士/ショウイチ
切り取る瞬間
窓枠に置かれていたそのカメラを、ショウイチは何気なく手に取った。
奇妙な形のカメラをいじり回し、持ち主が使っている姿を思い出しながら、なんとかファインダーを覗きこむことに成功する。
左右反転の世界に写り込んでいるのは、あどけない青年の寝顔。
見たこともないそのカメラの、シャッターを切ったのは偶然に近かった。やたら大きな音に聞こえてぎくりとする。
だが、彼は目を覚まさなかった。
ショウイチは微笑んでレンズのキャップをもどし、再び窓枠にカメラを置いた。
* * * * *
士は自分で現像したその写真を、穴が空くほど見つめていた。
「あ! ついにちゃんと撮れたんですね!」
「……おい、夏みかん!」
いきなり手元から写真を奪われて、完全に上の空だったことに気づく。そんな士にかまわずうれしそうに写真を覗き込んだ夏海だったが、しかしすぐに眉を寄せる。
「これ……士くんじゃないですか」
「見てすぐわかれ」
「だって、こんな穏やかな顔だから同一人物には……それにしても、ナルシストが高じてついに自分撮りに目覚めたんですか?」
「だれがナルシストだ。俺のかっこよさは客観的に見て普遍なんだよ」
そういうのをナルシストっていうんです、と口をとがらす夏海から、写真を奪い取る。撮れるならセルフポートレートくらいは撮ってみたいが、結果は最初から見えていた。
「撮ったのは、俺じゃない」
現像するまで撮られたことさえ知らなかったのだ。写っているのは、自分では決して見られない自分の寝顔。夏海の言うとおり、他人かと思うほどに見慣れない。なにより、その写真はぶれてもぼけてもいなかった。やわらかな部屋の灯りに照らされた士の安らぎを、はっきりと切り取っていた。
夏海はテーブルの上に散らばっている写真と、士の手にあるその写真とを見比べる。
「士くん以外の人が撮ると、同じカメラでもこんなにきれいに撮れるんですね」
「うるさい」
だが士の態度に慣れている夏海は物怖じなどせず、それどころか重ねて訊いてくる。
「だれが撮ったんですか? ていうか、どこの家ですか?」
「おまえには関係ない!」
士は散らばる写真をまとめ、勢いよく立ち上がった。一気に夏海と目線の高さが逆転する。
「その世界の人間が、その世界で撮った。それだけだ」
「よく……わかりません」
夏海が再びしかめっつらになる。
士自身も、はっきりとわかってはいなかった。それでも、言わずにはいられなかった。
「だいたいわかった」
そして長い脚で部屋を横切り、外へ飛び出していった。
* * * * *
ドアの外にある郵便受けを覗いたときだ。
シャッターの音が聞こえた気がして、ふり返る。長身の青年が首に提げたカメラのファインダーから、顔を上げたところだった。
「おはよう」
「……久しぶりだな、士」
彼は、ときどきなんの前触れもなく現れる。本人もいつここへ来るのか、わかっていないようだった。だから、ショウイチもできるだけ驚かないように努めている。驚かず、拒まず、ただ彼の存在を受け入れることにしていた。
「朝メシ、食うか」
「いいな」
朝刊を手に招くと、彼はおとなしくついてくる。というより、まるで自分の家のように堂々と入ってくるのだった。
「どうして俺が非番の日を知ってるんだ」
「偶然だろ」
悪びれもせずそう言うのだから、信じるしかない。ショウイチは一人で食べるつもりだった二つの目玉焼きを切り分け、これも一人ぶんのトースト二枚を、一枚彼に与えた。コーヒーはさすがに新しいフィルターで淹れた。
客人はためらいもせず椅子を引いて、カメラを首から外しテーブルの上に置く。
士の横に鎮座しているショッキングピンクのカメラを見て、ショウイチは思わず目を細めていた。その表情を見逃さず、士はじろりと睨みつけてくる。
「あんた、俺のカメラに勝手に触ったよな」
「いや……ごめん」
口ごもるショウイチを見つめながら士はジャケットのポケットに手を突っ込み、一枚の写真を出す。見覚えはないが、それが自分の撮った写真だということはすぐにわかった。
「よく撮れてる」
「え……」
ぶっきらぼうにそう評した彼は、むっとした顔のままコーヒーを飲んでいる。
「俺はあんたをこんなふうには撮れない」
ポケットから今度は封筒が出てきた。渡されるままに中を見れば、何枚もの写真。どれもショウイチを撮ったもの、らしかった。というのは、まともに写っているものは一枚もなかったからだ。
「……下手の横好きってやつか」
「さあな」
半人前の食事をあっという間に食べ終わり、士はコーヒーのお代わりを要求する。面倒で自分のカップを差し出すと、遠慮もなく奪い取られた。
「世界が俺に撮られたがってないだけだ。俺がシャッターを切っても、世界は俺を拒む」
「なんだ、そりゃ……」
ショウイチはもう一度写真を見なおす。
輪郭という輪郭はぼやけ、笑顔は差し込む光で見えない。それだけならまだしも、壁に寄りかかっているはずの背中がこちらを向いている。たしかに、ショウイチが士を拒んでいるかのように見えなくもない。
うまい言葉も見つからず、結局ショウイチは写真を封筒にもどして、士に返す。
「難儀な趣味だな」
士は答えず、コーヒーを飲みながらショウイチの撮った写真を眺めていた。
* * * * *
シャッターを切るのは、その瞬間を切り取りたいと思うからだ。
だが士にはその力がない。カメラのあつかいも知らないショウイチにはあるのに。
羨ましいような、妬ましいような気持ちになって、士はショウイチの手を取ってその指を撫でていた。
「おい、士……」
戸惑う声が頭の上から降ってくる。士は仰向けに寝そべったまま、ショウイチを見上げた。
ソファに座っている彼のひざは今、士の枕だ。長い脚を肘掛けから突き出し、ゆらゆらと揺れる靴先を時たま眺めながら、士はなにもしない時間を過ごしていた。
「……黙ってろ」
長くて細い指は、士のそれとほとんど同じかたちをしていて、だから余計に差があるとは思えなくて、悔しさのままに軽く噛みつく。
驚いて手を引こうとするショウイチを上目遣いで睨みつけ、その指を口に含む。ひくついた指先の動きがどこか官能的に思えて、気分のまま舌先で舐った。
「なにしてんだ、おまえ……」
心底困惑した声は、どこかなだめるような口調で語りかけてくる。士の機嫌が悪いと思って懐柔しようとしているのだろう。たしかに、楽しいかと尋ねられたらそうだとは言えない。だが、子どものように懐柔されてやる気もない。
「口さびしいだけだ、気にするな」
「ああそうですか……」
ショウイチは背もたれにぐったりともたれかかり、天井を見上げる。すべての抵抗と努力を放棄したらしい。まばらにひげの生えたあごの線を見上げ、士は思う。
この瞬間こそ切り取れたらいいのに。
旅人とはいえ、行きたい世界へ自由に行けるわけではない。無数の世界を通り抜け、偶然を願い偶然を呪いながら、やっとここへと辿りつく。そしてこの世界が無傷で、彼が笑って迎え入れてくれることに安堵して……大声で歓喜を叫ぶ代わりに、シャッターを切る。今度こそ、写るのではないかと期待しながら。
そんな士の気持ちなど知りもしないだろう男が、天井を見つめたまま話しかけてきた。
「……士ぁ」
「なんだ」
顔が見えないから、どんな話題かもわからない。指から気が逸れて口を開いたところを、すばやく逃げられた。
彼は得意げに士を見下ろし、濡れた指を袖口で拭きながら言葉をつづける。
「おまえ、いつも態度でかくてえらそうだけど」
「……ケンカ売ってるのか」
「でも、寝顔はかわいいよな」
「……………」
虚を突かれて、士は呆然と相手を見上げていることしかできなかった。憎まれ口のひとつも出てこない。彼のやわらかい笑顔を見つめながら、ようやく言葉を絞り出したときには、ずいぶんと長い時間が経っているような気がした。
「……あたりまえだ。俺はどんなときも常に魅力を放ってるんだよ」
「やっぱり、かわいくない」
ショウイチは笑って士を覗き込み、完璧にセットされた髪を無情にもぐしゃぐしゃとかきまわした。
* * * * *
ひざの上に、穏やかな寝顔がある。
さっきまでヘアスタイルが崩れたとかなんとか騒いでいた士だが、ふてくされて寝たふりをしているうちに、ほんとうに眠ってしまったらしい。
黙っていれば年相応に見えるのに、とショウイチは苦笑混じりのため息をつく。
呼吸以外のすべての動きを止めた青年は、まるで写真のようで、見る者をわけもなく不安にさせる。ばかばかしいと思いながらも身をかがめ、かすかな呼気の洩れる唇に口づけた。
安堵と気まずさに苦笑しながら顔を上げたとき、テーブルの上に置いてあるカメラに目がとまった。だが手を伸ばしても届きそうにない。二度目は撮らせてもらえないらしい。
仕方なく、彼の前髪をかき上げてその顔を眺める。
切り取れないこの時間を、自分の記憶に焼きつけておくために。
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