謙信/信玄
祭りの後・壱
犬を拾った。
もちろんお約束どおり、雨の日。
見事にずぶ濡れで、薄汚いなんてもんじゃないレベルで、戦う力なんかとっくにないくせに全身で威嚇してくる、惨めな野良犬。
そいつは俺の傘のおかげで雨が当たらなくなったと気づいたとたん、低く呻いた。
「殺るなら殺れよ」
俺は正直呆れて、アスファルトの上に投げ出された長い脚を軽く蹴っ飛ばす。
「今さらてめえ一人殺って、なんか得すんのか?」
犬はぎらついた眼で俺を見上げて、もう一度牙を剥いた。
仇敵に拾われて、そいつの自尊心はガタガタだろう。
だが犬の頭ん中なんて俺の知ったことじゃない。
長くて重い身体をなんとか自分のマンションまで引きずっていって、そのまま風呂場に蹴り込んだ。血と泥と生ゴミの臭いを持ち込まれるのはごめんだ。
「すげえとこに住んでんな」
風呂から上がった犬の最初の言葉がそれだった。
「べつに。親のもんだし」
俺が自分のために淹れたコーヒーを、長い指がかっさらっていく。文句を言うのはめんどくさいことになりそうな気がしてやめた。
俺は別のカップを取ってコーヒーメーカーに向かう。
「そっちの家は? 風呂なし四畳半?」
「……ねえよ」
俺のジョークが「ない」って意味なのかと思ったら、ちがった。
「家なんかねえよ」
タオルで髪をがしがしとかきまわしながら、顔を隠したそいつは低い声で呟く。
そうだ忘れてた。こいつは野良犬だ。俺と同じ人間様じゃない。
だから拾ってきたんだ。
「そこのソファなら貸してやる。俺がテレビ見るときはどけ」
「……はぁ!?」
コーヒーカップ片手に、そいつはわざとらしいくらい大きく表情を変えた。
「意味わかんねえ、なんでてめえに世話なんなきゃならねえんだよ!!」
弱い犬ほどよく吠える、んだっけ。なるほど。
俺は入れ直したコーヒーをすすりながらソファに腰を下ろす。
「じゃあ出てけよ。俺はどっちでも困らねえし」
「おう上等だ、今すぐ出てって……」
犬がなにか吠え立てようとしたとき、盛大に腹の音が響いた。もちろん俺じゃない。
そいつは決まり悪そうに目を泳がせて、それから開き直ったようにあごを上げて俺を見下ろした。そういえばこいつは俺よりも大きな大型犬だった。
「……メシ、食わせろ」
行くあてのない野良犬は、仮の宿を受け入れるしかないようだった。
犬を飼ってみたかった。
でも動物嫌いの親には言い出せなくて、家を出たころには完全に忘れていた。なのに最近やたらと思い出す。
朝……というより昼に起きてベッドを出ると、ソファの下になにかひょろ長い生き物が転がっている。少なくとも俺が寝る前には、ソファの上にいたはずだ。
「……おい」
鶏ガラみたいな足を蹴飛ばすと、聞き取れない呻きだか罵声だかが反対側からもごもごと聞こえた。それからローテーブルに頭をぶつけながら、横になっていた長い生き物は半分だけ縦になる。
「んだよ……」
寝起きのひどい顔で見上げてくる男。
今でもうちに犬はいなくて、代わりにでかいだけの犬みたいな男が居ついていた。現実なんてのはいつもこんなもんだと、とっくに知っていたはずなのに無性に腹が立つ。起き抜けの今はとくに。
「足拭きマット志望じゃなきゃどけ」
「殺すぞてめ……」
セットしてるときよりずっと立ってる髪をかきまわしながら、犬は呻ったが、それでも毛布を引きずっておとなしく場所を空ける。殊勝だなんて思わない。
犬は、餌がほしいだけだ。
テレビのバラエティ番組をBGMに、カップラーメンをすする音だけが部屋に響く。
俺はソファに、やつは犬らしく床の上に座っていた。少し前まで敵同士で睨み合ってた二人が、家で並んでメシ食ってる構図はかなり微妙だが、できるだけなにも考えないようにする。
「タモさんって今いくつなんだろーな」
「俺らが生まれたときから顔おんなじだよな」
ときどきの、どうでもいい会話。仲良くも悪くもない、間の抜けた関係。
カップラーメンと焼きそばパンと、デザート代わりのメロンパンと、そんな栄養価もなにもない食事を終えて、俺たちはそれぞれに食後のタバコをふかす。
「小堺さんも変わってねえよな」
「でも娘かわいくね?」
「それラビット関根の娘だろ。なにおまえああいうの好み?」
「わりとイケる」
こうしていると、仲間たちといっしょにいるときと大して変わらない。戦略上の和睦じゃない、平和ってのはこういうもんかもしれない。
テレビから少し目をそらすだけで、床に座ってソファを背もたれにしてるそいつが目に入る。
そういえば、俺は大型犬がほしかったんだ。テレビ見ながら撫でてやれるような、手触りのいい毛並みの……
そんなことをぼんやりと思いながら、その髪に手を伸ばした。
「わっ」
ぼさぼさの髪の毛に指を突っ込まれて、やつはぎょっとした顔でふり向く。寝ぐせの塊みたいな髪は手触りどころの話じゃなかったが、俺はかまわずやつの髪をかきまわす。
「ぁんだよ……」
ガンつけてくるのを無視して、タバコをテーブルの上の灰皿に押しつける。
「べつに。目の前にあったから」
「意味わっかんねーよ!」
わからなくていい。おまえは犬だ。
わかんねーと喚く犬は、タバコをくわえたまま肩から上をソファの上に投げ出してくる。
「灰、落とすな」
俺はやつの口からタバコを奪って灰皿に放り投げた。
「おい……」
不機嫌そうに呻る顔を真上から覗き込んで触れる。無精ヒゲが手に痛い。髪だけならまだ犬っぽいのにな。
犬のことばかり考えていたから、視線に気づくのに少しかかった。
だが目が合うなり、なぜか目を泳がせて顔ごとそむけられる。
「あ、なに?」
「なんでもねえよ……」
「ふーん」
なんでもないならどうでもいい。今度は、細くてごつごつした肩をつかむ。犬だったら、毛並みが気持ちいいだろう。前足には肉球があって……現実は、長くて薄い手のひらしかなかったが。
不意に、その腕を振り払われた。
「あーっ! なんなんだよ、ベタベタ触りやがって! あと落ちつかねえから女みてえな顔近づけてくんじゃねえ!」
「女……」
NGワードを認識した瞬間には、俺は目の前の顔に頭突きを食らわしていた。
「てめ……」
それから数発殴り合って、カップラーメンのカップをひっくり返してカーペットを汚して、思いきり罵り合って、俺はベッドに、やつはソファでふて寝することになる。
肝心なことを忘れてた。犬にはしつけが必要だってことを。
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