侘助/理一

2009_サマーウォーズ,[PG]

【近親】

 女はどうして昔のことをよく覚えているのだろう。
 どんな些細なことも、どれほど昔のことも、機械のように精確に覚えている。しかもその記憶をわざわざ披露して思い出させてくれる。こちらが忘れてしまいたい、くだらなくて取るに足らないことばかり、さも重要な事柄のようにしたり顔で語るのだ。

 喉が渇いた、と思い台所へ行くと、先客がいた。
 冷蔵庫の前でなにかの菓子をほおばっている侘助と、どうやらそれを咎めているらしい理香。二人は入ってきた理一を見て、それぞれにほっとした表情を見せる。味方が来た、という顔だ。
 どちらに肩入れする気もなかったが、義理で訊いてみる。
「なに騒いでんの?」
 口にものを入れている侘助より、勢いづいている理香のほうが早かった。
「あんたからも言ってやってよ! 子どもたちのために買っといたお菓子、こいつ半分くらい食べちゃったのよ! しかもこんなに食い散らかして……」
 どうでもいい。どうでもいいが、二人は冷蔵庫の前でそのやりとりをしていた。理一が求める麦茶は二人のあいだに割り込まなければ手に入らない。
「買いに行かせたらいいじゃないか、侘助に」
 ため息混じりに冷蔵庫へ近づくと、ひょろりと長い手が伸びてきて肩の上に置かれた。
 スナック菓子を咀嚼して飲み込んだ侘助が、理一を後ろから抱くようにして肩にあごを乗せてくる。菓子の甘ったるい香りとともに、低いしゃがれ声が耳の横で聞こえた。
「理一ぃ、理香がいじめるんだぜぇ」
「あんたね……」
 いくつのつもりなのよ、と青筋を立てる理香の反応が早すぎて、理一は彼を払いのけるタイミングを逃してしまった。
「あのさ……気持ち悪いんだけど。離れてくれない?」
「やーだ」
 完全に聞き分けのない子どもだ。だから菓子を食ってもいいという理屈なのだろうか。
 調理台に寄りかかった理香はため息混じりに眼鏡を押し上げた。
「ねえ……まだあんたたち『近親相姦』なの?」
「え……?」
 実家の台所で姉弟が交わす会話の中に出てくるには、あまりに不穏すぎる単語を耳にして、理一は姉の顔を凝視する。
 だが姉のほうは普段どおりの表情で、肩をすくめているだけだ。
「言ってたじゃない、高校んとき」
「そうだっけ」
 肩越しに侘助を見る。言ったとすればこの男だ。自分はそんな愚かなことは言わない。
「……覚えてねえ」
 と言いながらも目が泳いでいるところを見ると、思い出してしまったらしい。理香は二人の態度などとくに気にせず、侘助が調理台の上に散らかした菓子の袋を片づけはじめている。
「なに言い出したのかと思ったけどさ。覚えた言葉、使ってみたかっただけなのよね」
「……だろうね」
「覚えてねえって」
 頑なに言いはる彼の薄い胸が、背中に押しつけられるのを感じた。その鼓動は明らかに動揺していた。
「ああそう? あんた、言ったのよ……」
 なぜ覚えていないふりをするのか。理一は侘助を恨む。
 ただ「言った」と認めれば、姉の詳細な思い出話など聞かずに済んだのに。理一自身のつまらない記憶を掘り起こすこともなかったのに。

 古い武家屋敷に後世増築されたような狭い二階。階段を上って右手にある理一と侘助の部屋は、高校生になっても変わらず襖一枚で隔てられただけで、しかし中学以前よりは行き来が多くなっていた。
 雑然とした侘助の「巣」に理一のほうから立ち入ることはしなかったが、侘助が自分の部屋のような顔をして平然とこちら側に居座るようになってから久しい。
「おまえ、おれから見ると甥っ子なんだよな」
「そうなるね」
 畳の上で雑誌を読んでいる理一に侘助がずりずりと近寄ってくる。気にせず無視していると、背中に温度の高い重みが乗りかかってきた。
「重い」
 顔を上げずに言葉だけで抗議する理一に、しかし侘助は怯むこともなく抱きつく。後ろから抱きすくめられても、理一は誌面から目を離さない。
「首に息かかってる」
 うっかり文句を言うと、今度はわざと首筋に熱い息を吐きかけられた。さすがに無視していられなくて、理一はようやく肩越しにふり返る。
「なんなんだよ、侘助おじさん」
 その関係を意識したことはほとんどなく、いちおう頭では理解しているが実感としては全くといっていいほどにぴんとこない。それを今、殊更に言う理由がわからなかった。
 侘助はにやにやと笑いながら、答える代わりにシャツの襟元に鼻を突っ込んで口づけ、きつく吸い上げてくる。
「やめろって」
 ひじで押しのけようとしたとき、耳に寄せられた口が楽しそうな声で囁く。
「三親等以内って結婚できないだろ? こういうの、キンシンソーカンっていうんだぜ」
「近親……」
 その単語だけは聞き逃せなかった。音の響きにぞくりとする。
 今までまともに考えたこともなかったが、たしかに二人は血がつながっているのだ。血縁同士、男同士。だれにも言えない、だれからも許されない、秘密の関係。
 それなのに……。
「人に知れたらどうなっちまうんだろうな……おれたち」
 聞かないように、考えないようにと努力しても、侘助の囁きに気持ちが引っぱられていく。もう雑誌どころではなかった。
「なあ、理一……」
 胸元をまさぐる手がシャツのボタンを外そうとしている。その手を上から押さえつけるが、どかせることはできない。
「ここじゃダメだ……」
 答える声もかすれてしまう。相手の体温が、伝わってくる鼓動が、すべてが理一を誘っている。許されない行為だと、今気づいたばかりなのに。許されないと思うからこそ、身体が疼く。
 二人は床に倒れた。仰向けの理一に乗りかかった侘助は、迷わずに唇を重ねてくる。その口づけを受けながら侘助の腰を自身に押しつけるように抱き寄せ、理一はうっとりと目を閉じた。
「!」
 だれかが階段を上ってくるのに気づいて、はっと目を開ける。この足音は姉だ。
「おいっ、離れろ……」
 濡れた口元を拭いながら相手を押しやる。ところが唇を舐める侘助はどく気配がない。
「見つかったらどうする、ってか?」
 どうやら離れる気はないらしいと知って、理一は青ざめた。現場を押さえられたら言い逃れられるかわからない。それどころか、侘助が裏切る可能性もある。
「シャレにならないぞ、どけって……」
「やだね」
 必死に細い身体を押しのけるが、それでも侘助はあきらめない。絡みつく腕を引き剥がし、すり寄る足を蹴飛ばし、意地になってしがみついてくる侘助をなんとか組み敷いた、そのとき。
 襖が勢いよく開いて、自分の血の気が引くのを感じる。
「……けんか?」
 だが、畳の上で重なっている男子高生を見下ろしたおさげの女子高生は、呆れた声を出しただけだった。
「プロレスごっこ」
 仰向けの侘助が首をのけ反らせて答え、理一も合わせてうなずくしかできない。
「あ、そ。おばあちゃんが呼んでたわよ。男手がほしいって」
 弟が心配したほど、姉は二人の状況に興味を示していなかった。拍子抜けした理一は侘助を解放し、侘助も無言で起き上がる。
「侘助、行けよ」
「なんでおれが」
「二人要るんだって! 早く行きなさいよ、力有り余ってんでしょ?」
 逆らうと面倒なことになりそうだと判断して、理一は目で侘助を促した。のっそりと立ち上がる長身の二人を前に、姉は腰に手を当て首をかしげている。
「あんたたち、仲良くなったわよね。ちっちゃいころは口も聞かなかったのに。今はけんかするほどなんだ」
「まあ、ね」
 その「仲良くなった」の実態を知られるのが怖くて、侘助を急かし部屋を出ていこうとする。が、理香の横を通り抜けるときに侘助がとんでもないことを言ってのけた。
「キンシンソーカンなんだ、おれたち」
 理一はぎょっとして侘助を見る。
「なに言ってん……」
 だが言い終わらないうちに、理香の顔に血が上った。羞恥なのか、憤りなのか。たぶん両方だろう。ただでさえ男女のパワーバランスが均等でないこの家で、年ごろの姉弟間でのセクシュアルな話題など、完全なタブーといっていい。理香の激昂は正当だった。
「はあ? 言葉の意味わかってんのバカ侘助?」
「うるせえバカ理香!」
「姉に向かってなによそれ!」
「だれが姉だよ!」
「そうよあんたなんか弟じゃないわよ、うちの弟にヘンなこと教えないでくれる?」
「てめえの弟だって……」
「ちょっと、二人とも!」
 理一はこれ以上状況が悪くならないうちにと、むりやり二人のあいだに割って入った。
「ただの冗談じゃないか! ほら、おばあちゃんが呼んでるんだろ!」
 姉に向かってできるだけ大人びた苦笑を浮かべてみせ、侘助の首に腕を引っかけて姉から引き離す。上半身だけを引きずられた侘助は転びそうになりながらも、理香に捨てゼリフをいくらか投げつけてから理一についてきた。
「なんであんなこと言うんだよ」
 階段を下りて廊下を歩きながら、理一は小声で侘助を詰った。いつも騒動の種をまき散らす叔父は、つまらなさそうに中庭へ目を向けている。
「べつに」
 歩きながらふてぶてしくも肩を抱いてこようとする侘助を、理一は突き飛ばす勢いで冷淡に押しやった。

「侘助って、昔っからそういう妙な方向にませてたわよね。マニアックっていうか、ちょっと普通じゃないっていうか? 正直、あんまり近づきたくないタイプだったわ」
「そりゃどうも」
 背中から、侘助の速くなった鼓動が伝わってくる。そのうちこちらのシャツにまで冷や汗がにじんでくるかもしれない。
 片づけ終わった理香は冷蔵庫から麦茶を出した。理一はここへ来た本来の目的を思い出す。台所を覗いたときよりも数段、喉がからからになっている気がした。
「あ、おれも飲む」
「おれも……」
 理香は面倒そうに二人を見たが、結局食器棚からコップを三つ出してきた。
「でもさあ、近親って要するに子孫の血が濃くなっちゃいけないってことでしょ? 男同士ならべつにいいのかもね」
 麦茶を注いだコップのうち二つをこちらへ押しやって、こともなげにそんなことを言う姉を、二人は呆然と眺めた。
「弟たちがホモでもいいのかよ」
「一人、弟じゃないし」
 そう言って理香はくすくすと笑う。
「ホントだったら勘当もんだけどねえ。だいたい四十路のホモなんてありえないわよ、そういうのが許されるのは美少年だけよ」
 きっぱりと言いきる姉の本棚に、昔並んでいたマンガがそういう内容だったな、と理一はぼんやり思い出した。たしかに少女マンガの中の少年たちはキラキラと美しく輝いていて、だから自分たちに重ねたことは一度もなかった。
「じゃあ最初から資格なしか」
「そうね、二人とも美少年って柄じゃなかったもんねえ」
 理一なんかぷくぷくぷにぷにで、侘助は反対に骨と皮ばっかのガリガリで……と彼女はつづける。
 それは小学生低学年くらいの話だ。当時の二人を、同じ小学生だった理香がほんとうに覚えているのかはわからない。だが覚えていたと言われても驚かない。女はどんなことでも覚えている生き物だから。
「柄じゃないとか、姉ちゃんには言われたくないなあ……」
「どういう意味よそれ」
 従妹の直美の半分でも色気があれば、今ごろは本家も安泰だっただろうに、という言葉を賢明な弟は笑顔で飲み込んだ。気安く男を引っかけてくる姉など想像もつかないから、これは持って生まれた性質なのだろう。
「しっかし、記憶力に関しては東大卒の頭も大したことないのね」
「どうでもいい記憶はメモリに残らないんだよ」
 負け惜しみのように、侘助が呻いた。
 男だってなにもかも忘れてしまっているわけではない。現に侘助も理一も思い出させられてしまったし、過去を客観的に眺めることだってできる。
 あのころ、家族意識などなかったはずの侘助がなぜ近親相姦などと言い出したのか。それを他人に見せつけようとしたのはどういう腹づもりだったのか。今なら理解できなくもない。あの幼稚な破壊衝動を。
 同い年の甥と関係することでこの平凡な家庭を崩壊させようと目論んだ愚かな少年は、なにひとつ壊せないまま大人になって、今また理一の背中に張りついている。
 理一のほうも、ありもしない禁忌に胸躍らせる若さからはずいぶん昔に卒業した。だから姉の前で侘助を背負っていても動じることはなにもない。ないが、そろそろ暑苦しくなってきた。
「侘助、そろそろ離れ……」
「残念だったなあ、理香。おれたち、まだキンシンソーカンなんだ」
 そう言うなり、侘助はすぐ横にある理一の頬に口づけた。
 理香の目が丸くなったとたん、理一の長い腕が強いバネで侘助の顔を押しやる。
「アメリカナイズもほどほどにしとけよ」
 嫌悪を込めてそう言い捨て、頬をごしごしと拭うのは演技でもなんでもない。
 人前でそんなアピールをされてもただ居心地が悪いだけで、照れる気も起きないだけだ。この男は、理一が赤面してあわてるとでも思ったのだろうか。あるいは……。
 心底嫌そうに侘助を睨みつける理一を眺め、理香は声を上げて笑い出した。どこか祖母に似た笑い方だった。
「たいへん、母さんには秘密にしなきゃ。黙っとくから、早く更生してかわいいお嫁さん連れてきてね」
「……がんばります」
 この歳になると更生も難しくなるんだよ、と腹の底で呟き、麦茶を一気に飲み干した。
 さすがに今さら罪悪感もないが、姉を四半世紀もだましつづけていると思い知らされるのはあまりいい気分ではない。
「てめえが先だろ」
 理香に毒づきながら、再び絡みついてくる侘助の腕に力がこもるのを、理一は気づかないふりをした。
 あいかわらず幼稚なその衝動は、以前よりも厄介かもしれない。
「壊したい」ではなく、「受け入れられたい」にかたちを変えた、彼の切実なる願望は。


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