、釣り合わないといいますか……私みたいな者と頻繁に接触を強いられることに、不快感などはありませんか?」
「強いているのは私ですが……?」
日々、人間の本性を具現化したような存在と相対している身だ。不快感の中で仕事をしている。理由もないスキンシップを仕掛けられるのは苦手だが、伊地知なら妙に馴れ馴れしくなることもないだろう。
「缶コーヒー1本分の私でよければ、よろしくお願いいたします……」
覚悟を決めた表情の伊地知は、深々と頭を下げた。
店を出て、どこか適当な場所で儀式ができないかと二人で周辺をうろつく。大仰なものではないというから、人目さえなければいい。
伊地知が荒れた唇をこするのを見て、もうひとつの用事を思い出した。
「まだ乾燥したままのようですね」
「はい?」
来る途中にふと思いついて買ったものを、彼の胸ポケットに入れる。
「よろしければ、使ってください」
伊地知が目を丸くしたのは、リップバーム。ひび割れて血が出るほどなら、ケアしたほうがいいという余計なお節介だった。
「うわ、わわわ……何から何まで、本当に恐縮です、ありがとうございます。何もお返しが……」
あわてる伊地知の手を握る。
「今日のぶんはもういただきました」
15cm以内の接近、もしくは相手の肌に触れるだけ。この季節には悪くない。
印象の薄い後輩から、最も距離の近い補助監督へ。
七海建人にとって伊地知潔高の存在が、その日から変わった。
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