侘助/理一

2009_サマーウォーズ,[!],[R18]


   05 遠距離恋愛

 転機はいつも突然にやってくる。
 侘助が家の資産を持ち逃げしたと聞いたときは、さすがに血の気が引いた。
 いっしょに暮らしている家族との衝突が多くなり、親戚からの冷たい視線に焦っていることは気づいていたが、まさかそこまでやるとは思わなかった。
「結局、陣内の人間じゃなかったのよ」
 母の万理子が興奮のあまり口走った言葉は、理一を含む家族と親戚全員の思いだった。
 だれも侘助を拒まなかったのに、侘助がこちらを拒んだ。外へ出た者はもう仲間ではない。どれほど口汚く罵られても文句は言えないのだ。
 ただし、妾の子、不義の子だから、という言葉には、本妻であるはずの祖母が筋違いだとひどく怒った。
「死んだ人を悪く言うもんじゃない。性根が曲がっていたのは、あの子自身なんだ。あの子の性根を直せなかった、私の不始末だよ」
 ほんとうならば、母親だけではなく侘助をも庇ってやりたかっただろう。
 最も手ひどい裏切りを受けたのは栄なのに。当主として、育ての親として、栄は最もかわいがってきた侘助をあきらめる決断をしなければならなかった。
 理一にも憤りはある。しかし、かわいがっていた継子に裏切られた祖母の気持ちは到底推しはかれない。それを思うと自分のことはひとまず外へ置こうという気になった。ただの逃避だったかもしれないが。
 母や叔父たちが家族会議と称して不在の侘助を吊し上げているあいだ、理一は屋敷の裏にある栗の木の下で、一人タバコを吸っていた。なにも考えたくなかった。
 上っていく紫煙をただ眺めていると、従兄の太助がやってきた。彼は喫煙者ではない。だからここへ来ることはかなりめずらしい。
「会議、終わった?」
「まさか。白熱しちゃってるよ」
 他人事のように言う理一を咎めもせず、太助も「親父をなだめるのに疲れちゃって」と笑う。すでに妻子もある彼は、年上ということもあって理一より数段落ちついている。少なくとも万作叔父の三兄弟よりは、侘助に対して憤っている様子はない。
 理一が黙り込んでいると、彼は遠慮がちに「気を落とさないで」と肩を叩いてきた。
「どうして、おれに?」
 困惑する理一に、太助は逆に困った笑顔を見せた。
「仲、良かったからさ」
「まあ……ショックはショックだけど。みんなほどじゃないよ。そんなにあいつのこと気にしてなかったし」
 半分は嘘だ。だが口にすると、実際にそうだったような気になってくる。
「なんていうか、おれも甘かったのかなって」
「理一くんのせいじゃないよ」
 真意を知るはずもない太助が慰めてくれるが、どうでもよかった。
 むだな行動力を発揮する前に一言くらい相談してくれてもよかったのではないか。結局、侘助にとってこの自分はなんだったのか。侘助との関係に費やされたといってもいい二十代はなんだったのか……そう思わなくもない。
 だが憤懣と同時に、それが体のいい責任転嫁であることも気づいてはいた。「互いに惑わされるな」という祖母の教えを、理一は守らなかったのだから。侘助には侘助の、理一には理一の道がある。祖母はそう言ったのに。
「もう帰らないよ、あいつは。それでいいじゃないか」
「うん……」
 太助は口ごもって黙り込む。
 理一が、自覚しているより憤っていることに気づいたのは、このとき太助だけだった。

  二〇〇三年 冬

 小学生になった夏希が、遊びに来るたび「侘助おじさんは?」と訊いてくる。
 大人たちは言葉を濁して、曖昧に笑うしかなかった。ただ厳格な祖母だけが律儀に「あの子は必ず帰ってくる」と答えていた。自分に言い聞かせていたのかもしれない。
 それでも夏希はひどく寂しがり、何度も侘助の思い出を語り、そして皆から侘助の話を聞きたがった。だれも侘助のことなど思い出したくはないのに。
 不意にいなくなってしまった、憧れの「おじさん」。
 夏希の中で侘助の存在が実物よりも大きくなりはじめるのを、理一は哀れみ半分、気恥ずかしさ半分で眺めていた。
「あたし、おじさんに手紙書く!」
 ファンシーな便箋に書きつけられた侘助への気持ちは表現こそちがえど、かつての理一が、思わず恋心を告白してしまったころの理一が抱えていた気持ちと大差なくて、自分の幼稚さを眼前に突きつけられる思いだった。
 目の前に相手がいないという状況は、こんなにも勝手な思いを作り上げてしまうのだと今さらながら思う。
 だがもう、焦がれることも心配してやることもない。
 同い年の叔父と甥、という奇妙な関係を、男同士の恋人、とさらにいびつな形に歪ませた張本人は、理一だけでなく一族の前から姿を消した。この先、二度と会うこともないだろう。
 気まずい思い出をすべて心の奥底に沈めて、理一は夏希が侘助を忘れるのを待った。夏希が侘助のことを忘れたとき、理一もこのやり場のない思いを忘れられる気がしていた。
 ……はずだった。

 またこのパターンだ。
 理一はため息をつく元気もなく、目の前の男を眺める。
「よぉ、元気か」
「元気かじゃないこのバカ」
 冷淡な声で一息にそう言った理一を、侘助はどこか驚いた顔で見返した。なぜ歓迎されないのかわからないといった表情だ。
「仙台駐屯地ってなんだよ、もっとあったかいとこ行けよ」
「……わざわざ真冬に来ておいて人の勤務地に文句言うな」
 少しも悪びれずいつものにやけ顔で立っている男に、一瞬つかみかかりたい衝動に駆られる。だが人目もあるし暴力沙汰になると面倒だから……といった程度の理由で、ただ怒りと恨みを込めて睨みつけるだけにとどめておいた。
 雪のちらつく空港まで迎えにいったはいいが、寮に連れていくわけにもいかない。市内までもどって適当な居酒屋で話を聞いてやることにした。
 彼が高飛びした先はアメリカだった。なるほど足がかりがあるのは留学先くらいだろうから、聞かされれば納得する。ようやく改心して帰ってきたのかと思えば、長野には寄っていないと言う。だれの顔も見たくない、と吐き捨てたのは、裏返せばだれにも合わせる顔がない、ということだろう。
 それなのに、わざわざ飛行機を乗り継いで仙台まで来たのはなぜか。そう問いただして直後、理一は後悔していた。
「おまえだけには……会っときたくてよ」
「……!」
 瞬時に耳まで熱くなったのは、怒りにちがいない。
 この関係を終わらせたのは侘助のはずだ。家族も理一も裏切って、自分からすべてのつながりを断ち切った。だから理一も思いを断ち切った。けじめをつけたのだ。

 それが、彼の中では出ていったときのまま現在進行形でつづいているというから、眩暈がする。侘助が思いきり照れくさそうなのも気持ちが悪い。
 理一はうんざりした気持ちを肺にため込んで、殊更に大きく吐き出してみせた。
「おまえ……まだそんなこと言ってるのか」
「な……っ」
 思ってもみなかったであろう言葉に、侘助が思わずテーブルを叩く。
「まだってなんだよ、おれはずっとおまえを……」
「勝手に出ていったくせに、なんでまだおれが待ってると思えるんだ?」
「待てよ、そっちが先に好きって言っ……」
 言葉が途中で途切れたのは、ちょうど店員が酒を運んできたからだった。
 侘助はタバコをくわえたまま壁を向いてしまい、理一はなんのためかもわからない愛想笑いを浮かべる。聞かれたかどうかはわからないが、二度とこの店には来ないと誓った。
 まったく、侘助に関わるとろくなことがない。母や姉をはじめ親戚連中が言っていたことが今さら身にしみる。三十路の男二人では、痴話げんかすら滑稽になってしまって、どこまで本気になっていいのか見当もつかない。
「今はちがうってのか」
「今も昔もそうだったことなんてなかったんだよ」
 たたみかければ、横顔は今にも泣きそうに歪んでいく。
 侘助は震える指でタバコを灰皿に押しつけた。
「ああそうかよ、全部嘘だったってのかよ!」
「……だったらよかったのにな」
 いい大人の会話ではない。高校時代のほうがまだ割り切った関係だった。
 こちらを睨みつける顔が、いじめられる子どもの表情になっている。泣きたいのに必死に自尊心を保とうとして、むきになっている顔。だとすれば、自分は引っ込みがつかなくなったいじめっ子だ。不毛だとわかっているのに、相手が泣くまでやめられない。
 早く泣け、と理一は思っていた。
 泣けば謝ったことにしてやる、だから泣いてしまえ、と言ってやりたかった。
 だが、侘助が決して折れないこともわかっていた。わからないはずがない。小さいころからずっと、そばにいたのだから。
 ずっと……。
「……!」
 その事実に気づいたとき、理一は火のついたタバコを取り落としそうになった。
 互いの存在が気に入らなくて睨み合っていたときも。後ろ暗い秘密を共有し合ったときも。若い恋に酔っていたときも、周囲からの無言の圧力を見ないふりをしていたときも。
 そしてついに家から逃げ出し、いなくなったものとあきらめていた今でさえ、侘助はここにいる。理一の前に。素直に泣くことさえできずに、ただ拳を握りしめて。
 きっとこれからも、侘助はこんな顔で理一と向かい合いつづける。理一だって、どんなに腹が立っても侘助を見捨てることはできない。
 それは軽い絶望と、安堵を伴う発見だった。
 どんなに好きの嫌いのと騒いで別れようとしたところで、侘助は理一の前からいなくならない。
「終わりにしたいならそう言えよ。今度こそ、おまえの前から消えてやるから」
 そのくせ、こんなことを言うのだ。手にしたタバコに火もつけず、ただせわしなく玩びながら宙を睨みつけている。
 今殴ってやったら、彼が泣く口実にしてやれるだろうか。いや、この心理状態で手加減してやれる自信はないから、泣く前に失神させて警察沙汰になるのがオチだ。現職自衛官ともなると、兄弟げんかもろくにできない。
 泣け、泣け、と念じていたら自分のほうが泣きたくなってくる始末で、理一は普段は飲まない日本酒を熱燗で何本も頼んでいた。
「もう遅いんだよ、なにもかも」
 言い捨てて、煙を吐いた。もう頭は冷えていた。
 腕時計に目を落としてから、努めて声を高くして顔を見ずに話しかける。
「宿決まってないだろ? 平日だから駅前でもツインでとれると思うけど……」
 侘助は口を開けたまま理一を見つめていた。
「おれ……フラレたんだよな?」
 やっとのことで絞り出した声は、今度こそ泣き出さないのがふしぎなくらいに揺れて震えていた。
「もう遅いって言っただろ。ふったふられたの域を超えてるんだって」
「……外泊許可は?」
「おまえから連絡があった時点でとってるよ。話長くなりそうだと思ってたから」
 こちらの門限を理由に逃げられてはかなわないと思ったのは事実だ。だがその先にいつものパターンを想定しなかったわけではない。失踪した裏切り者と相対するというのに、理一の頭も侘助と同じくらい「いつもどおり」だったのだろう。
「したくなきゃ、もうしなくていい。ベッドは二つあるんだし。でも縁を切るわけにはいかないよ。どうせ実家帰ったらまた顔合わせるんだからさ」
「おれは帰らねえ」
 口を尖らせて横を向く大人げない叔父に、理一は思いきり煙を吹きかけた。咳き込んだ侘助は、涙がにじんだ目をごしごしとこする。
「じゃ、このままアメリカもどる?」
「……飛行機、明日までねえし」
 拗ねた口調でぼそりと言うのがおかしくて、こらえきれずに笑い出す。
 赤い目の侘助はいよいよむくれ、焼酎を一気に飲み干した。

 裸でベッドに寝そべっている侘助が、携帯電話をいじっている。
「OZのアカウント、持ってるか」
 かすれ声というよりは嗄れたがらがら声と、真っ赤に充血した目で小さな画面を操作する姿に呆れながら、理一も携帯電話を引き寄せた。
「いちおう」
 数年後には世界中の公私全てを網羅するネットワークシステムも、この時点ではまだ招待制のベータ版で、専門家やマニアのあいだで評判になっているにすぎなかった。
「ID教えろ」
「……いいけど。メールや電話じゃダメなわけ?」
「キャリア変えると変わるからな」
 OZではアカウントが消えないかぎり、電話でもメールでもメッセンジャーでもさまざまな方法で連絡がとれる。本来の売りは高精度のリアルタイム翻訳技術なのだが、今のところは多機能のSNSとしての利用が一般的だった。当然、日本人同士のやりとりに同時翻訳など必要ない。
 首輪つきの綱を、犬自身から渡されたような気分になった。理一の側から音信不通になることはまずないから、これは侘助の消息を理一に知らせるためのツールなのだろう。
 理一は侘助の隣に寝転がり、携帯電話の画面に表示されたIDを眺めた。気の利いたアバターなどもまだなく、無愛想なプロフィール画像が申し訳程度についているだけだった。
「ばあちゃんにこのID渡してやりたい」
「やってみろよ。アナログババアにゃ猫に小判だぜ」
「……どうかな」
 この十数桁の英数字だけあれば、彼女はその意味がわからなくても侘助を見つけ出すことができるかもしれない。それだけの力があることを、侘助はわかっていない。
 そして、その気になった祖母に、理一が協力を惜しまないことも。侘助にとって祖母が絶対であるように、理一にとっても侘助より優先されるべき人なのだということを。
「ほんとに、帰らないのか」
「まだな」
 厄介なことに、侘助には侘助の考えがある。
 それがどんなに愚かでも失敗することになっても、結果が出るまで侘助は納得しないだろう。強引に連れもどしたところでまた同じことをしでかすに決まっている。持ち逃げされた財産が有効活用されているとは期待していないが、理一に侘助を止める力はない。
 できることといえば、侘助の首についた綱をしっかりと握っていることくらいだ。
 それが自分のためなのか家族のためなのか、それとも侘助のためなのか、判断はつかなかったけれど。
 たぶん、どれもそうちがいはないのだろう。

  二〇一二年 秋

 早起きはそれほど苦手ではない。少なくとも、寝起きが悪い人間を電話で叩き起こすよりは断然楽だ。
 起床時間を普段より二時間早めた理一は、顔を洗って着替えてから、ヘッドセットを着けてパソコンの前に座った。OZにログインしてワールドクロックで時間を確認する。ちょうど向こうでは真夜中、不摂生なプログラマが最も活動的になる時間にあたる。
 侘助はすでにオンラインで理一を待っていた。チャットルームの画面に二体のアバターが表示される。緑のアザラシと、ピンクのハート。
 「ワビスケ」は、ハート型の立体的なプレートだった。顔も手足もない。
 ラブマシーン事件以降、本名と顔を公開した侘助は、その後も開発者としての責任表示のため、ラブマシーンがエンブレム代わりにつけていたものと同じハートマークをアバターに使用していた。そのハートが、手持ち無沙汰にくるくるとスピンしてチャットルームを上下に動いている。
 ハートは緑のアザラシを見つけると、回りながら近づいてきた。
『ハロー? こちら夏希健二対策委員会アメリカ支部』
「えーと、それじゃあこちら市ヶ谷支部」
 ローカルすぎる、と笑った侘助は、そのままマイクに口を寄せて「あーあ」とわざとらしいため息をよこした。
「朝からため息聞かせるなよ」
『こっちは夜だよ』
 二人の通信はいつもテレビ電話ではなく、音声のみだった。ヘッドセットさえ着けていれば、フリーハンドで長電話ができる。国際電話よりも文字チャットよりも楽でむだがない。なにより、相手のつまらない顔など見なくて済む。
「夏希の様子は?」
『長野本部に言っとけ、キング・カズマが正しいってな。ガキの痴話げんかに首突っ込んでどうするんだ』
「我に返ったら負けだよ、こういうのは」
『返りたくもなる』
 アメリカにもどった侘助は、なんとか都合をつけて夏希と会ったらしい。
 初恋の相手と家から遠く離れた場所で二人きり、というシチュエーションに、侘助のほうが甘ずっぱい反応を期待していたのだが、恋する乙女はそれほど甘くなかった。過去の男と成り下がった侘助おじさんは、デートどころか恋人に会えない憂鬱さを延々と聞かされたのだという。
「それは、どうもお疲れさま」
『まったくだよ……』
 夏希は、健二が自分に興味を失っているのではないかと思っているようだった。健二とまるで同じだ。予備校にかわいい女の子がいるのかもしれないと疑っているところまで。
 メールや電話でどれほどやりとりしても、不安でたまらない。お互いがお互いを好きなのはだれの目から見ても明らかなのに、本人たちだけがそれに気づいていない……。
「……眩しいなあ」
『ああ、年寄りの目には毒だ』
 その煩悶すらも、二人にはどこか羨ましい。きらきらと輝く恋ができる時期を、二人は非建設的な相手に費やしてしまった。失われた時間はもどらない。ただ、枯れた独身男が二人、自分たちに関わりのない恋愛の顛末を心配しているだけだ。
 理一は自分たちの現実を頭から追い出し、画面上のアバターをカーソルでつついて遊びながら口を開いた。
「このままだと破局の危機ってわけか」
『もういいから、さっさと会わせちまおうぜ。大人の財力使ってよ』
「それはルール違反だよ。おもしろくない」
『すでにおもしろくないんだよ!』
 どんどんとテーブルかなにかを叩く音が聞こえる。短気を主張しているようなものだ。
「でもたしかにあの二人、早く会って話したほうがいいな。離れてるとお互いのイメージがどんどんブレていくんだ」
『そんなもんか』
 かつて「遠距離恋愛」をしていた者同士だが、見方はこんなにもちがう。侘助には今も見えていないものが山ほどあるのだろう。近視眼的な叔父にもわかりやすく、理一は健二の立場を解説してやった。
「今の健二くんは夏希がワガママで自分勝手な女だって完全に忘れてるぞ」
『そりゃ重症だ』
 心からの同意を感じる呻き声は、つまり彼女にふりまわされたばかりなのだろう。「おじさん」への甘え方はたしかに並みの手腕ではなかった、と東京で何度かいっしょに食事をしたこともある理一はしみじみ思う。
「勝手にいろんなこと想像して、勝手に盛り上がって、勝手に落ち込んで……そうやって気持ちって離れていくものじゃないか」
 マイクの向こうが黙り込む。
 ハート型のアバターがゆらゆらと画面を横切っていくのを、理一はぼんやりと眺めていた。少しかっこつけすぎたか、と思いなおしたとき、ぼそぼそと声が返ってきた。
『……おまえも、そうだったのか?』
「なにが?」
『いや……べつに。普遍的な一般論を訊いたんだよ』
 マイク越しの声が低くなって聞き取りにくい。
「そういうおまえは、どうなのさ?」
『……なんのことかわかんねえな』
 デスクトップの片隅では、ワールドクロックが地球上の二ヶ所の時間を刻んでいる。
 向こうは深夜、こちらは早朝。アナログ時計では五時間程度の時差だが、実際には日付変更線をまたいでいる。なのに距離は感じない。遠く離れているじれったさも、すぐに会えないという絶望感も、胸の中には見あたらなかった。
 そんなところはとっくに過ぎてしまって、今や昂揚も消沈もない。あるのは、こうして相手とつながっている安心感、のようなものだけだ。
 デスクトップで時報が鳴った。メールの処理をしながら夏希と健二の今後について話し合っているだけでも、それなりに時間が過ぎるものだ。互いの話などしなかった。つい先日、会って肌を合わせたばかりというのもある。だがもとより相手に話して聞かせることなど、お互いに大して持ち合わせていない。
「そろそろ出勤だから。切るよ」
『ああ……』
 侘助は眠そうに答え、それからふと思いついたように尋ねてきた。
『そういや、おばさんの具合は?』
 すでに退室ボタンへカーソルを動かしかけていた理一は、思わず手を止める。
 つい半月ほど前のこととはいえ、侘助が母の体調が悪かったのを覚えているとは思わなかった。前のように些細な言い争いこそしないものの、それほど気にかけている様子はなかったから。
「とくに悪くはないよ……よくもないけど」
『あっそ。……もう歳なんだからおとなしくしとけってな。じゃ、健二のほうは頼むぜ』
 一息に言葉を吐き出すのは、万理子を案じたことに対する照れ隠しだろうか。理一は笑いが声ににじまないよう気をつけながら、再びマウスを動かす。
「了解。夏希はまかせた」
 緑色のアバターが「バイバイ」と手を振り、チャットルームから消える。
 ヘッドセットを外してカーテンを開けた。
 暦の上では秋だが、今日も暑くなりそうだ。


   06 サポート

「何年離れてても、おれのこと忘れないよな?」
 いつだったか、睦言で侘助が囁いた言葉だ。なにをくさいセリフを、と思って、理一は苦笑していた。
「どうやって忘れるんだよ」
 家でも外でも、やたらに顔をつき合わせているというのに。年単位で会わないことなど今までなかったくせに。
 侘助もくすくすと笑い出して、その場はそれでおしまいになった。
 留学を終え、卒業して大学院まで進んでおきながら、侘助は実家へもどった。就職活動などしていなかったから他に行くところがなかったのだ。それから、かつての自室にこもって「研究」をはじめた。それがなんなのか、女三人や親戚にはもちろん、それなりに知識のある理一でさえわからなかった。
 侘助より数年先に卒業した理一は関東近縁の駐屯地で順調にキャリアを重ねていたが、秘密の関係だけは終わる気配がなかった。
 二ヶ月に一度くらい、侘助は長野から出てくる。
 それは機材調達のための電気街巡りだったり、田舎では上映されない映画を見るためだったり、学生時代の友人を訪ねるためだったりとさまざまな目的があったが、大半の時間は理一と過ごしていた。
 端から見れば仲のいい友人同士、知人に会えばいとこだと紹介し、ホテルの台帳では姓が同じだから兄弟あつかい。仕事に就いてから嘘をつくことには慣れてきていたし、それでなくても隠しつづけてきた侘助との関係を、今さらだれかに明かす気はなかった。
 二人はむしろその秘密を楽しんでさえいた。
 だがふとした瞬間、目の前が真っ暗になるときがある。
 それは実家で遭遇する母と姉の諍いだったり、仲人好きの上司が持ってくる見合い話だったり、親戚の結婚式だったりとさまざまだったが、いたるところで理一を待ちかまえていた。
 かつて恋人よりも侘助を選んでしまった理一は、同じ轍を踏むのが怖くて、一人の女性とつき合うことを避けるようになっていた。侘助のほうはそんな気苦労もなく、周囲からの白い目さえ無視して、ひたすらに自分のやりたいことだけをやっているように見える。
 この先、侘助はどうするつもりなのだろう。この先、自分はどうなるのだろう。
 それぞれの現実と将来に不安を抱えながらも互いにそれを言い出せないまま、楽しくも怠惰な時間だけが過ぎていく。的はずれな嫉妬やありきたりな痴話げんかはあっても、現実と将来を語ることだけは避けていた。
 一度でもまっすぐ正面から向き合えば、最悪の事態は起きなかったかもしれないのに。

  二〇一二年 秋

 半年ぶりに日本に降り立った従姪を眺め、理一は目を細めた。
 前に会ったのは正月だが、そのときよりも精悍な顔つきになった気がする。色気が出たなどというのではなく、甘え上手な子どもから自立した大人に成長しつつあるようだ。
「理一さん……ありがとう」
「さあ、急ごうか」
「うん!」
 サイドカーの側車に乗っている夏希は、まっすぐ前を見つめている。その視線の先にいるのはただ一人。その彼の元に彼女を送り届けられるのは、理一だけなのだ……などということはもちろんあるはずもないが、そう思っていたほうが楽しいに決まっている。
 任務への責任とひそかな昂揚を勝手に感じながら、理一は愛車を飛ばした。
 待ち合わせは、オープンカフェのテラス。恋人たちの再会場所としては悪くないシチュエーションだ。
 先にこちらを見つけた友人が、彼の肩を叩いて指さす。ふり返った青年は、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
「夏希さん……?」
 呆然と呟く様子を見ると、佐久間は夏希が来ることを知らせずに健二をここまで連れてきたらしい。
「健二く……!」
 駆け寄った夏希が健二に抱きつくかと思ったそのとき、健二が手を伸ばして夏希の腕をつかんだ。
 ひょろりと細い、しかし長くて硬い腕が、恋人を力強く抱きしめる。言葉はなかった。その抱擁だけで、彼はすべての思いを彼女に伝えていた。
「うわ……」
「わあ……」
 理一と佐久間は同時に感嘆を洩らし、それから互いに視線を交わす。
 突然のドラマにざわつく店の様子も二人には見えていないらしい。理一は佐久間に目くばせをして、店からそっと抜け出した。
「はははっ、大成功でしたね!」
 興奮を抑えきれずに声を上げて笑い出す佐久間につられて、理一も思わず声が弾む。
「ほんと、映画みたいだったね!」
 ただ、映画館で見ているぶんには素直に感動できるが、実際に目の前でやられると、周りの視線が気になって感動どころではない……というのが世代を超えて一致した二人の意見だった。
 佐久間が健二の予定を聞き出し、理一がそれを侘助に伝える。
 侘助は夏希を説得して飛行機のチケットを手配し、日本へ送り出す。
 理一は空港から夏希を連れて、佐久間が健二を呼び出して待っている店まで送る。
 というシンプルながらみごとな連係プレーのおかげで、若い恋人たちは再会することができた。
 余計なおせっかいと言ってしまえばそれまでだ。実際、これ以上つき合っていられないと業を煮やした侘助が、とにかく二人を会わせればなんとかなるだろうと強引にこの作戦を持ち出したのだった。甘い恋の痛みに苦しむ恋人たちの悩みを、金で解決するなど情緒がなさすぎると理一も思わないでもなかったが、厭きてきたことは事実だったから、おとなしく作戦に乗ったのだ。
 当然ながら、友だち思いの佐久間にはそんな大人の思惑など伝えていない。
「このあとは? 夏希先輩、いつまで日本にいられるんですか?」
「帰りのチケットは明日の昼だから、この二十四時間をどう使うかは二人しだいだね」
「二十四時間……」
 リアルに映画っぽい、と呟いて、佐久間は出てきた店をふり返った。それなりに小ぎれいなカフェを見てにやついている。このロケーションを選んだのは佐久間だから、自分の選択に満足しているのだろう。
「しっかし、わかんないんですよね」
「なにが?」
「ネット全盛期のこの時代に、どうしてまだこんなことやってるんですかねえ。地球の裏側にいても、リアルタイムで顔見て話せるんですよ?」
 心底ふしぎそうに首をひねる若者を、理一は逆に新鮮な感覚で眺めた。
「佐久間くん、彼女は?」
「いますよ。まだ直接会ったことないけど」
「え?」
 OZのコミュニティを通じて出会ったフランス人の大学生なのだと、彼は照れもせず告白した。それでもやはり恋人の話をするときは、頬がゆるんでしまうものらしい。
 同時翻訳でもコミュニケーションは成立するが、テレビ電話や音声チャットで直接話すときは英語だ。お互いに母国語ではない言語での会話で、そのもどかしさや時差で初めて距離を感じるのだという。
 残念ながら理一には、出会いから現在進行形の過程まで、共感し理解できる要素がほとんどなかった。だが人同士の関わり方が目まぐるしく変わっていくこの社会で、佐久間のような恋愛は増えていくのかもしれない。
 それでも。
「一度会ってみるといいよ。必ずなにかが変わるから」
 毎日顔をつき合わせていてもわからないことは山ほどある。離れていても理解し合える関係は築けるだろう。だが、どんなに言葉を尽くしても伝わらない思いが、ただ一度抱きしめるだけで通じ合うこともある。
 夏希と健二がこれからどんな話をするのか、理一は知らない。さほど興味もない。だが、再会した瞬間の二人を見ただけで、もう心配はいらないと思えた。
 二人は、ただ会うだけでよかったのだ。理一と侘助ほどに複雑な感情で絡み合っていないから。「好き」というシンプルな感情で結ばれているから。
「あー、そう言われると羨ましくなるなあー……」
 空を見上げた佐久間は、今にも遠い空の下にいる彼女への思いを叫び出しそうに、両腕を突き上げて伸びをする。
 健二や夏希に比べると少し大人びては見えるが、まだ二十歳前の青年だ。理一はくすぐったい気分になって笑い出していた。
「じゃあ佐久間くん、当面は会えないパリジェンヌの代わりに、おじさんとツーリングデートしようか。日帰りで行けるとこならどこでもいいよ。ついでにおいしいものもおごっちゃう」
「え、マジですか! でもオレ、なんもしてないですよ?」
「いやいや、きみはいつでも功労者だよ。なにがいい? 焼肉でもフレンチでも、好きなものリクエストして」
「うわわ、理一さん大好きッスー!」
 十代の男の子に冗談でも好きと言われて、悪い気はしない自分に苦笑してしまう。自分で思っていたより守備範囲は広いらしい。むりなくタンデムに誘えるバイクだったら、もっと楽しかっただろう。
 こちらのささやかな下心など知るはずもない大学生は、駐車場のバイクを見て子どものように目を輝かせている。
「サイドカー? やっべ、都内で見たの初めてかも。かっこよすぎですよ! 理一さんってリアルに何者ですか?」
 いい反応だ。彼とは仲良くできそうだと思いながら、携帯電話を取り出す。無断で実行した作戦ではあるが、顛末を本部の姉に報告する義務があると思い出したからだった。
「ただのスケベな独身中年」
 スケベには見えないけどなあと笑う佐久間に微笑みかけ、フルフェイスのメットを手渡した。彼をどうこうしようという気は全くないが、友人でもかわいいほうがいいに決まっている。
「はい乗って乗って」
「はーい、おじゃましまーす」
 姉からの返信には、テンション高めのねぎらいと、従姉の直美が新しい(しかしつまらない)男とつき合いはじめたこと、そして母の体調があいかわらず思わしくない旨が添えられていた。
 どこかが片づいても、別の問題が起きる。それが大所帯というものなのだと理一は知っていたから、すっきりしない思いをむりやり携帯電話とともに閉じて、愛車のエンジンをかけた。
 今日くらいは親子ほど歳の離れた友人と遊んでもバチは当たらないだろう。
 少なくとも、未来の婿は守ったのだから。

  二〇〇八年 冬

 夏希も中学生になり、さすがに侘助の話はほとんどしなくなった。
 あいかわらず大人たちはなにも言わないが、事情は多少なりとも察するところがあったのだろう。それでも、実際に会えたなら飛び上がって喜ぶにちがいない。十年近くも会っていないのだから、きっと相当美化されているはずだ。
 ……と、目の前に立っているくたびれた本人を見ながら思う。こうもたびたび会っていると、ありがたみも薄れる。
 災害と外敵と侘助は忘れたころにやってくる、が理一の正直な心情だった。
 一年や二年連絡がなくて油断していると、OZ経由でメッセージが入る。理一にも仕事に趣味にと楽しい日常があることを、この男は意識したことはないらしい。
「ババアは、まだ生きてるか」
 いつからか、彼はそれを真っ先に訊いてくるようになった。それ以外には興味がないといってもいい。理香も万理子も、夏希のことさえ忘れてしまったかのように話題にはしないのに、彼女のことだけを気にしている。
「うん、元気。ただ……」
「ただ? なんかあったのか?」
 風邪をこじらせて入院したと言えば眉を寄せ、そのあいだも曾孫にあげる巾着を縫っていたと聞けば鼻を鳴らして笑い。興味がなさそうな顔をして煙を吐きながら、適当な相槌とは裏腹に表情をわかりやすく変化させて、祖母の近況に一喜一憂していた。
 離れている相手に思いを募らせるのは、夏希も侘助も同じ。
 今の侘助には、何年も会っていない栄がいちばん大きな存在になっている。
 会いたくても会えない、帰りたくても帰れない、大好きな人。侘助にとって栄は親であり祖母であり、故郷そのものなのだ。
 だから理一は、侘助が知りたいことをできるかぎり話してやるようになった。
 侘助が尋ねたくても尋ねられないことを、理一が知っている最新の情報を、思い出せるだけ聞かせてやる。
「他に、最近なんか愉快なことあったか」
 理一も祖母と暮らしているわけではないから、話すネタもそう多くはない。話はだんだん逸れて、家族や他の親戚の話になっていく。
「愉快じゃないけど……直美ちゃんが離婚してもどってきたよ」
「どれだっけ」
「万助おじさんちの二番目」
「あー、あのギャルっぽいやつ」
 気が強いひねくれ者同士、侘助とはとても仲がいいとはいえなかった。そもそも侘助と打ち解けられた者など、理一を含めて同世代にはほとんどいないのだが、中でも直美とは犬猿の仲に近い。口を開けば互いに罵詈雑言しか出てこなかった。
 そんな仇敵を思い出したわりには、侘助の目はぼんやりと宙を漂っている。そして、しみじみと呟いた。
「夫婦っていいよな……」
「は?」
 どういう心境の変化だ。あっけにとられている理一を上目遣いに見やって、侘助はきまり悪そうな苦笑を浮かべた。
「うまくいかなくなったら縁切って別れられるじゃねえか。他人だったのが他人にもどるだけなんだから、楽だよな」
「……なるほどね」
 世間一般の話をしているのではない。自分たち二人のことを考えていたのだろう。
 後先も考えずにそういう関係になった、まではよくある話。同じノリで、好きだの嫌いだの勘違いだらけの恥ずかしいやりとりをくり広げて、赤面ものの愁嘆場まで演じて、それでもまだこうして顔をつき合わせている。
 どんなに気まずくてもうまくいかなくても、離れられない。離婚して縁を切るのと同じようにはいかない。
 乱暴な言い方だが、わからなくもなかった。
 理一は肩をすくめて笑う。
「そうでもないよ? 慰謝料がどうこうでまだ揉めてるし、なのに母親同士が意気投合しちゃったみたいで、まだお歳暮や年賀状やりとりしてるし。そう簡単に縁は切れそうにないな」
「なんだそれ、めんどくせえな」
「まあね」
 だがそれが親戚というものだ。生まれたときには陣内家と縁がなかったはずの侘助が、本家にやってきたように。一度つながった間柄はなかなか切れるものではない。
「おまえは? そろそろお偉いさんの娘とかもらったりしねえの?」
「まだいいよ。そっちこそ、青い目の嫁さんは?」
「おまえが結婚したらな」
「どういう因果関係だよ」
 ゆるゆると実りのないこんな会話を毎度くり返しているのが、なによりの証拠だろう。
 自分から家を出ていったはずの侘助は、理一だけには会いに来る。
 理一は裏切ったはずの侘助に、彼がいちばん気にしている人の安否を伝えてやる。
 義務もなければ大義名分もない。損得も理屈も抜きで、そうするのがあたりまえになっていた。
 しいて言うなら、家族だから、ということになるのだろうか。
 侘助がそれを自覚しているかはわからないけれど。
「……もうすぐだ」
「ん?」
「もうすぐ、ババアを見返してやる。これでどうだ、って成功したおれを見せつけてやるんだ。ババアも親戚連中も、文句言えないくらいにな」
「……そう、か」
 自信たっぷりに語る表情は、子どものころから少しも変わっていない。大好きな祖母に褒めてほしくて、余計なことばかり考えているときの顔だ。いつも裏目に出て怒られるのに、懲りずに何度でも同じことをくり返す。
 少しは大人になれよ、と怒鳴りつけたところで、もう大人だと逆ギレされて拗ねられるのが目に見えている。
 もともと短気なほうでもなかったが、いよいよ気が長くなってきたなと自分で感じていた。少なくとも侘助に関しては。
 結婚しないのを相手のせいにして、もしかしたらどちらかが死ぬまでこんな関係をつづけるのかもしれない。だが昔ほど絶望的な気分にはならなかった。
 母と祖母には申しわけないとは思うが、家のことは姉がきっとなんとかしてくれるはずだ。不出来な弟のフォローはよくできた姉がして、不出来な叔父はよくできた甥がフォローする。それが家族ってもんじゃないか、とあの祖母なら言うだろう。どんなに迷惑かけたって、あんたはうちの子なんだから、と。
 このひねくれた男がそれに気づくまで、気長に待ってやろうと決めた。好きも嫌いも関係ない、離れられない家族だから。
「そろそろ行くか」
「どこに」
 とっさに間の抜けた返事をしてしまった理一を、侘助は呆れ顔で見やる。
「どこに? おれたちが顔合わせて、カラオケでも行くってのか?」
「それもいいな。モー娘歌えよ」
「バカ言ってんな、行くぞ」
 コートを抱えて立ち上がる侘助は、決して伝票は手に取らない。理一は苦笑してレジに向かった。

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