七海/伊地知

2024_呪術廻戦,[!],[R18]

【三.分不相応】

 ◆

 七海建人の印象は、長らく「冷徹な完璧主義者」だった。
 高専の先輩ではあったが、それだけといえばそれだけ。向こうも後輩の一人という程度の認識だっただろう。
 成績優秀、呪術師としての素質も適性も高い。無駄口も叩かず、スマートに学業も任務もこなす。憧れるのも恐れ多いほどだ。
 高専時代の七海が笑っている記憶は、伊地知の中にはない。常に思いつめた表情で、他の学生とはどこか違う地点を見ていたような気がする。必要な単位を取得後、呪術と無関係の大学へ編入したと聞いた。彼のような優秀な術師が去り、不出来な自分が残るというのは、なにかの皮肉か。
 呪術界に戻ってくるとは思っていなかったが、数年のブランクを感じさせない、その期間の不在を惜しまれるほどの「適性」をまざまざと見せつけられた。正規の呪術師となって一年足らずで、七海はベテラン顔負けの活躍を見せるようになる。
 しかし相変わらず笑顔を見せることはなく、険しさが増した顔つきで学生や若手の職員達を怯えさせている。
 伊地知の心理的なハードルは、学生時代から少しも下がっていなかった。

 唇の荒れが治ってきた。
 七海がわざわざメンズスキンケアブランドのリップクリームを買ってきてくれたおかげだ。
 自分でも何かのついでに買うことはあるが、どうしても習慣にならないまま、なくしてしまう。七海からもらったからには使わなければいけない、というプレッシャーのおかげだろう。
 単純だがこれもひとつの「呪い」だなと思いながら、左手の薬指の絆創膏を外した。
 先日、七海と改めて「縛り」を設けた際の名残。
 血を出すために切った傷は、もうほとんどふさがっている。
 指の選択に深い意味はない。右利きの人間が日常生活に影響が少ない指を選ぶとそうなる。薬や紅を塗るための指だから「薬指」、とはよく言ったものだ。
 その傷口をふと唇に当ててみて、伊地知は「うわあーっ」と声を上げながらうずくまる。
 仕事上のつき合いしかない相手に、憧れを通り越して敬遠していた相手に、「使い道がない」として自分ですら存在しないことにしていた術式を使う羽目になったのだ。これが叫ばずにいられるだろうか。
 あの夜。
 人気のない……当然呪霊も見当たらない路地裏で、改めて七海に己の術式を施した。
「耳鼻咽喉、直腸、性器……解体なしで接触できる部位はそれくらいですが……」
 職業柄、物騒な物言いしかできない。粘膜の接触といえば、膚を裂いて腑を引き摺り出すような世界に生きている。
 いや、抵抗感のある言葉を避けると、どうしても事務的な口調になるのは仕方ない。
「キスなら先日しているので、私は問題ありません。君が嫌なら避けましょう」
「おぅふ……」
 回避した単語をさらっと言われ、妙な声が出た。
 西洋人に近い外見のせいか、それとも大人はそんなところに羞恥などないのか、どちらにしても七海には躊躇がない。こちらが変に照れていても気色悪いだけだろう。
 正式な呪言を唱え、傷をつけた指先を七海の唇になすりつける。彼に自分の指から血を吸わせるのは申し訳ない気がしたから。
 七海がその血を舌で舐めとるのを、伊地知は固唾を飲んで見つめていた。
 唇に鮮血を引いた顔は、妖艶さすら感じさせる凄みがあった。たとえ呪力がなかったとしても、この外見だけで自分とは別世界の存在なのだと思い知らされる。
「どう考えても釣り合わないでしょ……」
 洗面所で貧相な自分と相対してから、しばらく呻きつづけるのが、朝晩のルーティンになっていた。

 15cmというのは、プライベートゾーンの内角を抉ってくるような、ありえない距離の近さだと実感する。
「七海さっ……近……」
 壁のような長身が目の前にそびえ立つのだから、威圧感がないわけがない。
「君が言うんですか」
「五寸は私が決めた距離ではないので……」
 確かに、親密になる以外にないのだ。支援するにせよ呪詛するにせよ、この距離感を維持するのは容易くない。
「別に、体が近い必要はないんです。肌が触れれば成立するので」
「そうでしたね」
 社会人として最も無難な肉体の接触、握手を交わせば、呪力の付与は完了。今日は七海が呪術高専の鍛錬場を使いにきたため、ついでに済ませられた。
「今日もありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
 お互いに実感がないため、なんとも間の抜けたやりとりになる。相手は優秀な一級術師だというのに、何をさせているのか。
 なのに、何か安くなさそうな酒の小瓶を押しつけられてしまった。一人で消費できる、かつ五条に横取りされない消え物として絶妙なセレクトだ。
「あの、頻度の高いことですので、お気遣いなく……」
「こちらもついでの買い物ですので、お気遣いなく」
「はあ……」
 役に立てているのは嬉しいが、いつまで経っても緊張が解けない。

 代休で家にいたところへ、五条からせっぱ詰まった様子の電話が入った。今すぐ高専の武器庫に、しかも誰にも気づかれないように来いと。
 何事かと駆けつけると、特級術師は呆れるほどの笑顔で待っていた。折れた槍を手に。
「授業で使ったら、壊れちゃった」
「なっ……」
 咄嗟に、必要な連絡先と始末書の枚数が頭を駆け巡る。
「壊れたんじゃなく、壊したんですよね?」
「言い方は任せるよ」
 時価何百万円かの呪具「だった棒」を渡され、思わず膝をつく。
「壊したんですね……」
 術師としては、この男こそが規格外で雲の上の存在だというのは、理屈ではわかっている。それでも、五条のほうが七海よりよほど気安いのだから、我ながら不思議だった。一方的に絡まれて一方的に面倒を押しつけられるだけだが。
 補助監督や術師の中には、五条悟と話したことがない・話したくもない・話したくとも近づけない者が少なくない。彼らが頼るのは伊地知だ。
 今、壊れた呪具を手にしている自分は、本当に心から困っている。望んだポジションでもない。だが、伊地知にしか立てない場所でもある。
「コレ、本当に怒られるやつですよ」
「そこをなんとかするのがオマエの仕事でしょうが」
 肩にのしかかる腕が重いのも、いつものこと。彼は常時強力な術式を発動しているという異常な存在で、彼が許さなければその身に触れるどころか近づくこともできない。
「そんじゃ、シクヨロちゃーん」
「五条さーん……」
 五条は本来監視役である補助監督の伊地知を抱き込むことで、上層部や御三家との駆け引きにうまく利用している。気の休まる暇もないが、それは結果として、自分の補助監督としての地位を押し上げてもいた。補助監督は呪術師よりも経験が物をいう職種で、二十代で御三家に出入りが許される補助監督は非常に少ない。五条がいるから今の自分があるというのもまた、厳然たる事実だ。
 思うところが全くないでもないが、五条悟との「共犯関係」を継続する以外の選択肢は、伊地知にはなかった。
 それはさておき、と両手に握った棒を見やる。
 休日にまで余計な仕事を増やすのはやめてほしい。

 今日は休みということになっているため、堂々と事務局には行けない。それでなくとも、秘密裏に処理しなければならない案件だ。
 使われていない教室に篭り、ノートPCと携帯端末でなんとか戦っていると、こっそり応援を頼んでいた新田が戻ってきた。
「事情聴取してきましたぁ!」
「ありがとうございます」
 なんとか修復できないかと業者や職人に連絡し、まず検分に来てもらうところまでは漕ぎ着けた。その間、新田には破壊時の状況を学生に聞いて回らせていた。呪力の強い秤金次相手の実技だったようだが、槍を折ったのはまちがいなく五条らしい。
「いやー、さすが五条家の特級術師、規格外っスね」
 新人の新田明は、高価な呪具を躊躇いなく破壊する五条にただ感心している。彼女もそのうち頭を抱えるようになるのだ、と伊地知は始末書の書式をダウンロードしながら思った。
「七海さんくらい大人になってくれないでしょうか、あの人も……」
 つい「最近会った大人」を連想してしまう。彼ならまず備品を壊したりはしないだろう。
「そういや伊地知さん、七海術師と仲良くなったんスか?」
 新田が不意にそんなことを聞いてきて、ぎくりとした。先日呼び出された時、術師と補助監督は便宜を図るために時間外の交流もあり得る、と研修のつもりで彼女には話していた。その時はまさかあんな用事だとは思っていなかったが。
「……そんなことはないと思います」
 力なく答えてから、それが事実だということに改めて気づく。実際、身体的な距離はありえないほど近くなったが、心理的にはまだまだ遠い。
「先日は、任務の事後確認的な話でしたから」
「七海術師も、別の近寄りがたさがあるっスね。人当たりはいいけど、懐には入れない的な」
「懐……」
 目の前にそびえる筋肉の壁を思い出した。あくまで「壁」であって、扉はどこにもない。
「なんか難しそうな本読んでるし、なんか高そうな時計着けてるし、なんかいい匂いするし」
 その香りを伊地知はよく知っている。
「こう言っちゃなんですけど、俗物っぽい術師に限ってよく香水つけてるじゃないっスか。血の臭い気になるとか言って。ああいうの大抵アホみたいにつけすぎてるんで、車ン中とかすぐ臭くなっちゃって……」
 彼女が言っている人物が複数人浮かんだ。術に必要な香の場合もあるが、そうでない場合のほうが多い。
「でも七海術師のは、正しいつけ方ってか……ああいうのが本物の大人ってやつっスかね」
「確かに」
 煙草と香水は、運転手や接待などを務める補助監督達の、悩みの種でもある。しかし七海に関しては今のところ担当者からの苦情は聞こえてこない。
「なんか完璧すぎて逆に引くっつーか。欠点とか弱点とかなさすぎてヤバいっス」
「そうですね……」
 弱点というほどではないが、慢性的な睡眠不足ではあるらしい、とは最近知った。
「この前、恋人いないって五条術師に吐かされてましたけど、チャンスあるって思ったヤツ絶対いねぇっスよ。並大抵の人間じゃあ、友達にもなれない感じしますもん。え、友達……いるんスかねえ?」
「はは、まったく……」
 全てが自分に刺さってくる。
 その完璧な大人と、仕事の外で個人的に会っているのが信じられない。職場や学生時代の飲み会でもなく、二人きりで、しかも術式絡みという秘匿すべき関係を持ってしまった。
「どうなんでしょう……」
 時間外労働と、五条の後始末と、七海との関係と……。
 自分も大人になれば、こんな状況にも悩まないのだろうか。

 数日後、七海から再び誘いを受けた。
 連日優先度の高い任務が続いていたため、高専へ出向く余裕はなかったのだろう。伊地知から七海のスケジュールを確認するのは容易い。
 銀座の交差点で待つとのことだったので、なんとか雑務を切り上げて待ち合わせ場所へ向かう。
 雑踏の中、必要であれば電話で場所を確認するのだが、その必要はない。長身の七海はどこにいても目立つ。
 百貨店のウィンドウディスプレイと、その前で佇んでいるコート姿の七海。あまりにも絵になりすぎていて、声をかけるのを躊躇った。
 結局、一秒でも早く声をかけなければという義務感が勝ったが。
「お疲れ様です」
 仕事帰りの七海は口調こそ温厚ではあるものの、稀に殺気が抑えきれていないことがある。呪霊が見える一般人なら、すれ違いざまに感じ取ってしまうくらいの残穢が。今も気味悪そうに周囲を見回した女性がいたため、七海は静かに深呼吸して気配を払った。本人も自覚はあるのだ。
「失礼、行きましょう」
「よ、よろしくお願いします」
 店は七海が予約しているという。
 五条のように「どっか決めといて」と言う術師も多いが、自分の行きつけを指定する術師も少なくはない。七海は「こだわりが強い」側として補助監督内では共有されているが、他人に手間をかけさせないタイプではないかと伊地知は思っている。
 人混みでも見失わない広い背中についていくと、路地に入ったところで七海が振り返った。
「仕事ではないのですから、隣を歩いてください」
「すみません!」
 咄嗟に謝ってしまったが。
「私のような者が、七海さんと並んで歩いていいものかと……」
 三歩下がって、が補助監督の立ち位置だ。そうでなくても、煌びやかな都会と一体化している男の横に、貧相な自分が堂々と並ぶのは勇気がいる。
「いいも悪いもないでしょう。はぐれるのが一番困ります」
「すみません……」
 新田は七海に友達がいるのかと言っていたが、少なくとも七海と並んで物怖じしない人間に違いない。
 並んで歩くこと数分、看板も見落としそうなひっそりとしたバーに辿り着いた。
 隠れ家的な飲み屋といってもピンキリで、立地や客層でだいたい相場までわかる程度には、伊地知もこの手の店には入り慣れている。しかしあくまで誰かの補佐や接待のためで、自分が主体ではない。
「飲めるほうですか? 食べられない物は?」
 それほど値の張らないカジュアルな店だとはわかるのだが、こうしてエスコートされるのは逆に落ちつかなかった。
「あの、今日は本当はどういう用件で……」
 恐る恐るの問いに、七海は首をかしげた。
「お伝えした通り、呪力のお礼と慰労です。まだまだ繁忙期は続きますから」
「それは……恐縮です」
 ふと、彼は最初の会食から伊地知にいくら費やしているのだろうと貧乏じみたことを考えてしまい、頭を抱えたくなった。術師や窓から個人的に謝礼を受け取ることがないわけではないけれど、これはさすがに法外な気がする。
「とって食おうという気はないのですが、私と過ごすのは苦痛ですか?」
「いえ! 大変光栄です! ただこういう場に慣れていなくて、緊張しておりまして……」
 七海が怪訝そうな顔をしたのも無理はない。仮にも五条家当主に引き立てられている補助監督が、「慣れていない」は不自然だった。
 伊地知はグラスを見下ろしたまま、なんと言ったものか考える。
「その、失礼な意味でなく、七海さんはお洒落で、上品で、高級な物に囲まれていて……それが大人としての振る舞いで、社会に対する礼儀というのもわかってはいます。でも私はずっと裏方、黒子としてこの業界でやってきまして。七海さんのように華やかな方とこうして、一対一でというのが、烏滸がましいというか……許されないのではないかと……」
「……………」
 七海は何も言わず、店員を呼んで新しい酒を注文した。それが運ばれてくるまでの沈黙が、やたらと気まずい。怒らせたか、失望させたか。
 グラスに口をつけた七海は、やっと話しかけてくれた。
「あの人にも、そんなことを思うんですか」
 名前を言ってはいけないわけではないが、言いたくない「あの人」。七海より圧倒的に強く、しかし伊地知には七海より気安いあの人。
「事あるごとに、オマエは裏方の雑用係だって釘を刺してくるのは、あの人なので……自分があの人と同じ人間だと思ったことは一度もないですよ」
「彼に対する認識としては同感です。つまり、私たちは同じ人間ということですね」
「えっ、いや……」
 それはおかしい。五条悟が成層圏を突き抜けて別格なだけで、伊地知と七海は同じ世界の人間ではない。
 七海は小さくため息をついてグラスを傾けた。知ってはいたが、ペースが速い。
「私も、世間体のために服や相手を選んでいたこともありましたが」
 薄暗い店内で、サングラスが反射して彼の目線はわかりにくくなっている。元々ポーカーフェイスなのもあって、伊地知からすると常に不機嫌に見えるのだが、少なくとも今の声音は穏やかだった。
「今は、全て自分のためです。服も靴も時計も、自分が心地よいと思える物を身につける。美味いと思えるものを食べて、安らげる環境で過ごす。他人はどうでもいいんですよ」
 彼らしい、投げやりで冷淡な物言いだった。照れ隠し半分、本音半分。その「どうでもいい他人」のために、彼は命を賭けることすら厭わない。
「明日死ぬかもしれない仕事ですからね。ままならない要因のほうが多いですが、せめて自分で作れる快適さは確保したいというだけのことです」
 刹那的な発言だが、理解はできる。死は常に隣り合わせで、昨日まで笑って会話していた相手を今日は遺体安置所で見下ろすことも珍しくない。今日したいことをする。七海が空白の数年で得た教訓なのだろう。
 彼はそこで、改めて伊地知の顔を覗き込んできた。相変わらずの無表情で。
「私が君とここで飲みたかった、それだけです。権利も許可も関係ない。並んで歩くのに、私に合わせていただく必要はないでしょう」
「あ……」
 この店に来るまでを思い出した。七海は普通に歩けば、伊地知を置き去りにできる。しかし一度も彼に「追い縋る」ことはなかった。伊地知の速度に合わせてくれていたのか。
「先日リップバームをお渡ししたのは、荒れた唇の人間とキスしたくない、という意味ではありません。嫌なら無理強いはしないと言ったはずです」
「ぅぐっ……」
 何もまちがったことは言っていないのだが、このシチュエーションで口にする内容としては攻撃力が高すぎる。しかも挨拶程度に触れるだけでは済まない、とお互い認識しているのに。
「もう治っていますね。よかった」
 他意なく覗き込まれる顔が熱い。飲みすぎたかもしれないと、ネクタイをゆるめた。
「痛み入ります……」
 何もかもが大人すぎる。
 やはり、どう足掻いても釣り合わないなと思った。

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