侘助/理一
【仮宿】
ベッドの上に転がって、ノートパソコンのキーボードを叩く。
ネットワーク時代はたしかに便利だが、休暇中でも容赦なく仕事をさせられるのが難点だ。職場から遠く離れていても、仕事がらみのメールはひっきりなしに舞い込んでくる。
背後で戸が開く音がした。
「次、入れよ」
その言葉にふり返らずとも、理一がシャワーから上がったのはわかっている。
「おう」
生返事でメールの英文を打ちつづける侘助の後ろで、理一は備えつけの冷蔵庫を開けてビールを取り出していた。
まるでいっしょに住んでいるようだ、と思いかけてすぐに、ここがホテルの一室であることを思い出させられる。海外からわざわざやってくる自分はいざ知らず、都心在住の人間がわざわざ都内のホテルに泊まる無意味さに思いを馳せてしまう。
しかも愉快な設備が山ほどあるラブホテルならまだテーマパーク気分にもなれるが、現実は無愛想なビジネスホテルなのだ。
「……理一ぃ」
「なに?」
缶を開ける音がして、風呂上がりの一杯をあおって満足げに息をつくのが聞こえる。
「なんで寮出ないの?」
「……独身だから」
とくに迷うこともなく返ってきた答えは、しかし戸惑いを含んでいる。唐突な問いだからむりもない。
侘助は手を止めて、肩越しに理一をふり返った。下着一枚でビールの缶を手に怪訝そうな視線を向けてくる姿は、遠慮のない間柄をよく表している、と思う。
「嘘つけ。おめえが特別あつかいってことは知ってんだよ。なんでもかんでもちょっと口きけば済むだろうが」
「まあね」
陣内という名は世の中に出てみるとなかなかの力を持っていて、理一も同期より出世が早いというのは聞いていた。そのわりに理一自身は、コネで地元の中小企業に就職したような感覚でいるからもったいない。七光りでもなんでも存分に使って好き放題やればいいのに、そんな様子が少しもなかった。
その謙虚さのひとつなのか、彼は未だに自衛隊の宿舎に住んでいる。侘助が知るかぎり出たことは一度もない。全寮制の大学校ならまだわかるが、独身とはいえ四十も過ぎた幹部が「いなければならない」ことはないはずだ。
「べつに、うちの名前なんか使わなくても普通に出られるけどさ。寮のほうが楽だから」
裏もなにもないその返事に、思わず舌打ちをしてノートを閉じる。
「楽じゃねえよ。毎度毎度ホテル借りるの、あきらかにめんどくせえだろ? てめえが自分の部屋持ってりゃこの十何年、なんの苦労もなかったんだぜ?」
「あー、そういうことか」
彼もようやく侘助の言いたいことに気づいたらしい。
昔から……侘助が大学を卒業して実家に帰ってから、二人で会うときにはいつも、そっけないビジネスホテルをツインでとっていた。男二人で入っても違和感がなく、それでいて必要なものはすべてそろっているからだ。酒とつまみを持ち込んで酒盛りになることもあれば、今のように各自が勝手に仕事をしたりくつろいでいたりすることもある。ベッドがあるから行為に耽ることも少なくはないが、毎回でもない。
だがそれらはすべて、家でできる、家ですべきことではないのか。
理一はビールを飲みながら、ベッドに腰を下ろした。
「一人暮らしをはじめたとたん、迷惑な親戚が押しかけてきてそのまま居座っちゃったりしたら困るし……」
「それが理由か?」
思わず声が大きくなると、露骨に呆れた視線が返ってくる。
「まさか。おれがおまえ中心に生きてると思うなよ」
「ああそうかよ」
からかわれたと気づいて力なくベッドに倒れ込んだが、内心は波立っていた。
正面切って言われるとそれなりにショックだ。理一が侘助を必要としていないということが。もちろん、侘助も普段は理一のことなど思い出しもしない。だが侘助が理一のほうを向いているときに理一が侘助を見ていないというのは、どうにもおもしろくない。
侘助は枕に頬を押しつけたまま、散漫な思考を巡らす。
「理一ぃ」
二人しかいないのだから名を呼ぶ必要はないのだが、なんとなく口をついて出る。
「マジで、出る予定ねえの?」
「出てほしいの?」
問いとともにこちらの顔を覗き込んできたので、目を合わせた。からかっている様子はない。ただ単純に疑問を口にしているといった表情だった。
「……だって、めんどくせえじゃん。金かかるし」
「高給取りがなに言ってんだ……」
ぼそりと呟いた理一は再び立ち上がる。また冷蔵庫を開いているようだが、二本目を飲む気だろうか。
「侘助」
「あぁ?」
ベッドが軋んだかと思うと、動かした顔の横にぼすんと重みのある缶が落ちてきて、ぎょっとして頭を上げた。
驚いたのを気取られないようにゆっくり起き上がって缶を拾い上げ、ベッドの上に座り込む。横目でちらりと窺うと、ベッドの端に腰かけた相手は、こちらに背を向けていた。
彼はそのままでビールの缶に向かって話しかける。
「おまえといっしょに暮らしたくないから、寮を出ないって思ってる?」
「……っ」
顔に血が上っていく。
見透かされていた。
「べつにおれだって、いっしょに暮らしたいわけじゃねえよ。単純に効率の問題で……」
「まだ、やることあるんだろ?」
抑揚のない静かな声に横っ面を張り飛ばされた気分だった。
「わかってるよ!」
売り言葉に買い言葉でつい怒鳴ってしまい、それから気まずくなって肩を落とす。
「わかってんだよ、そんなことは……」
ずいぶんと長い時間をむだにして、かなりの回り道をした。家族にもいやというほど迷惑をかけた。そんな穀潰しが、遅まきながらもようやく自分の足で立って前に進みはじめたばかりだということは、自分がいちばんよくわかっている。
理一が言わんとしていることは正しい。だがそれでも、求めてしまうのだ。
今まで自分が顧みなかった「場所」を。
気持ちよく冷えた缶を開けもせず見つめていると、ふっと息を吐き出すのが聞こえた。
「あと、二十年くらいしたらさ」
「どんだけ先だ」
唐突なきつい冗談に笑いかける。
「実家、帰ろうか」
「……………」
帰れ、でもなく、帰る、でもなく。
帰ろう、という明確な誘いの言葉に、侘助は口を開けたまま理一の横顔を見つめた。彼はどうでもよさそうな無表情でビールを飲んでいる。嘘やら冗談やらはいくらでも出てくる男だが、こんな顔のときは、表面を取り繕うのを忘れてなにかを考えているときだ。
侘助は大きく息を吐き出した。
「……理香が片づいてたらな」
「それは望み薄かも。そしたら老人ホームだな。おふくろもしぶとそうだし」
二十年経っても、彼女はまだ九十だ。そしてこちらは還暦を過ぎている。遠くもないが近くもない将来の話が、なんだかおかしくなってきて、笑いながら缶を開けた。
「直美も来たりしてな。親父といっしょにさ」
「ますます老人ホームだよ」
あまり愉快とはいえない老後設計に、二人は肩を揺らして笑い合った。
「まだまだ先の話じゃねえか」
「そう。だから」
「がんばれって?」
理一が肯定の笑みとともに、ビールの缶を掲げてみせる。
「まあまずは、今日もおつかれ」
「……おつかれ」
狭苦しいビジネスホテルの一室で、アルミ缶が軽い音を立ててぶつかり合った。
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