侘助/理一
【それから】
夕日に照らされた玄関の脇に、趣味全開の単車をいじっている男がいる。
彼は歩み寄る長い影に気づくと目を見開いたが、すぐに汗を拭って笑顔になった。
「おかえり」
なんの気負いもなくかけられた言葉に少し戸惑い、それでも返す言葉はひとつしか見つからない。
「……ただいま」
侘助は、一年ぶりに陣内家の敷居を跨いだ。
奇妙な食卓だった。
栄の跡を継いでこの家を守っている万理子、今は母と二人暮らしになった理香、普段は東京で働いている理一、そして他の親戚連中より一日早く帰ってきてしまった侘助。
女たちは日常の延長で、明日以降の予定を早口にまくし立てながら、食事も同時進行で器用にこなしている。独り身の男たちはかつて日常だったはずの非日常になじもうとしながらも、所在なく箸を動かし、ときどき気のない相づちを打っているばかりだ。
侘助は箸をくわえたままで食卓を見渡した。
席は子どものころからずっと変わっていない。隣が理一、向かいが万理子。ただ、右手にいたはずのあの人だけがいない。最後にあの人と食事をしたのは、いつだったか……。
「まあ侘助、まだ箸の持ち方直ってないの?」
いきなり万理子の小言が飛んできて、なにひとつ心の準備ができていなかった侘助は白飯を喉に詰まらせそうになった。
「……もう直らねえよ」
四十路過ぎて箸の持ち方を怒られるとは思わない。顔を上げるのも癪だったから魚の身をほぐすことに専念しているふりをするが、さすがに決まりが悪かった。
「魚の食べ方もあいかわらずヘタねえ……」
万理子の小言はつづく。
「だから日本はいやなんだ……」
呟いたとき、無言だった隣から「ふっ」と小さく噴き出すのが聞こえた。見なくても、理一が楽しそうな顔をしていることは想像がつく。
「で、あんた今なにやってんの? っていうか、どこにいんの?」
食卓の意識は完全に侘助へ向いてしまったらしい。理香の質問が次々に飛んでくる。
「……ヨーロッパ」
「ヨーロッパのどこよ」
「社外秘」
しゃべらない理由づけにと味噌汁をかき込むと、ようやく理一が横から助け舟を出す。
「ってことは、会社員か」
会社員、という単語は、女たちを安心させたようだ。
「まともな仕事なんでしょうね。またなにか悪いことしてたら母さんに申しわけ……」
「またもなにも、悪いことなんかしてねえよ」
そわそわと詮索をはじめようとする万理子の言葉を遮ってから、少し気まずくなって漬物を口に放り込む。
「この家、丸ごと建て替えられるくらいの年収は見込んでるよ」
「んまあ……」
万理子は驚嘆の声を上げた。
むりもない。家の前から温泉が湧いたとはいえ、一度かたむいた家がそう簡単に持ちなおすわけはない。現当主である万理子が、金銭の話題に過剰に反応するのは当然だった。
「侘助、母さんをからかうなよ」
「ま、嘘なの? あんたって子は!」
「……………」
面倒になって、侘助は肩をすくめた。
嘘ではない。一年前の事件があってから、世界中の国や企業が「ラブマシーンの開発者」を求めた。だから就職活動で苦労することはなかった。
だが、陣内家の人間にとって「ラブマシーン」は不快な記憶でしかない。理一はそれを気遣ったのだろう。相変わらず、そつがない。
なにもかも心得た様子で目くばせをしてくる理一から目をそらして、侘助は箸を置く。
「ごちそうさま」
空になった器を見下ろして、自分の食べた量に驚いた。味噌汁、白飯、小松菜のおひたし、アジの干物、焼き茄子、芋の煮っ転がし、大根の浅漬け。
たしかに昨日の夜からなにも食べていなかったが、それでもいつもはハンバーガーひとつで足りるのに……。
「……うまかった」
後ろも見ずに台所を出たから、自分が柄にもない言葉を口にしたことにも、三人がその背中を呆然と見送っていたことにも気づかなかった。
夕食を終えて、風呂に入って。
風呂が、庭先から沸いた天然の温泉を引いていること以外は、昔となにも変わらない。
広間の畳に寝転がってテレビを見るともなしに眺めていると、風呂から上がったばかりの理一が隣に座った。置かれた盆には、冷えたビール。
「飲むか?」
「いいねえ」
侘助は起き上がって、いそいそとコップを手にする。二人はビールを注ぎ合い、なににというわけでもなく乾杯した。
テレビを消すと、広い屋敷は物音がしない。風呂場も台所も遠く、いるはずの人間の気配もない。外から虫の声が聞こえてくるだけだ。とくに共通の話題もない二人は、明日の天気や客人の来訪予定についてぽつりぽつりと話していた。
「理一侘助ぇ」
理香が二人を呼びながら廊下を歩いてくる。名前をつなげて呼びつけられるのも昔と同じ。どちらかが返事をすればいい。
口数の少ない二人が部屋の隅で晩酌をしているのを見た理香は、「さびしい光景……」と呟いた。独身の中年女に言われたくない、と独身の中年男たちは内心思う。
「あたしたちもう寝るけど、そっちは?」
「もうちょっと飲んでる」
ビール瓶を掲げてみせる弟に、姉は肩をすくめて「明日から酒浸りなのに」と笑った。
「電気ちゃんと消してね。コップもちゃんと洗っときなさいよ」
「はいはい、おやすみ」
口うるさい姉と対照的に落ちついた弟は、片手を振って姉をにこやかに追いやる。
この姉弟も、子どものときからまるで変わらない。侘助はビールの泡を舐めながら思った。この家に引き取られてから、元からいた二人とは兄弟同然にあつかわれたが、結局彼らを兄弟だと思えたことはなかった。侘助はいつでも線の外に立っていた。
だがその線を引いていたのは自分なのだと、今ならわかる。一年前の夏、あの人を失って気がついた。まだ若いというより幼かったあのころ、理一を兄弟ではなく共犯者という関係にしようとしたのも、線引きだったのかもしれない。
あれから四半世紀も共犯でいてくれる甥っ子は今、侘助の空のコップにビールを注いでいる。一年ぶりに会った兄弟のような自然さで。
「静かだな」
真っ暗な庭を眺めながら呟くと、理一は笑って首を振った。
「明日からうるさくなるぞ。小さいのがわらわらわらわら……」
そこで去年の夏を思い出したのか、ふと首をかしげた。
「夏希はあの彼氏をまた連れてくるかな?」
「来るさ。あさっての午後にこっち着くって」
目を丸くした理一に、侘助はここぞとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべて携帯電話を差し出す。
差出人のアバター画像つきでメール一覧に並んでいるのは、かわいらしい和装の鹿耳少女と、気弱そうな頭でっかちのリス。あのとき自分のアカウントを無事とりもどした彼だが、テレビにまで映ってしまった元のアバターを再び使う気にはなれなかったようだ。
「夏希はともかく、いつの間に健二くんとメル友だよ」
いつもすました理一の、本気で驚いた顔を見るのは気分がいい。
「羨ましいか?」
そう言うと理一は「少しね」と半笑いで呟いた。
「……食うなよ?」
下世話なことを彼はさらっと言う。いやらしいというより含みのある流し目をくれて。
「てめえといっしょにすんな。それに人のもんには興味ねえよ」
ビールの残りを一気に飲み干して、理一の顔を鼻先が触れそうな距離で覗き込む。風呂上がりだからか酒のせいか、目の周りが赤い。
「間に合ってるしな」
侘助は相手の肩を掴んで酒くさい唇を重ねた。
「おい……」
引こうとする身体を押さえつけて、そのまま畳の上に押し倒す。理一のコップに少しだけ残っていたビールがこぼれ、彼のシャツを濡らした。組み敷いた相手を見下ろし、侘助は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「おまえも早くだれかのもんになってくれりゃ、こんな非生産的な関係もやめられんのによ……」
「お互いさまだって」
四十も過ぎて独身でいることに理由などない。優先順位が限りなく低いだけだ。結婚したい、しなければならない、と思ったこともない。理一の事情は知らないが結果的に同じ状況であることに、侘助はいつも心のどこかで安堵していた。
昂ぶった気持ちのまま、日に焼けた首筋に噛みつく。呻いた理一が小声で囁いた。
「どっちか起きてきたらどうする。大騒ぎだぞ」
たしかに、大騒ぎだろう。鼻つまみ者の侘助はともかく、社会的地位もある理一はただでは済まない。だがその事情は、四半世紀も前から変わっていないのだ。
「今まで、だれかに見つかったことあるか?」
自信満々に言い放つ侘助を見上げ、理一は呆れたように破顔する。
「ないな」
「だろ?」
侘助は、両腕を広げた共犯者の胸に倒れ込んだ。
がっつく侘助をなんとか押しやって、理一は離れの納戸へ行くことを承諾させた。
二人が今まで見つからなかったのは、ただとても運がよかったのと、理一が侘助の二倍警戒していたからだ。
途中で寝室に寄ってタオルケットを調達して、男二人は真夜中の廊下を歩く。
ふと見下ろせば、侘助がぶら下げている蚊遣りの豚がこちらを向いている。もう片手にはティッシュの箱。理一はなんだかわけもなくおかしくなって、くすくすと笑った。
「なんだよ」
そう尋ねられても、理由などないのだから困る。少し考えるあいだ、タオルケットを抱えなおした。
「いや……佳主馬に悪いなあ、と思って」
「あ?」
思わぬ名前にふり返った侘助が、眉を上げる。
「おまえがいないあいだ、あそこは佳主馬の秘密基地だったんだよ」
「へえ、キング・カズマの」
侘助がこの家を出ていったとき、佳主馬はまだ幼児だった。気が向いたときだけ夏希の相手をする程度だった侘助が、幼い佳主馬を人間として認識していたとも思えない。
だから侘助は、あの夏の「キング・カズマ」しか知らない。
「正月に来たときは、ほとんどみんなといっしょにいたけどな。妹の世話に忙しくて」
兄になったキング・カズマは、前ほどバトルフィールドに現れなくなった。それでもまだ彼はキングだ。守るものがあるから強くなれる、と彼の師匠はもっともらしく言っていた。陳腐だが、残念ながら理一も同意見だった。
前を歩く細い背中を見ながら思う。一年前の夏まで「守る」ことを知らなかったこの男は、あれから少しは「強くなった」のだろうか?
「うはあ、変わってねえなあ」
板戸を開け、侘助は開口一番そう言った。
月明かりが差し込むだけの暗がりは、古い本の匂いがする。何十年も書架から出された様子のない本に積もる埃は、きっと地層になっているだろう。もう使われていないストーブや扇風機も似たようなものだ。
「早く入れよ」
侘助を小突いて自分が先に入る。硬い板間にタオルケットを投げ出して広げ、その上に腰を下ろせば、あのころと全く同じ光景が視界に飛び込んできた。
本棚の影、格子窓の向こうに見える月、蚊取り線香の匂い、そして板戸を静かに閉める侘助のシルエット。
「……歳かな」
「なにが」
「なつかしくて泣きそうだ」
「バーカ」
侘助の呆れ声に、理一は笑った。ほんとうに涙が出そうなわけではない。だが、鼻の奥がくすぐったいような、なんともいえない奇妙な感覚は、結局そうとしか表現できない。
最初も、ここだった。
高校受験の勉強に忙しかったころ、侘助に半ば強引に誘われ、二人は初めてお互いに触れ合った。最初のうちは他愛ない「処理」だったのが、侘助がどこからか仕入れてきた情報を「実験」するようになり、大学受験の前には二人ともそれぞれ彼女相手に「実践」できるくらいにはなっていた。
ぼんやりと天井を見上げていると、長い腕が絡みついてくる。
「浸ってんなよ……」
灯りもつけない部屋で、互いの顔はほとんど見えない。侘助は手探りで理一の頭を抱き寄せ、さっき居間で中断された口づけのつづきをはじめようとしていた。理一は侘助を抱えたままタオルケットの上に倒れ、その唇を受け止めた。
おざなりに衣服を直した二人は、それぞれうずくまってタオルケットの上に寝転がっていた。手足を伸ばすと、埃っぽい床の上に出てしまうからだ。
「……腹、へったな」
侘助が独り言のように呟く。
「おれはひとっ風呂浴びたい」
理一の返事を受けて、侘助はもそりと起き上がった。
「じゃあ、風呂入ってから冷蔵庫荒らしだ」
見合わせた目は、悪戯っぽく光っている。理一も笑いながら身体を起こした。
「冷蔵庫開けたら食べ物が入ってるってのは、実家のいいとこだな」
「それと、一人になれないってとこ」
「……………」
愉快そうな顔でそんなことを言う侘助を、理一は思わず凝視する。
理一の視線などおかまいなしで、くしゃくしゃの髪を掻きながら侘助は板戸を開けた。差し込む月明かりがやたらと眩しく感じられる。
「明日からみんな来るんだったよな……あーめんどくせえ、健二早く来ねえかな……」
親戚づきあいが面倒だと言いながら健二を待つ、その矛盾に侘助は気づいているだろうか。彼にとって、健二はもう身内になっている。
「おまえ……」
「あ?」
この部屋に入ったときとはちがう感慨がこみ上げてきた。
こういう気持ちをなんといったらいいのだろう。やはり「泣きそう」としか言えない。そして「バーカ」と言われるのが落ちだ。
「いや。まず風呂だよな」
理一は「よいしょ」と呟きながら立ち上がり、タオルケットを丸めて侘助を追う。
置き去りにされた蚊遣り豚が、律儀に煙を吐いていた。
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