ホームズ/ワトソン

2010_SherlockHolmes,[R18]

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夜想曲

どうやら同居人が帰ってきたようだ。
シャーロック・ホームズは窓際でヴァイオリンを抱えたまま思った。
日も暮れてからの急な往診は、ことのほか手間取ったらしい。いつもより引きずっている足と強く床を突く杖は、彼が心身共にくたびれきっていることを教えてくれた。しかし愛犬が腹を空かしているのを見ると、再び部屋を出てグラッドストーンの食事を乞いに下りていく。
ドアの向こうの光景を思い浮かべながら、彼の犬に餌をやり忘れたホームズは指先で弦を弾いた。
べつに特別なことではない。調度の位置から落ちている紙切れのかたちまで知っている部屋で、何年も寝食を共にしてきた相手がどう動くか、ほんとうは物音を聞くまでもないのだ。
一本、二本。指は勝手に弦をなぞる。
弾いて、押さえて、また鳴らして。
煙草を吸いたい気分だが、立ち上がってパイプを取りにいくのが億劫だった。煙草を吸う代わりに、ヴァイオリンを鳴らす。
しだいに意識が楽器から離れていった。自分だけにわかる規則性で鳴る弦の音を背景に、頭の中ではさまざまな事件や知識や経験が渦を巻いている。今日の新聞、三行広告、つまらない依頼の手紙、しかし明晩訪ねてくるという客は少し気になる……ホームズは宙を見つめながら、思考の羊水にたゆたっていた。

ふっと我に返ったのは、隣の部屋でがたりと椅子から立ち上がる音が聞こえたためだった。
瞑想に入り込みすぎて、ワトソンが机に向かって書き物をしていたことには気づかなかった。そろそろこのヴァイオリンに辟易しているころだろう。今すぐにでも部屋に怒鳴り込んできてもおかしくない。
横に置いていた弓を持ち、ヴァイオリンを持ちかえる。
なにを弾くか迷うことはない。ワトソンというキーワードから連想したメロディを、弓と弦が教えてくれるから。
流れ出したのは彼の好きな曲。
音楽の好みはその人間の生まれや育ちを如実に教えてくれる。彼の場合はそう、保守的で裕福な中流家庭が育んだロマンティシズム……ショパン然り、シューベルト然り。人がただ自ら選び取った嗜好と信じる音楽でさえ、こんなにも多くの情報を持っている。
しかしワトソンは納得しないだろう。なんといってもロマンチストだから。先週のコンサートでうっとりと聞き惚れていた横顔が思い出された。
その彼は今、部屋の真ん中で足を止めている。きっと苦笑して短い髪をかき上げ、机の前にもどるのだろう。
いや、足音は止まったままだ。これは……客用の長椅子に腰を下ろしたと見ていい。彼はクッションに身をあずけ、ゆっくりと目を閉じる。口ひげの下の唇が微笑みを浮かべるのを思い描き、ホームズも知らず微笑んでいた。
ひどく疲れている身体が横になり、リラックスして目を閉じたら、起きていることは難しい。そう、眠ればいい。寝かしつけてあげよう。
ホームズはただワトソンのためだけにヴァイオリンを弾く。
探偵の仕事はそれ自体が報酬なのであり、賞賛など必要ない。だが、音楽にはやはり聴衆が必要なのだ。この音に身をゆだねてくれる相手が。

最後の一音を弾き終えて、ホームズは静かに息を吐き出す。
立ち上がってヴァイオリンを置き、そっとドアを開けた。
果たして名探偵の予想どおり、ワトソンは微笑んだままソファで眠っていた。
足音を立てないように歩み寄り、寝顔に影が落ちないように注意して覗き込む。従軍経験のせいで眠りが浅い彼は、些細なことでも目を覚ますときがあるから。
ホームズはソファの肘掛けに尻を乗せて、友人の寝顔をじっくりと眺めた。
長い金色の睫毛、通った鼻筋、男らしい口ひげ、薄く開いた唇……だれから見ても魅力的な顔であることは否定しようがない。
女性の依頼人はまず探偵ではなくこの医者に目を奪われる。彼も当然まんざらではない様子だし、しゃれた服装は自分の容姿に対する自信の表れだろう。
だが、ホームズにとっては顔の美醜などさして重要ではなかった。毎日つき合わせている顔にいちいち見惚れてもいられない。いったい、そんな夫婦や恋人たちがいるものだろうか。たとえばこの男前の医者が妻を娶ったとしたら、その妻は彼を毎日褒め称えるのだろうか……
どうにもつまらない想像になってきた、とホームズは身じろぎした。ワトソンが結婚したら、この部屋から出ていかなければならない。いや、自分が追い出されるのかもしれないが、どっちにしても楽しくないことはたしかだ。
愚にもつかない妄想を、蝿でも払うような仕草で頭の上から追い払い、再び彼に目を落とす。
白い首、緩められた襟元から覗く鎖骨、見た目よりも硬くて厚い胸、どんな荒事でもやってのける逞しい腕、剣もペンも握ってなおかつどちらも巧みに使いこなす指……目新しいものはなにひとつ見あたらない。袖口に小さなインクの染みがついているが、それは彼がインク壺からペンを引き上げるときの癖によるものでめずらしくはない。意識的に、無意識的に、友人に異常がないことを確かめていく。あるいは些細でも異常を見つけたいのかもしれない。それを指摘された彼の反応を見たいのだ。
ホームズは自分でも気づかないままに、口元を緩めながらワトソンを見つめていた。

どれほどそうしていただろうか。
窓の下で酔っぱらいがつまずいたかなにかして悪態をついたのが聞こえ、はっと身を起こす。
反射的に窓のほうを見やり、それから再びワトソンに視線をもどした。
かたちのいい眉がわずかに寄せられる。睫毛のあいだから、青みがかった灰色の瞳が覗いた。
「……ホームズ?」
この状況をどう取り繕おうか半秒ほど逡巡し、結局にこりと笑ってみせるだけにした。余計な弁明はときに事態をこじらせるものだ。
「風邪をひくよ、ワトソンくん」
幸い、彼はまだ完全に覚醒していないらしい。クッションを抱え、ぼんやりと天井を見上げる。
「ああ……寝てしまったのか……」
かすれた声で呟いたワトソンは、眠そうな目をホームズに向けて、かすかな笑みを浮かべた。
「きみのヴァイオリン……夢の中でもずっと聞いていた」
そのさまに、胸の奥がざわついた。
客観的な美醜などたしかにどうでもよいのだけれど、この表情には敵わない。ただ顔の筋肉が弛緩しているというだけではないのだ。心からの信頼と友情と、そして他のだれとも交わさない、馴れ合った安心感。
ホームズが身をかがめ、その唇を重ねても、彼はためらうことなく受け入れる。
離れがたくてそのまま舌を差し入れた。彼がブランデーを飲んでいたことは、部屋のドアを開けたときから気づいていたが、その味が意外に残っている。椅子から立つ直前にあおったにちがいない。
「ん、ふ……っ」
ワトソンが鼻にかかった吐息を洩らし、ホームズの背に腕をまわしてくる。
相手の唇を舐めたホームズは、そのシャツのボタンを外しながら尋ねてみた。念のため、というやつだ。
「明日の……予定は?」
「急病人が入らなければ」
「ぼくもだ」
あとは言葉などいらない。ホームズはソファに寝そべるワトソンの上に乗りかかり、その唇を存分に吸った。

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