侘助/理一
04 イン・ザ・クローゼット
陣内家の子となった侘助は、決して万理子をお母さんとは呼ばなかったし、理香をお姉ちゃんと呼んだこともなかった。だからといって、理一が母や姉を独占しつづけられたわけではない。
手のかかる子と、聞き分けのよい子。どちらがより家族の気を引くかは考えるまでもない。怒られるのも、時折大仰に褒められるのも、心配されるのも、常に侘助だった。
弟ならば理一も面倒を見る側になれたかもしれない。だが侘助は弟などではなかった。何者かも小学生の理一にはわかっていなかった。それは侘助も同じだっただろう。
険悪とまではいかないがいつまでもぎこちない二人の距離が一気に縮まったのは、中学生のときだった。
ある日、いつもどおり返事も待たずに侘助の隠れ家の納戸を開けた理一は、ぎょっとしてその場に立ちつくす。
「なにやって……」
思わず問いながらも、なにをしていたかは明白だった。暗がりに広げられた毒々しいまでに鮮やかなグラビア雑誌と、座っているだけなのに息を荒くしている侘助と、埃とカビ以外の生々しい匂いと。
気まずさに凍りついた空気の中、先に我に返ったのは侘助だった。いつもの彼には見られない俊敏さと勢いで理一を納戸に引きずり込み、戸を閉める。暗がりの中、侘助は自らの手で理一に同じ行為を強いた。戸惑いが先行していた理一の抵抗は、侘助の必死さには敵わなかった。
「共犯だぞ」
何度もしつこくかけられる言葉に、理一もうなずくしかない。
それで終わりにしてしまえばなにも変わらなかっただろう。だが侘助はその行為に理一を巻き込みたがるようになった。「共犯」関係をつづけたかったのだ。
理一のほうも人並みに知識と関心はあったが、露骨に興味を示すのは気恥ずかしく、下世話だと感じている時期だった。侘助につき合うというかたちで若い身体を処理できるのは悪くない。
いざとなれば相手のせいにすることができる。それぞれがそう思っていた。
どっちつかずの距離感が、ここでは好都合だった。兄弟ではそもそもそんな気も起きなかっただろうし、同級生を相手にするには、妙な自尊心がじゃまをする。そういう相手なのだと割りきってしまうことで、二人はお互いの関係をも消化したのだった。
単なる性欲処理だけでなく、相手を実験台にしていろいろ試した。女の城ともいえる屋敷の中で青年二人が連帯感を共有するには、格好の秘密だった。そのころにはさすがに自分たちの血縁関係も理解してはいたが、だからといってどうということはない。
恋人とは別の、手近で安全な相手として、その関係は進学して家を出てからもつづくことになる。
一九九〇年 夏
二十歳を過ぎたばかりのころだった。
「ちょっと留学してくる」
いつものように横須賀の寮からはるばる本郷の学生アパートまで呼び出された理一は、ある決意を固めていた。なんとしても侘助に言わなければならないことがあった。
その矢先にアメリカ留学の話を切り出され、一瞬目的を忘れかける。
口調はこともなげだが、母や祖母を口説き落とすのは楽ではなかったはずだ。また姉が文句を言いそうだな、と思いながら、二年は向こうにいると聞いて少しほっとした。
「ちょうどよかった」
短くなったタバコを灰皿に押しつけて、侘助をまっすぐ見据える。
「終わりにしないか」
きょとんとした顔は文脈を全く掴んでいない様子で、理一はじれったくなって言葉をつづけた。
「おれたちの、肉体関係ってやつ」
言葉にするとずいぶん生々しい。侘助もようやく理解したらしく、表情を険しくした。
「なんでだよ。女ができたって関係なかっただろ。なんで今さら……」
「けじめをつけたいんだ。こういうの、惰性でつづけてるのってよくない気がする」
どういう理由かはわからないが、お互いの女性関係は報告し合うのが暗黙の了解になっていて、今の理一に恋人がいることは侘助も知っていた。だから大した説明もなく、話はあっさりと終わる。
「……あっそ」
侘助は完全な無表情になり、タバコをくわえて火をつけようとした。だがつかない。
「タバコ、逆」
理一の遠慮がちな指摘に眉を上げた侘助は、舌打ちしながら吸っていないタバコを灰皿に投げ捨てる。
「べつに、つき合ってたわけじゃないしな。好きなやつ優先でいいんじゃねえの」
そう吐き捨てて横を向いた顔を見て、理一はようやく自分の失敗を悟った。
あくまで遊びの延長ではじめた関係だから、照れくさい感情をあえて差し挟まないよう牽制し合っていたつもりだった。恋人の存在を明確にしておくのも、そのためだったかもしれない。
にもかかわらず、いつからか侘助は理一に特別な想いを寄せるようになっていた。身体に心が引きずられるように。
だからこんなにも、傷ついた表情をしているのだ。
そして、理一も同じだったと気づく。そうでなければ、こんなに胸が痛むはずはない。好きな相手ができたからといって、侘助を切ろうとは思うはずがない。恋人と侘助を天秤にかけた時点で気づくべきだった。
理一は仕方なく笑顔を作った。
「……おれもだ」
いつはじまったのかもわからない恋は、気づいた瞬間に終わった。
……はずだったのに。
理一は深い深いため息をつく。
たぶん、相手も同じことを考えているはずだ。表情を見ればわかる。
「……よぉ」
盆でも正月でも法事でもない。ただの連休だ。まさか、彼がいるとは思わない。
「……久しぶり」
「おう」
あのひそかな失恋からまだ三ヶ月足らず。これ以上の気まずさはなかなかないだろう。
聞けば、数日前から一時帰国していたらしい。自室に積んである機械やら本やらを取りにきたのだという。送れと頼んだところで母にどれがどれかわかるわけもないから仕方がないとはいえ、なぜ先に教えてくれないのかと家族を恨めしくも思った。
どこかぎこちない二人の空気を知ってか知らずか、屋敷の当主が豪快に笑っている。
「偶然帰省が重なるなんて、あんたたちも仲良しだねえ。実の兄弟にも負けないよ」
「……………」
成人式もとっくに終えて立派な大人だと思っていたのに、祖母の前では幼い子どもにもどってしまったようで、長身の孫二人は黙って肩をすくめた。
寝るときも部屋は相変わらず隣同士。襖一枚を隔てただけの距離に、かつては気にならなかった沈黙が苦しい。
理一は堪えきれなくなって襖越しに声をかけていた。
「入っていいか」
「勝手にしろ」
ぞんざいな返事に襖を開けると、敷きっぱなしの布団の上に座り込んでぶ厚い洋書を読んでいる侘助がいた。招き入れるでもなく、ただ上目遣いに一瞥をくれただけだった。
理一は少し迷ってから、後ろ手に閉めた襖に寄りかかって座った。なにを言うべきか迷っていると、先に黙っていられなくなったらしい相手が口を開く。
「女は」
「別れた」
本から目を離さなかった侘助がようやく顔を上げる。驚いたような、嘲っているような表情で。
「早いな。それもおまえのけじめか?」
「どっちかっていうと、向こうのけじめかな」
「ふられたってわけか」
黙ってうなずくと、侘助は声を上げて笑った。癇に障る引きつった笑い声だったが、理一は黙ってその嘲笑を受けた。
「なんだ、浮気でもしたか?」
理一は自分の脚を抱き寄せて、膝頭に頬を押しつける。
「……気持ちだけね。でも、バレてたんだろうな」
「は?」
大きく息を吸って吐く。この感覚は、あのときと同じ。終わりを告げたときと、同じ。
理一は顔を上げた。
「まだ、おまえが好きだったから」
「……はぁ?」
手が離れた洋書のページがパラパラとめくれ、あっという間に表紙まで閉じてしまう。だが侘助は本をどこまで読んだかなど気にしてはいなかった。大きく目を見開いて、呆然と理一を見つめている。
「今さらなに言って……」
「いろいろ考えたけど、そういうことなんだと思う」
右を向いても左を向いても男ばかり、という生活環境の中で、他のだれかに劣情を抱いたことはない。ということは、この気持ちは単なる性欲ではないのだ。それに気づいたとき、理一はかわいらしい恋人へ気持ちを向けることができなくなってしまった。彼女はなにも理由を告げずに去っていったが、浮気と詰られても反論はできなかっただろう。
「おれは……」
侘助がなにかを言いかける。
だがちょうどそのとき、階段を乱暴に踏みしめる足音が近づいてきて、二人は同時に廊下のほうを向いていた。
階段に近い侘助の部屋の襖が、勢いよく開けられる。
「理一侘助!」
洗濯物が入っているかごを抱えた理香は、ヒステリックに眉を吊り上げた。
「もうっ、家を出たっていうならパンツくらい自分でたたんでほしいわよね。どっちのかわかんないからあとは自分たちでやって!」
「……はい」
姉の剣幕に押され、理一は押しつけられたかごの前に正座して、侘助を力なく手招きする。来たときの荒々しさで下りていく足音を聞きながら、二人は黙って服の仕分けをはじめた。
下着や靴下を前にどんなシリアスな話をしろというのか。今だけは、タイミングの悪い姉が恨めしい。
侘助がふと手を止め「おまえの抜いてあと置いとけ」と言い置いて立ち上がった。高校のころと同じ展開で、結局二人ぶんの服をたたむことになる理一は文句を言いかける。
「ちょっと……」
「あそこにいる」
はっと顔を上げたときには、彼はもう廊下に消えていた。
侘助の部屋は二つある。
勉強机が置いてある二階のこの部屋。
そして、一階の廊下突き当たりの小さな納戸。家族と接触することを嫌がっていた幼い侘助が、よく隠れていた場所だった。やがてそこには彼の本やガラクタが持ち込まれ、秘密基地化していく。家族もたまに来る親戚も拒んで、侘助は自分の世界に閉じこもった。
寒くて静かで暗いその部屋が、幼い理一にはどこか怖かった。だから彼の誘いに乗ったのは、納戸への幼稚な恐怖を克服したいという思いもあったかもしれない。侘助という異端者への違和感を、なんとか消化したいと願ったように。
二人は思春期の秘密を共有することで、互いへの異物感と距離を埋めたはずだった。だが今理一が抱えている違和感は、それとは全く異質のもので……。
下着の一枚一枚まで折り目正しくたたんだ理一は、軽く頭を振って立ち上がった。
納戸を使うのは高校のとき以来だろうか。
「入るよ」
「おう」
理一が覗き込むと、侘助は床に寝転がって読書の続きをしていた。かつて彼を囲んでいた私物はすべて自室に引き上げられていて、記憶よりも広く感じる。
静かに戸を閉め、灯りを消した。侘助は黙って本を閉じる。
床に座り込もうとしたところに、暗がりから腕が伸びてきて引っぱられる。硬い板間に倒れ、二人は互いの肩口に顔をうずめた。
「理一」
甘さを含んだかすれ声が耳をくすぐる。
「会いたかった」
耳を疑った。侘助がそんなまっすぐな言葉を口にするのを、理一は生まれて初めて聞いた気がしていた。さすがに照れくさいのか、声は小さく、かすれがちで、はにかんだような笑みも混じっている。
「終わったって頭じゃわかってんのに、あきらめきれなくて、おまえのことばっかり考えてた……」
普段は決して素直に感情を出すことのない人間が、あふれる想いを口にし、しかもそれがすべてこの自分に向けられているという快感に、理一は酔いしれた。
「おれもだよ」
今まで何度身体を重ねたかわからない。かなり際どいこともやった。なのに、互いの気持ちを確かめ合うのはこれが初めてなのだ。ずっと想いつづけていた相手とのキスは恋人とのそれよりも心地よくて、二人は暫し口づけだけに夢中になった。それだけで熱くなっていく相手の身体が、狂おしいほどに愛おしい。
「好きだ」
この恋はまちがいなく本物だと思った。
……まちがいだった。
まちがいなくまちがいだった。
理一が早くも前言を撤回したくなったのは翌日の朝食どきで、あまりにも短い蜜月に自分で愕然としたほどだった。原因はもちろん侘助だ。
目の前には母と姉と祖母までいるというのに、隣の侘助は妙にふわふわとして、茶碗を持つ手も落ちつきがない。不審がる理香に思わず尋ねられてしまうほどに。
「あんた、なんかいいことあった?」
「……べつに、ねえよ」
顔に出やすいのだ、このバカは。
理一はため息をぐっとこらえて、味噌汁をすすった。
浮かれている侘助にも腹が立つけれど、いちばん忌々しいのは後先考えずに想いを打ち明けてしまった自分自身だった。
自ら終わりを告げたことと、しばらく離れていたのも相まって、つい盛り上がってしまった。だが、同じ家で寝起きして、家族といっしょに食事をする間柄だということはすっかり頭から抜けていた。
一度決別して、またこの実家で気まずく再会した時点で、なぜそこに気づかなかったのか。かといって「まちがいでした、なかったことに」とは言えない。
「ごちそうさま」
箸を置いた侘助が、めずらしい言葉を洩らして席を立つ。普段は仏頂面で、いただきますもごちそうさまも言わないのに。
「なにあれ。彼女でもできた?」
理香に尋ねられ、理一は内心冷や汗で素知らぬ顔を作った。
「さあ。そういう話はしないから」
ほんとうに、厄介なことになってしまった。まちがいでしたと言って済むなら、今すぐにでも撤回したい。だがそんな気持ちの切り替えが瞬時にできるはずもない。
幸か不幸か、侘助との時間はそう長くなかった。
「もう、帰るのか」
帰り支度をしている侘助の背中に、理一は遠慮がちに声をかける。
「明日、外せない講義があるんだ」
そう答えた声は物憂げだったが、どこか楽しそうでもあった。講義が楽しみなのではない。この状況に浮かれているのだ。
「遠距離恋愛か……いやになるぜ」
独り言のように呟きながら、理一をふり返る。
たしかに、これから二人は離ればなれになって、それぞれ学業の場へともどっていくのだ。次に会うのは盆か正月か。どちらにせよ、侘助しだいだろう。理一の側に、再会のタイミングの決定権はない。
「侘助」
この想いを否定したくはない。かといって侘助のように手放しで浸れるほど楽観的でもない。否が応でも現実というものが目に飛び込んでくる。
バッグをつかんで立ち上がった侘助が、あたりまえのように理一を抱き寄せる。その抱擁に応えて彼の肩にあごを乗せながら、無意味と知りつつ尋ねてみた。
「おれたち……なんなんだろう」
「恋人でいいじゃねえか」
あっさりと返された答えを、理一は素直に受け入れることができない。
どれほど背徳的で甘い秘密に浸った夜でも、明けてしまえば朝日の差し込む食卓で味噌汁をすするハメになる。この現実感とのギャップを、どう埋めたらいいのか。
「侘……」
「侘助ぇ、タクシー来たわよぉ」
階段下から理香の呼びかけが聞こえてきて、二人はゆっくりと身体を離す。
「じゃあな」
「……元気で」
部屋を出ていく彼を見送って、その場に座り込んだ。
別れの余韻に浸るというよりは、途方に暮れて。
真っ青な夏空の下、だれも見ていないのをいいことに肩を落とす。
「はあ……」
庭先にホースで水を撒きながら、理一は自分の頭にも水をかけたい気分になっていた。
夕方には理一も横須賀の寮にもどらなければならないが、それでもこの休みを反芻するには充分な時間が与えられてしまった。
「どうして勝手にこういうことするの!」
屋敷から理香の怒声が聞こえてくる。声のするほうを見やり、理一はまた息を吐き出した。ついさっき勃発した姉と母の言い争いも、鬱々とした気分に追い打ちをかけてくる。
大したことではない。母が持ってきた見合い話が気に入らないだけだ。あの憤慨っぷりを見ると、勝手に話を進められていたのかもしれない。結婚するのしないの、会うだけでも会ってみたら云々。いつもの内容だった。
姉の大学進学とともにはじまった母の攻勢は、この春に彼女が就職してからより激しくなった気がする。火の粉をかぶらないように、祖母の手伝いと称して庭に逃げ出したのだが、二人のやりとりは理一に否が応でも現実を思い出させた。
青空の下で冷静に考えれば考えるほど、ばかばかしくなってくる。
相手はあの侘助だ。帰省すれば家族として顔を合わせ、向かい合って洗濯物をたたむはめになる、同い年の叔父だ。結婚できるわけでもなく、跡継ぎを残せるはずもなく、家族に紹介どころかだれにも言えない。
同性愛だとか近親相姦だとか、そんな重いものを背負い込んでいる自覚は少しもなかったが、一歩引いて自分たちを見てみれば反社会的なことこの上ない。好んで道を外れたがる侘助なら却ってこの状況に盛り上がるかもしれないが、あいにく理一は堅実な公務員志望なのだ。ごく普通の相手とごく普通の恋をして、平凡な幸せが手に入ればそれでいいと思っていた。
なのに、どうしてあんなことを言ってしまったのか。せめて口にしなければ、逃げ道もあったのに。どんな危険思想も、思うだけなら罪には問われないのだから。
「……早まったなあ」
ほとばしる水が日の光を受けてきらきらと輝き、虹を作っている。しかし理一の目は虹を見ていなかった。顔がじわじわと熱くなってくるのは直射日光のせいではない。
水をかぶりたい衝動を抑えて小さな虹の下でため息をついたとき、屋敷の陰から麦わら帽子をかぶった祖母が顔を出した。
「水撒きが終わったら、こっちにおいで」
「うん、今行く」
笑顔で答えてから、けんか中の二人に見つからないようそろそろと水場へ向かい、水を止めて祖母のところに駆けもどった。
草むしりをする孫を眺めながら、栄は縁側に腰を下ろして麦茶を飲んでいる。麦わら帽子は作業のバトンタッチを示すように、理一の頭の上にあった。
「休みの最後に庭いじりとは残念だったねえ」
理一は軍手をはめなおして、祖母に笑い返す。
「いいんだよ、あっちのけんかに巻き込まれるよりずっと楽だから」
「おや、またやってるのかい。よく飽きないもんだ」
麦茶を一口飲んで、栄は眩しそうに青空を仰いだ。
「おまえは、どうするんだい」
「……まだそういうの、考えられなくて」
去年も同じことを言ったような気がする。いつまでこの手が通用するだろうか。
「見つけたら、連れておいで」
この言葉も同じ。
だが、理一にはこの慣習が今ひとつ納得できないでいた。引き抜いた草を脇へ投げ捨てながら、麦わら帽子の陰からちらりと祖母を見やる。
「……気に入らなかったら、追い返す? 直美ちゃんの彼氏みたいに」
「……………」
同世代の中でも早熟だった直美が、軟派な派手男を婚約者と称し連れてきたのは去年の夏だった。だが祖母は頑としてその男を受け入れようとせず、しまいには二人そろって屋敷から叩き出されてしまった。へそを曲げた直美はしばらく本家には近づいていない。
身近な従姉が野良猫のように追い出される光景は、もともと強かった祖母への畏敬をゆるぎないものにした。迂闊な相手は連れてこられないと、そのときの理一は肝に銘じたものだが。
今なら、直美に味方してしまうかもしれない。
「そうやって、陣内にふさわしい人間を品定めするの?」
いつになく攻撃的な孫の問いに、栄は暫し黙り込んで、庭を見つめていた。
「……そう言ってもいいかもね」
そう言って、栄は理一をまっすぐ見据えた。はっとするほどに強い視線だった。
「ほんとうに理一を幸せにしてくれる人か。理一が幸せにしてあげられる人か。二人で幸せに歩いていけるかどうか……年寄りの目で見定めるのさ。若いもんにとっちゃあ、余計なお世話だろうがね」
栄は麦茶を飲みながら、肩をすくめる。
「直美はどうやら男を見る目がないようだ。おまえはどうなんだろうね、理一?」
「さあ……自信は、ないけど……」
自信がないどころか、「見る目がない」ことに関しては確定しているようなものだ。直美のことはとやかく言えない。
愚かな自分への苛立ちを雑草にぶつけ、力任せに引き抜く。「それじゃあ根が残るよ」という祖母の言葉も素直に聞く気にはなれなかった。
祖母に見極めてもらうまでもなく、侘助は陣内家にとっても理一自身にとっても不適格だ。逆も然りで、理一は侘助にとってふさわしい相手ではない。
それでも、自分の選択を全否定はできないでいた。思いを伝え相手も応えた、それで充分だという考えも頭をよぎる。
「……結婚できない相手を好きになるのは悪いことかな?」
うつむいたまま唐突な問いを投げかける孫を、しかし栄は戸惑いの沈黙で待たせたりはしなかった。
「その先にあるのが幸せなら、周りがどうこう言うことじゃないね」
予想もしなかった返事に顔を上げると、彼女は眩しそうに目を細める。
「そう、侘助の……」
理一はぎょっとして祖母の顔を見つめた。なぜ今その名前が出てくるのか。
孫の動揺に気づいた様子もなく、栄は言葉をつづける。
「侘助の母親は、結婚できない相手と関わったばっかりに不幸になってしまった。ああいうのは、つらいねえ」
秘密の関係が知られていたわけではないとわかって、ほっと息を吐き出していた。
侘助の父は、理一の祖父で、栄の夫。
幼いころは単純に意味がわからなくて、少し大きくなって理解はしたけれど実感がわかなくて、今は半ば忘れかけている話だった。
そもそも理一には祖父の記憶がほとんどない。よくもこの女傑が浮気など許したものだと事情を知った今になって思うが、婿養子が酒に女に博打にと家の外に居場所を求めるのは世のならい、というのもわからなくはない。さしもの十六代目当主も責められなかったのだろうか。
その当主は、そんな過去もいい思い出と言わんばかりに目を細めている。
「じいさんも、侘助の母親も、侘助も、あんたの母さんも、みんなそれなりにつらかっただろうよ。もちろん、理一もね。あんた、侘助をずいぶんと目の敵にしてたもの」
茶目っ気たっぷりに目配せをする祖母に、理一は力なく笑い返すしかなかった。子どもじみたわだかまりはもう消えたが、今は逆の感情にふりまわされている、とはまさか言えない。
「おれ、前よりは侘助のこと好きだよ。侘助も、そうだと思う」
正しい意味で伝わらないのを承知で、理一はそっと秘密を告白した。
「そうかい。そいつはよかった」
屈託なく笑う祖母に一抹の罪悪感を覚えながら軍手の土を払い、地面を見つめたままで口を開く。
「でも、なんだかうまくいってない気がするんだ……」
勢いで恋情を打ち明けて、並みの恋人めいたやりとりまでして、侘助のほうは今ごろ、アメリカの空の下で浮かれているにちがいない。だがそのまま恋人気分でいてはいけないと気づいてしまった理一は、とても浮かれつづけることなどできない。
思いは同じなのに、気持ちはすれちがっている。それがひどくもどかしい。
「そんなもんさ、家族なんて」
はっと顔を上げると、にこやかな祖母の笑みがあった。
「ようやく兄弟らしくなってきたじゃないか。帰ってくるのもいっしょだし?」
冷やかすような口調でそう言い、栄はちょいちょいと手先で理一を招く。理一は麦わら帽子をとって立ち上がった。
「あの子はまだ自分の行く先が見えていないようだね。足下がふらついて、他人様に迷惑をかけないといいけれど……」
「だいじょうぶ。おれがついてるから」
本気で言ったつもりが、思いきり笑い飛ばされてしまった。
「なに言ってんだい。理一だってこれから自分の行く先を決めなきゃじゃないか。人のことなんかかまってる余裕があるのかい?」
「それは……」
半人前、と言い渡されたようなものだった。実際まだ卒業もしていないから、反論のしようもない。
「あんたにはあんたの、侘助には侘助の道があるんだ。仲良くするのはけっこうだが、お互いに惑わされちゃいけないよ」
「うん……」
理一はうつむき軍手を脱ぐ。
まさに、自分たちが陥ってしまったところだった。強すぎる思いに引きずられて、お互いに惑わされて。
だが、どうしたらこの状況から抜け出せるのだろう。
「……やっぱり、だれかを連れてくるのはもう少し先になりそうだな」
「楽しみにしてるよ。できれば、あたしの生きてるうちにしとくれ」
「ん……」
小さな祖母の隣に座った長身の孫は、冷たい麦茶を受け取った。
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