ホームズ/ワトソン

2010_SherlockHolmes,[R18]

シャーロック・ホームズ:シャーロック・ホームズ/ジョン・ワトソン


いつもの朝

ドアをノックする音で目が覚める。
叩かれているのは自分の部屋ではなく、隣室のドアらしい。
ジョン・ワトソン博士はベッドから起き上がり、ローブを引っかけて部屋のドアを開けた。
「おはよう、ハドソンさん」
「おはようございます、ワトソン先生」
ふり返った女主人は手に新聞を持っていた。手紙はとくにないようだ。
「ホームズさんはまだおやすみでしょうか、それとも急にお出かけになったのかしら?」
偏屈な下宿人が、行き先を告げるどころか玄関以外から外出するのはよくあることだった。彼女は彼の破天荒な所行にいつも手を焼いているのだ。
ワトソンは肩をすくめて彼女に手を差し出す。
「彼なら私の部屋にいる」
「あらまあ……」
驚きとも諦めともつかない表情に変わった彼女は、新聞を差し出しながら注意深く尋ねた。
「朝食はどちらに運んだら?」
「……私の部屋でいい」
ローブの胸元を引き寄せて、ワトソンは自分の部屋にもどる。ざっと目を通した新聞をテーブルの上に放り投げ、寝室へと向かった。
「ホームズ!」
寝室を覗き込むと、黒い頭が枕に乗っていた。ワトソンが跳ね上げた毛布はきっちりと彼をくるんでいる。
「さあ、起きるんだホームズ。ハドソンさんが朝食を持ってくる前に」
「ぼくはいらない……」
眠そうな声が、しかしすぐに答えた。
「満腹になると頭の回転が鈍くなる。推理にはじゃまだ……」
ワトソンはため息をつき、ベッドに歩み寄った。肩に手をかけると、ほつれた黒髪のあいだからまぶたを押し上げようと努力する目がこちらを見上げる。
「夢の中でなにを推理するっていうんだ?」
名探偵は目をこすり、毛布をかぶりなおす。
「きみが真っ先に朝食の話をした。つまり封を切るべき手紙は受け取っていないし、新聞の一面にも興味深い話題は載っていない。つまりぼくが起きる理由はなにもないということだ。……ときみを説得するためには、空腹のほうがいい」
完全に議論がループしている。しかも起きるべき理由がないから起きない、などという理屈があるだろうか。ワトソンの呆れ顔には気づいていないのか、ホームズはなおもぼそぼそと毛布の下で呟く。
「そもそもきみにも責任の一端はある。医師たるきみが、ぼくを明け方近くまで眠らせなかったことに正当な理由があるというなら申し立てたまえ」
「ホームズ!」
あまりにも身勝手な発言で、かっと頭に血が上っていた。
「それには異論があるぞ! 真夜中に押しかけてきたのはきみだ!」
「せっかく手に入れた貴重なワインを持ってきてやったんじゃないか」
「そして酔った私をベッドに引きずり込んだ!」
「同じベッドで寝ようと言っただけだ。それをきみが拡大解釈した」
「拡大解釈だって!? 最初からそのつもりだったんだろう!!」
「いつぼくがそんなことを言った? 誓って誘い文句は口にしていない」
「…………!!」
彼と口げんかは割に合わない。いつもこのしれっとした顔にやり込められて、こちらが腹を立てるだけなのだ。
「自分だって楽しんだくせに……っ」
ぼすっとマットレスに拳を沈めたワトソンは、勝ち誇った笑みを浮かべて起き上がったホームズの顔を見ていない。
「……きみと『会話』したら目が覚めた」
「そうか、それはよかった……ハドソンさんも喜ぶ」
渋面を向けるワトソンに、寝ぐせだらけで寝間着も着ていない探偵は手を差し出した。
「朝食前に和解しよう」
不承不承、ワトソンはその手を取った。
ホームズは握手のまま腕を引いてワトソンを引き寄せる。そして、あまりスマートとはいえないやり方で友人の唇に自身の唇を押しつけた。
すぐに離れていくその唇を追って、ワトソンは彼の頭を抱え込む。友人よりは器用に、乾いた唇を押し開け舌をすべり込ませた。せっかく起き上がったホームズは再びベッドに押し戻される。
「んん……っ」
分野によっては玄人はだしの技術を披露する名探偵も、キスだけはまともに習得する気がないようだ。ワトソンは自分の優位に浸りながら、彼の上に乗りかかった。口先でどれほど言い逃れようとしたところで、ホームズもまたワトソンを欲しているのだ。
ホームズの手がそろそろと下へと伸ばされる。どんな荒事もどんな繊細な実験もこなす手が、遠慮がちにワトソン自身に触れた。
「あぅっ……」
初心を感じさせる舌づかいとは裏腹に、ワトソンの弱点を心得た手は的確に欲を煽ってくる。数時間前にあれほど触れ合ったというのに、身体はいくらでも貪欲に求めようとする。さまざまなことが頭の隅へと追いやられ、ワトソンはホームズの愛撫を甘受していた。
「ホームズ……」
うっとりと目を閉じかけたとき、無粋なノックの音が響いた。
ワトソンは目を開け、自分の失敗を悟る。
昂ぶっているのは自分だけだった。哀れな退役軍人を無情にも押しのけた強力な腕は、つい先日拳闘の試合で優勝したばかりだ。まともな抵抗も許さずに、機敏な動きでさっさとベッドから抜け出す。全裸だが、眠気など微塵も見せていない。
「朝食の時間だぞ、ワトソンくん」
ホームズは床に落ちていた自分のガウンを拾い上げて羽織ると、迷いのない足どりで寝室を出ていった。
彼が朝食を持ってきたハドソン夫人を招き入れるのを、ワトソンはベッドの中で聞いていた。
「おはようハドソンさん、ああなんていい香りだろう、このスコーンはロンドン一だ……」
らしくもなく、愛想など振りまいている。友人が部屋から出てこない理由を口からでまかせでまくし立てているのを聞きながら、ワトソンは火照った身体を自分で処理するかどうか逡巡していた。
自分はどうしてあんな男といっしょに暮らしているのだろう。
愛おしいと思った次の瞬間には、小憎らしくて顔面に一発お見舞いしたくなる。そんな相手は他にいない。
彼の仕事になぜか一方的につき合わされ、互いの価値観の差異によるさまざまな不都合を我慢し、部屋やベッドへの出入りさえ許している。
ホームズはワトソンの親切に慣れきっていて、ワトソンはホームズを許すことに慣れきってしまった。これ以上いっしょにいるのはお互いのためにならないはずだ。もう彼の元を去ろう。遠くから彼の活躍を見守るのがお互いにとっていちばんいい。
先週もそう思ったが、今度こそ心からそう思う。
寝不足のジョン・ワトソン博士は、何千回目になるかわからない引っ越しの算段を必死に立てていた。

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