ホームズ/ワトソン
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退屈な野良猫
部屋に入ると、愛犬がテーブルの上で腹を見せて横たわっていた。
「グラッドストーン!!」
あわてて駆け寄り、脈があることを確かめる。
彼をこんな姿にした犯人は、奇抜な推理方法を用いずとも直感でわかる。
横に置いてある本と、窓際にあるいくらかの実験用具や薬剤から、ジョン・ワトソンは同居人がうさんくさい眠り薬を調合していたことを知った。
マッドサイエンティストの実験体となった哀れな犬をそっと絨毯の上に横たえると、ワトソンは散らかった部屋をぐるりと見わたす。
「いるんだろう、ホームズ!!」
あちこちに積んであるがらくたの陰にはひそんでいないようだ。ワトソンはためらいもせず、彼の寝室のドアを足で開けた。
「ホームズ! きみは一度グラッドストーンに謝るべきだ……」
カーテンを閉め切った暗がりの中で、なにかがもそりと動く。住人以外には考えられないが、曲がりなりにも英国紳士たる者が床を這いずって移動するだろうか。
「ホームズ……」
床にうずくまる彼を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られながら、ワトソンは部屋を横切ってカーテンを開ける。床の上の生き物は今にも死にそうな弱々しい呻きを上げた。
くるりとふり返ってホームズを見下ろしたワトソンだが、次の瞬間に怒りの言葉を忘れてしまった。
「……なんだそれは。猫の尻尾が生える薬でも飲んだのか?」
「しっぽ?」
ホームズは四つん這いのまま、我が身をふり向く。いつもの薄汚れたガウンの裾から、毛むくじゃらの紐が出ている。ワトソンから見ると、ホームズに尻尾が生えたように見えるのだった。
「ああ、これか」
大きすぎるシャツの裾から覗いた指が、尻尾の先端をつまむ。
「変装用のベルトだ。そのへんにあったのが引っかかったんだな。しかし猫とは、なかなかの想像力だワトソンくん」
きっと頭の中が犬のことでいっぱいだったからだろう。単純な連想だ。
そうだ、グラッドストーンのことを今度こそきつく言っておかなければ……
「いいか、今度ぼくの犬を殺しかけたら……」
眉をつり上げるワトソンの前で、床に座り込んだホームズは手にした毛皮のベルトを振ってみせた。気まぐれな猫そのもののリズムで。
「ああワトソン、ぼくが猫だったらどんなにか幸せだろう。昼間は日なたで寝て過ごし、夜はロンドン中を駆け回って、どんな細い路地にひそむ悪人も見逃さないのに……」
宙を見つめる目は焦点が合っていない。
日が差し込む窓辺には、葉巻と注射器と薬瓶。
「きみはまた……」
ワトソンは舌打ちをして、宿無し同然の風体をした友人に歩み寄った。事件に関わっているときには天才的な能力を発揮するが、そうでないときにはペット以上に手間のかかる男だ。
助け起こそうと手を伸ばすと、ホームズは玩んでいたベルトをぽいっと放り投げ、ワトソンの腕をつかんだ。
「わ……っ!」
バランスを崩し、脇のベッドへ手をついてしまう。さらに足を払われてベッドの上にしりもちをついたところへ、ひざ立ちになったホームズの手が、ベルトのバックルに迷わず伸びてきた。
「おいっ、なにする……」
数秒前からは想像もつかない機敏さでワトソンのベルトを外したホームズは、上目遣いに友人を見てにやりと笑う。
「猫はミルクを欲するものだ」
最悪だ。ユーモアの欠片も感じられない。
「つまらない冗談を言っている場合じゃないぞ、ホームズ……ぅうっ!」
遠慮もなくズボンの前へ顔を突っ込まれ、押しのけようとつかんだ髪をそのまま握りしめてしまった。
もし彼が猫だったなら。
ホームズ本人が言っていたことを心の中でくり返す。これが猫なら、思いきり蹴飛ばしてすぐさま去勢手術をしてやったものを。
「ぁあ……っ」
巧みな指と舌に流されている自分を棚上げにして、ワトソンは片足で床を踏みならし毒づいた。
「まったく……しつけのなってない猫そのものだな!」
「じゃあ次は、三角の耳も用意しておこう」
気まぐれ野良猫は楽しげに舌を見せつけると、ゆっくりワトソンを舐め上げた。
白濁で汚れた口元を、ホームズはシャツの袖で拭う。そんな仕草までもが、顔を洗う猫に見えてくる。それが自分のイニシャル入りのシャツだとわかってはいたが、もう責める気力はなかった。
「ワトソン……きみの存在はモルヒネよりも効くね」
くすくすと笑いながらキスをしようと寄せてくる顔を、なんとか押しやった。
今やワトソンは友人のベッドに仰向けに転がされていて、その友人はといえば四肢でワトソンを押さえつけている。こうなると猫というより豹や虎に近い。
「……まだ昼間だぞ」
必死に非難の声を絞り出した。だが、鳥肌が立ちそうなほどの期待にホームズが気づいていないわけがない。
「ここまできたんだ、最後までつき合ってくれ」
らしくもない甘ったるい口調で、ホームズはワトソンの服の上から胸に手を当てる。
「きみはそのままでいい」
そう囁いた口に、自らの無骨な指を突っ込むさまを、ワトソンは呆然と見上げていた。唾液と精液が混じり合い、半透明の粘液が彼の指を伝う。
優秀な脳を曇らせることを最も恐れているはずの男が、忌まわしい本能に抗うことなく快楽を欲している姿は、見るに堪えないものだった。ワトソンがもし、彼の誠実なる友人であったならば。
だが現実にはこうして身体を重ねる浅ましい仲だ。名探偵らしからぬ痴態に、嫌悪どころかこの上もない劣情を覚えてしまう。
「は……っ」
なにもしていないのに、自らの口を指で犯しつづける彼の顔を見つめているだけで、息が荒くなる。ホームズは濁った目でちらりと見下ろした。
「だめだ……欲しがるのは、ぼくの役目だよ」
口から糸を引いたその手が、シャツの下へと移動する。彼が乗りかかってきて初めて気づいたことだが、彼はシャツの上にガウンを羽織っているだけだった。つまり、下着もズボンも身につけていなかった。
そのシャツは寝間着ではないと、何度言っただろう。しかし、サイズの合わないそのシャツを、ホームズは頓着もせず私物化している。グラッドストーンだって、せいぜいが靴の片方をくわえていくくらいだ。この忌々しい野良猫に比べたら、彼のほうがよっぽど礼儀をわきまえている。
「んぁ……」
半開きの唇から、白く光る唾液が伝い落ちた。その先を見送って、彼がシャツのボタンを掛けちがえていることに気づいた。きちんとしまっていない胸元は、引き締まった彼の身体を中途半端に隠している。それだけのことなのに目が離せない。全く見えないか、いっそ全裸ならばこれほど気にならないだろうに。
「ぅうう……っ」
濡れた指で自分の奥を広げほぐす作業に、彼は我を忘れたように熱中している。ワトソンのことなど忘れてしまったようにも見えて、ひどく焦れったい気持ちになった。
「……ホームズ!」
必死の呼びかけでようやくこちらを見た彼は、薄く笑った。
その挑発を無視できず、ガウンを引っぱる。ワトソンの上でよろめいたホームズは「あわてるな」と唇に指を当て、待ちきれないワトソン自身に後ろを押しつけた。
「ふ……ぅっ」
「ぁは……ん……」
二人は同時に押し殺した呻きを上げる。ホームズが慎重に腰を下ろしてくるのをただ待ってはいられずに、ワトソンはその腰をぐいと引き寄せた。
「……ッ!!」
背中を大きく反らしたホームズは、両手で……というよりは両袖で口を押さえる。さすがに、昼間から嬌声を上げることは憚られたのだろう。
重いガウンはとっくに肩からずり落ちていたが、掛けちがえているとはいえシャツはそう簡単に脱げるものではない。ワトソンはそのシャツをつかんで引き寄せ、その刺激に相手が呻くのもかまわずにボタンを外す。
彼の逞しい肉体がようやく昼の光に晒された。それでも彼は袖から腕を抜こうとしない。ワトソンの腹の上に両手を置き、あまり激しく突き上げられないよう押さえているのだ。しかし、大した効果があるとはワトソンには思えなかった。
「ホームズ、欲しがるのは、きみの役目じゃなかったのか……?」
言いながら腰を掴んで深く突き入れる。狙いどおりにホームズは甘い悲鳴を上げ、身をよじらせた。
「あああ……っ!!」
さっきまでの彼がふてぶてしい野良猫ならば、今の彼は発情期のそれだ。普段の警戒心と慎重さを忘れたかのように、やかましく鳴きわめく。
しかし冷静に相手を観察する余裕はすぐに失われた。
「だめだっ、ホームズ……」
よく晴れた昼間に、薄暗い部屋の中で交わっている後ろめたさだろうか。普段よりも感じやすい気がしてしまうのは。彼が自分から奉仕してくれているという現実に、ワトソンもホームズと同様に追い上げられていく。
終わりが近づくのも早い。それは受け入れている彼も感じていたらしく、直前には焦ったように手を振った。
「待ってくれ、まだ……!!」
制止されてもどうにかなるものではない。ワトソンはホームズの最奥へと欲望を注ぎ込み、果てた。
「ああ、ワトソン……」
ホームズが名残惜しそうに身体を離し、未だ熱を抱える自分自身に指を絡める。申し訳ないとは思うが、しかしホームズに非がないわけではない。ワトソンは自分にあれこれ弁解をしながら、ホームズを手伝ってやろうと手を伸ばした。
不意に、あわただしいノックがよどんだ空気を破る。
「クラーキーだ」
ホームズの言葉に、ワトソンは跳ね起きた。リビングもここも鍵はかけていない。
相手を蹴り落とす勢いでベッドから飛び降り、あわてて着衣を直す。だがまだ終わっていないホームズのほうは、荒い息でベッドにうずくまっていた。それでなくても服などまともに着ていない状態だ、すぐに出ていけるわけがない。
「くそっ、さっさと着替えろ! その前に顔を洗って口をゆすぐんだぞ! 早く!!」
小声で言いつけると、寝室のドアをきっちり閉め、タイを結びながらリビングを大股に横切る。
努力の甲斐あって、来訪者は端正な笑顔に迎えられることになった。
目を覚ましたグラッドストーンを撫でながら、ワトソンは必死に時間を稼ごうと愛想を振りまいていた。名探偵は不摂生が祟って体調がよくないようだ、しかし事件とあらば高熱があっても駆けつけるだろう……そんな中身のないことを、まくし立てつづけるのも骨が折れるのだ。
使いの警官が寝室のほうをそわそわと窺いはじめたころ、みづくろいを済ませた猫がすました顔で現れた。
「例の盗難事件かね? ぼくの力は必要ないと言っていた?」
「ええ……その通りです。やはりホームズさんなしでは解決できないと……」
「そうか。それは助けないわけにはいかないな」
彼はすばやくコートを掴み、帽子を頭に乗せる。その目にはもう怠惰の影もない。
自堕落な猫ではなく、獲物を追いつめる俊敏な猟犬だ。
ワトソンはかわいそうなグラッドストーンと顔を見合わせてから、自分も銃と杖を手に彼のあとを追った。
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