侘助/理一

2009_サマーウォーズ,[!],[R18]


   03 東京にて

 校庭の隅に何人かの男子が集まっている。
 一人対多数。囲まれているのは、理一がよく知っている少年だった。
 同じクラスの子が、ランドセルを背負って校門を出ようとしている理一の腕をつかんだ。
「あいつ、おまえのいとこじゃないの?」
 陣内という名字はあまり多くはない。というより、確実に親戚だ。この学校に目下「陣内」は三人しかおらず、その三人が同じ家で暮らしていることも、すでに皆が知っていた。
 理一は友人の手をふりほどく。
「いとこじゃない」
 だがならばどういう関係かと尋ねられても、理一には答えられなかった。「おじいちゃんの知り合いの子」という説明は受けたが、それがなぜ「うちの子」になるのかは知らなかった。
 いとことかまたいとことか、一言で答えられるような関係ならばよかったのに。
 理一の脇を、何人かの上級生が走り抜けていった。その先頭にいるのは、揺れるおさげに赤いランドセル。顔を見るまでもない。
「あんたたち、うちの弟になにしてんのよっ!」
 上級生の登場に、下級生たちは怯んで散らばっていく。
 いじめっ子たちを蹴散らした姉が侘助に近寄るのを最後まで見ず、理一は背を向けた。
 理香は、理一と同い年の侘助をあっさりもう一人の弟だと認めたらしかった。姉にとって弟の存在などその程度のものだ。毛色のちがうペットが一匹増えたというくらいの認識なのだろう。弟のほうも、さすがにもう姉にかまってほしい歳でもなかったが、姉が自分以外の姉になるのはなんだかおもしろくない。
「兄弟なの?」
 同級生に尋ねられ、理一はうんざりして硬い声で教えてやった。
「よその子をあずかってるだけだよ。いつか出てくんだ」
「へえ、いつ?」
「……来年くらいかな」
 それが願望でしかないのを知りつつ、理一はランドセルの肩ベルトを握りなおして、校門を出た。あんな子には関わりたくない。仲良くできるはずもない。
 なのに、家へ帰れば必ず顔を合わせてしまう。理香に助けられたことに腹を立て、そのくせ理一が知らん顔をしたのにも拗ねる、あの気むずかしい少年に。
 陣内家で理一だけが、侘助を頑なに拒みつづけていた。

  二〇一二年 夏

 盆を過ぎたばかりの東京は、暑いどころの騒ぎではない。
 待ち合わせ場所の店に向かう理一の足も、自然と速くなる。今は一刻も早く、アスファルトの照り返しがない日陰に入りたかった。
 禁煙席の隅で一心不乱にキーボードを叩いている青年を見つけ、トレイを持って歩み寄る。眼鏡のせいで目は見えないが彼でまちがいない。
「マックなんて久しぶりで緊張しちゃった」
 そう言いながら正面に座ると、怪訝そうに顔を上げた彼の表情がぱっと明るくなった。
「わ、お久しぶりです!」
「こんにちは、佐久間くん。まだ一人?」
 佐久間は眼鏡を押し上げてノートパソコンを閉じる。
「はい、健二は電車が遅れてるとかで」
 そんなところまでいちいち彼らしくて、つい頬がゆるむ。微笑ましい気持ちでカップに口をつけた。
「意外とおいしいんだね、コーヒー」
 大学生に任せたおかげでファストフード店が待ち合わせ場所になったが、たまには悪くない。相手のおかげで気分も若くなる。
「せっかくのお休みに、ヘタレ健二のためなんかにわざわざご足労いただいて、いたみいります」
「いえいえ」
 おどけて深々と頭を下げる大学生に、エリート自衛官も居住まいを正してお辞儀をしてみせた。
「どうも、親戚連中が盛り上がっちゃってね。どうしても健二くんを甥だのまたいとこだのにしたいらしいんだな」
「またいとこって……なんでしたっけ」
「いとこの子ども同士」
 今どきの若者が首をかしげるのもむりはない。教えてやると、佐久間はのけぞって「オレなんか自分のいとこだって会ったことないですよ」としみじみ呟く。冗談ではなく、本気で驚いているらしい。
「まあ、うちみたいな大所帯のほうが最近はめずらしいかもなあ」
「いやあ、陣内さんとこ見てたら、だんだん羨ましくなってきました。陣内家だったら親戚になりたいですもん」
 キング・カズマがいて、その師匠がいて、ラブマシーンの開発者がいて、自衛隊のえらい人がいて……と青年は眼鏡を輝かせて指を折る。
「普通の家だけどね」
 能力や地位や縁故云々の話ではない。妹思いの兄がいて、孫思いの祖父がいて、家の資産を食いつぶした放蕩息子がいて、その甥がいるだけだ。どこにでもありうる、ごくあたりまえの人々の集まり。それが、陣内家だった。
「ああ、だれかお嫁さん候補でも紹介しようか? 歳が近いあたりだと……」
「何歳ですか?」
「十歳」
「あと十年くらい考えさせてください……」
 佐久間が肩を落としたとき、騒がしく階段を駆け上がってくる足音がした。
「遅く、なりました……っ!」
 主役登場。顔立ちは少し大人っぽくなったようだが、気弱そうな印象は最初と少しも変わらない。理一はくすくすと笑いながら、肩を上下させている健二に席をすすめる。
 アイスコーヒーを一気飲みしてハンバーガーにかぶりついた彼が、本題に入るまでにはもう十数分かかった。
 だが愛しの恋人の話になると、とたんに健二の顔が曇る。
「ぼくが悪いんです……メールとか気づかないこともあるし、チャットも寝落ちしちゃったり……会いに行けたらいいんですけどそんな余裕、時間的にもお金的にもないし……そもそもぼくが大学受かってれば……」
「はいはい、ストップ」
 佐久間が手を振り、健二の泣き言を遮った。
「最近チャットでもずっとこんな調子なんです。どう思います?」
「はは……」
 どうもなにもない。ティーンの恋愛相談を真剣に受けるつもりはなかったが、ここまで直球で尋ねられると逆に考え込んでしまいそうだ。
 健二は大きな大きなため息をつくと、細い肩をがっくりと落としている。
「最近、よく思うんです。夏希さん、ほんとにぼくのこと好きなのかなって……」
 佐久間がうんざりした顔で髪をかき上げた。
「おいおい、今それを言うのかよ。二年もつき合ってるんだろ」
「だからだよ」
 二年もつき合っていれば飽きるかもしれない。大学にもアメリカにもかっこいい男の人はたくさんいるだろうし、そんな人よりたまたま先に出会ったのがぼくというだけなんじゃないか、云々。
 理一は横目で佐久間を盗み見る。この泣き言をいつも聞かされているとすると、実に友だち甲斐のある青年だ。同時に、自分と同じタイプなのかもしれないと思った。自分で動くよりは、人を支える側に立ってしまう性分なのだろう。
 だが今の健二には佐久間も理一も、自分を支えようとしている人間など見えていない。それを自己中心的だと責められないのは、健二にそのつもりが全くないのと、彼が置かれている状況がかなり閉塞的だと知っているからだ。
 健二は再び肩を落として呟いた。
「なんていうか、夏希さんがぼくを好きだっていうの自体が誤解っていうか、まちがいだったんじゃないかなって……」
「そんなこと……」
 つい彼の言葉を遮ってしまった理一は、次に言うべき言葉を見失った。曖昧な笑みでごまかし、コーヒーを飲む。
 自分がなにを言う気だったのかわからない。
 健二は、理一ではない。侘助でもない。栄に認められた、夏希の婚約者だ。
「……そんなこと、どうでもいいじゃないか」
 若者たちの反論は、有無を言わせない大人の笑顔で封じられた。

 ソファの足下に落ちている毛布を見やり、理一は肩をすくめる。
「まあ、こんなことだろうと思ったよ」
「なにが?」
「なんでもない。たった一週間でよくここまで自分に空間をなじませられるなあ、って感心しただけ」
 ウィークリーマンションというのは、もっとホテルじみた空間かと思っていた。少なくとも、最初の一週間くらいは。だが目の前に広がるのは、何ヶ月も何年も前からここに住んでいたとしか思えない雑然とした空間だった。
 脱ぎ捨てた服はベッドや床の上に放り出されている。それほど着替えを持ってきているとも思えないし、彼の性格から言って現地調達だろうから、備え付けのクローゼットはほぼ空の状態だろう。
 部屋全体がクローゼットならまだいいが、実際はゴミ捨て場といったほうが正しい。食べ散らかしたインスタント食品の残骸がテーブルの周りに散乱し、どれが未開封なのかわからない。惨状の中心で、パソコンといくつかの周辺機器が静かに熱を吐いている。
 そんな電子機器を冷却するためなのか、効きすぎたエアコンの風が髪を揺らす。たしかに夜でも都心は地獄の暑さだ。しかしここまで冷やす必要はない。
「寒いんだけど。エアコン温度上げていい?」
「だめ」
 真夏だというのに長袖を着ている男は、そっけなく答えてタバコに火をつけた。そういえばフローリングがざらつくのは、灰のせいだろうか。
 理一は手にしていたジャケットを着込み、ベッドの上から服を払い落として腰を下ろす。
「で、仕事はどう? 陣内スーパーバイザー」
「とくに問題なし。でかいトラブルもないし、来月の頭には向こうにもどれそうだ」
 侘助はかけていた眼鏡を外すと、テーブルの上に放り投げる。セルフレームのそれを、理一はにやにやと眺めた。
「老眼?」
「うるせえ」
「否定しないんだ」
 実家で聞いたコンタクト云々は嘘だと思っていたが、この様子ではわからない。中身は子どものままでも肉体は容赦なく老いていくのだと、理一は自分が健康体なのをいいことに意地悪く考える。
「健二の様子は? 昼間会ってきたんだろ?」
 それ以上眼鏡についてつっこまれたくなかったのか、侘助が強引に話題を切り替えた。仕方なくつき合ってやる。
「うん、相当ひどいね。この前の模試もさんざんだったらしいよ」
 予備校生にとって夏は勝負時だとかなんとかテレビのコマーシャルで言っていたような気がするが、だいじょうぶなのだろうか。他人事ながら理一は無責任に心配していた。
 侘助が灰皿代わりの空き缶に灰を落とす。
「別れちまえば楽なのにな」
「そうもいかないよ。そうなったら親戚中大騒ぎだ。だいたい、ばあちゃんが認めた男だし……おれも、好きだし」
 あの夏の武勇伝は陣内家ではすでに伝説だが、間近で見ていた理一にとっても未だにエキサイティングな記憶だった。
 単に彼の計算能力に舌を巻いたというだけではなくて、絶望の中でもあきらめない心に強く惹かれた。結局、なにかを動かすのは地位や能力そのものではない。折れない心と、自分や他人を信じる気持ちなのだと、弱冠十七歳の高校生に教えられた。
 彼への素直な尊敬と、ともに戦った仲間意識が、理一をこんなくだらない騒動に向かわせているのかもしれない。
 という繊細な男心を、この幼稚な男にわかれとは言わないが。
「ついにショタコンに目覚めたか?」
 にやにやと下世話な笑みを浮かべる相手を、理一は半ば失笑とともに見返した。
「そうだなあ、最近枯れた中年としかしてないし。そろそろピチピチの若い子に乗りかえたくなってきてるかもね」
 しまりのない笑顔はさらにひどくなり、ずりずりとベッドに近寄ってくる。
「そう言うなよ、年増は年増の魅力があるもんだぜ」
 ひざに手がかけられるのを、無感動に見下ろした。
「おまえ……客に茶も出さないで、いきなりそれ? おれは出張ヘルス?」
「茶出したらヤるのか?」
 バカだバカだとは思っていたが、下半身の欲求が絡むとほんとうにバカになるらしい。
「……もういい」
 着込んだばかりのジャケットを脱ぐと、侘助が待ちかまえていたようにひざへと這い上がってきた。そのままベッドに押し倒されてやる。
「疲れてたまってんだ」
「疲れてるならするなよ」
 返事はない。唇をふさがれると同時に、長い指がシャツのボタンを外しはじめたから。理一はその重みと愛撫を受け止めるだけで、自分からなにかをしようとは思わなかった。
「ん……」
 かすかな吐息を洩らす唇を、どこかひんやりした舌が舐めては、また歯のあいだにすべりこんできて絡みつこうとする。かさついた指先が胸の突起を撫で、押しつぶす。服越しに押しつけられる腰の動きも、動作のすべてが露骨に催促していた。
 しかし素直に応えるのも腹立たしくて、相手が自分をその気にさせるまでは指一本動かすものかと決めていた。首筋に胸にと触れる唇も、まだくすぐったい程度で声を出してやるほどではない。
 シャツの前を大きく広げられたときも、袖から腕を抜いてやったりはしない。そんな理一に業を煮やしたのか、侘助は下着からひっぱり出した理一自身に、熱を帯びていた自身を直接重ねて腰を揺らしはじめる。
「ぅあ……」
 刺激に呻いたのは侘助のほうが先だった。さらなる刺激を求めて、彼は重ね合わせた陰茎を指でまとめて握り、乱暴にさすり上げる。あまりの粗雑さに不安を覚えた理一もつい手を伸ばしていた。
「や……っ」
「ぅん……」
 同時に洩れた声が合図だった。先端からしみ出す精に濡れた長い指が、絡み合ってはそれぞれに相手の弱点へと触れようとする。お互いを牽制しながらも相手の指に翻弄され、しまいには最も快感を覚える部分を直接こすりつけ合う。
 二人は口をきくことも考えることも忘れ、ただ目の前の悦楽だけを追いつづけた。
 理一のほうはこのまま達してもかまわないと思ったが、侘助が上ずった声で制止する。
「バカやろ……挿れなきゃ、意味ねえだろうが……」
「そう?」
 返事を無視して、侘助は相手の脚を持ち上げようとしていた。このまま蹴り落として組み敷くのは難しくない。だが実行して、機嫌を損ねた侘助をどうこうするのは面倒だ。おとなしく従うほうがよさそうだった。
 明るい蛍光灯はつけっぱなし、稼働中のパソコンとその仲間たちもうなりつづけ、全開のエアコンは容赦なく風を送ってくる。
 しかし、そのどれもが意識の外に追い出されていた。
「んぅ……っ」
 ゆるやかに突き上げてくる動きが、少しずつちがうポイントをかすめていくのがひどくじれったい。疲れているだのたまっているだの言いながら、一息に終わらせようとしないのはどういうわけか。
「ぁあ、ん……ぁ……」
 仰向けの理一は自ら腰をくねらせ、柄にもなく甘い声を上げて誘った。だが侘助は誘いには乗らず、抜ける寸前まで引いてはゆっくりともどってくる、という動きを変えようとはしない。じわじわ押し広げられる内側はもっと直接的な刺激を求めていて、苦しいくらいだというのに。
「焦らす、な……」
 眉を寄せて訴えれば、汗をにじませた顔が苦しげに笑みを浮かべる。
「久々なんだ、じっくり楽しませろよ……」
 体力のない侘助らしい言い分だった。きっと二回目はないのだろう。久々なのは理一も同じで、だからこそこの緩慢さがもどかしい。受け入れることに不満はないが、せめて主導権を握れたら……。
「侘……」
 唇だけを動かしながら、指先で招く。彼が聞き取ろうと身をかがめたところを、肩をつかんで引き寄せた。
 二人の視界がぐるりと回り、身体の位置が一瞬で逆転する。
「え……」
 刹那、侘助はなにが起こったかわからないようだった。目を見開いたまま動きが止まったところへ、一気に腰を落として押さえつける。
「くぅ……ぁんっ!」
 明るい部屋に、理一のらしからぬ喘ぎが響いた。
 腹の中にある侘助が深々と奥の奥まで理一を穿つ。息もできないほどの圧迫感が身体を貫き、ぐんと押し広げられた後ろは必死に元へ戻ろうとする。
「う……ぅあ……」
 理一の重みか思わぬ締めつけか、侘助は悲鳴に近い声を上げて身をよじった。そんな相手を見下ろして微笑んだ理一は、ゆっくりと自分で動きはじめる。
「なにす……ぁあっ!」
 理一が腰を揺らすたび、侘助はみっともないほどに上ずった声で喘ぎ、騒ぎ立てる。彼をさらに煽るつもりで、きつく絞り上げるように抜きかけては、再び骨が突き出た腰の上に体重をあずける。くり返すほどに腹の中のそれがさらに質量を増していくのを、理一は愉悦とともに感じていた。
「な……っ、あぅ……」
 抗議の言葉は意味をなさない呻き声にすり替わり、果ては涙さえにじませながら、理一を抱き寄せその背中に縋りついてきた。食い込んだ爪がしがみつきなおすように何度も肌をひっかく。
 角度の変化に呻いた理一はそれでもまだ笑みを失わずに、自ら汗ばんだ胸を相手の薄い胸に押しつける。骨が浮いて抱き心地はよくないが、たしかに馴れた侘助の身体だった。久々の行為を徹底的に楽しんでやろうという貪欲さは、理一のほうが強かったのかもしれない。
 どちらが受け身なのかわからないと思いつつ、根本まで飲み込んだ侘助を締めつけた。
「うぅ……あっ!」
 一気に内側を押し広げる感覚にうながされ、理一も終わりを迎える。
 力を失った陰茎を抜きもせず、理一は侘助の上に腰を下ろしたままぼんやりと相手を眺めていた。
「早く下りろよ……」
「ちょっとだけ次を期待してるんだけど」
「てめ……バカ、言ってんな……」
 やつれた顔で視線を彷徨わせていた侘助が、ようやく理一に焦点を合わせる。
「男に飢えてんのか?」
「……ま、否定はしないよ」
「マジでか」
 下品な冗談のつもりが真顔で肯定されて呆気にとられているようだった。
「男だらけの中にいて、男に飢えてるって?」
 つづいて引きつった笑い声が上がる。
「嘘つけよ。一等陸佐くらいになりゃ部下もよりどりみどりだろ? 好みの男はべらせてんじゃねえの?」
 だったら毎日が楽しいだろうに。そう思いながら上体をかがめて、腹の中の違和感に呻きながら囁く。
「おまえが、好きだから……」
「は……」
 今にもまぶたを下ろしそうだった半眼がはっと見開かれる。
「……なんて理由だったら、楽だったのにな」
 笑いもせずに呟いて、理一はようやく侘助を解放してやった。ついでに指一本動かせないといった風情の侘助の代わりに後始末までしてやった。
「くそ……っ」
 口の中でもごもごと罵りながら、彼は毛布をひっぱってかぶろうとする。
「信じた?」
「んなわけあるか」
 ふてくされた声が裏腹な気持ちを答えていることに、彼が気づく日は来るのだろうか。
「仕方ないじゃないか、おまえしか相手がいないんだから。そっちだって、似たようなもんだろ?」
 子どもをなだめる口調で声をかけたが、返事はない。理一はつい意地の悪い笑みを浮かべていた。
「それとも、おれに操立てしてる?」
 がばっと起きあがった男は、上気した顔で相手を睨みつける。
「それこそあるか! おれは男なんか興味ねえんだよ」
「は……この状況で、おもしろすぎるよそれ」
 だが侘助が男性一般に関心がないことは、理一がいちばんよく知っていた。どうも理解に苦しむのだが、この行為と自身の嗜好は彼の中で完全に切り離されているらしい。
「ゆがんでる」
「今さらつまんねえこと言うな」
 理一のほうは何年も前に自分をごまかすことをやめていた。
 今は、新人隊員や宿舎の同僚たちの逞しい肉体に目を細めることもある。めったにないが独り身を慰めるときなどは、彼らのほうが不健康に痩せた骨と皮だけの叔父よりよほど欲望を満たしてくれる。
 ただあくまで妄想の域からは出ず、他の男と実際の行為に及んだことはなかった。そんな素振りを見せたこともない。女性がだめになったわけではないし、社会的地位を危うくするリスクを冒すほどのことには思えないというだけのことなのだろう。新たな相手を探すまでもなく、絶対的な「共犯者」がいるのだ。
 その「共犯関係」こそが、この不毛な事態を作り出しているという事実はあえて見ないことにしていた。卵が先でも鶏が先でも大した差はない。
 下着だけを身につけ、ジャケットを探ってタバコの箱を取り出したところで、肌寒さに震える。当然の選択としてシャツを羽織ろうとしたとたんに、肩の後ろにひりつく痛みが走った。手をまわせば、そこにはたった今つけられたばかりの爪痕が筋を描いている。
 着ようとしたシャツを放り投げて、理一は侘助を見返った。
「おまえさ……爪切り持ってる?」
「なんで」
 無言で侘助に背を向け、不名誉な負傷を見せる。侘助は「あ……」と口ごもるなり、顔ごと目をそむけて自分のタバコに手を伸ばした。その手からライターを奪い取って火をつける。
「人に爪を立てる可能性があるときは、事前に切っておけ」
「わかるかよ!」
 マットレスを叩いてから、侘助は苛々と髪をかきまわして汚い部屋を見まわす。
「昨日コンビニで買ったんだけどな……どっかいった」
「切る前にか?」
「朝でいいかと思って……」
 伸びた爪を見ながらもそもそと呟く声は、床に落ちて消えた。
 ないものを責めても仕方がない。理一は早々にあきらめ、代わりにと冷房のリモコンを要求した。侘助はしぶしぶながらも引き渡しに応じる。
「今から探せよ、爪切り」
 タバコをくわえたままさらなる命令を下す理一に、しかし侘助はベッドの上から動こうとしない。
「明日切るからいいわ」
「おまえはまた、そうやって……」
 だがいくら小言を言ったところで、この怠惰な男を再び動かすのは至難だろう。短くなったタバコを空き缶に押し込んで、理一は俯せに寝そべった。
 入れちがいに吸いはじめた侘助が、ぼんやりと宙を眺めながら呟く。
「同居っぽいな」
「は……」
 肩越しにふり返った理一と目が合うと、彼は鬱陶しい前髪に表情を隠してしまう。
「なんでもねえ」
 たしかにかりそめとはいえ、今は侘助の住処だ。ホテルとちがってチェックアウトの時間を気にすることもない。だが、理一にとってはあくまで「侘助の部屋」であり、茶を出せと要求したくなる他人の家でしかない。ましてやいっしょに住んでいる感覚などわいてこない。だからそれは、侘助の願望だろう。
「おまえ、おれと同居したいの?」
 薄い裸の肩が、わずかに震えた。
「べつに……つーか、物理的にむりだろ」
「まあね」
 だがそのやりとりが単なる言い訳であることを、二人ともわかっていた。
 理一は自衛隊の官舎に住んでいるが、東京近郊ならば寮を出てだれと暮らしてもかまわない。アメリカ在住の侘助も実際は毎日出社しているわけではなく、その気になれば世界中どこにいても仕事ができる環境にいるはずだった。
 それでも、二人はその苦しい言い訳を通しつづける。
 仮にいっしょになってしまったら、そこから先がない。以前の怠惰な関係に逆戻りするだけだ。ぶつぶつ言いながらシングルベッドに寝転がっている今も十二分に怠惰だが、少なくともそれぞれの充実した生活がある。決して共有しえない生活が。
 もう先などないのだとあきらめるには、まだ二人とも若すぎる。しかし新たな相手を探すには、少し遅すぎる。どちらにしろ、後先考えずに恋情にふりまわされる時期は、ずいぶん前に通りすぎてしまった。
「好きだから……か」
「あ?」
「いや」
 そんなことを思っていたのはいつだったか。そして、そんなことを思わなくなったのはいつからだったか。
 思い出せなくもないが、わざわざ思い出すほどのことでもない。どちらにしろ、大したことではないのだ。「好きだから」などという感情は理由にも問題にもならない。
「夏希と健二くんには、大問題だろうなあ」
「なんだよ」
「なんでもない」
 こんなくたびれきった中年男たちといっしょにしてしまっては、若々しい恋人たちに失礼だろう。
「明日……爪、切れよ……」
「ん……」
 もそもそと裸の肩を寄せてくる男をひじで押しやりながら、枕を抱えて目を閉じた。

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