ホームズ/ワトソン
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格闘家たち
「戦場ではスタイルなんか気にしていられない。敵がルールを守ってくれるなんて思わないことだ」
ワトソンは煙草を口から離して、きっぱりとそう言った。
虎皮のラグに寝そべってパイプをくわえていたホームズが、「はっ」と笑う。
「それでもスタイルを守り通すのが英国紳士の矜持というやつじゃないのか」
リビングでくつろぐ二人は、危機が迫ったときの戦い方について話し合っていたところだったが、その意見はいつも平行線だった。
ホームズはあごを上げ、目の前を行ったり来たりしている友人を見つめる。
「たとえば今、きみがぼくに殺意を覚えたとして……」
「よくあることだ」
「……まあ、万が一そうなったとして、真上からつかみかかってくる。体重を乗せてだ。きみはぼくを完全に抑え込めると思うかもしれないが、ぼくは……」
「実演してみせようか?」
言うなりワトソンは煙草を投げ捨てた。
虎の頭を枕代わりにしていたホームズが起き上がるよりも先に、彼はその腹の上に馬乗りになって両手で肩をラグに縫い止め、友人を見下ろしていた。
「どうだ? 真上から体重をかけて押さえつけたぞ」
「きみは両手がふさがっている。一方ぼくの手はフリーだ」
そう言って伸びてくるホームズの手を、ワトソンはすばやくつかむ。勝ち誇った笑みを浮かべ、彼はホームズの顔を覗き込んだ。
「悪いが、握力は私のほうが上だ。それに手は使えなくても頭突きはできる」
ホームズも愉快そうに口角を上げる。
「じゃあぼくは鼻に噛みつくよ」
「それはスマートじゃないな」
「手は使えなくてもできることはあるってことさ」
その言葉とともに、ワトソンの背をホームズのひざが軽く小突いた。
「これが渾身の蹴りだったら、きみは前のめりになってバランスを崩す。ぼくはその隙をついてきみを投げ飛ばす。ぼくはスマートに立ち上がって、這いつくばるきみに『降参したまえ』と言うんだ」
未だ手首を捉えられたままのホームズは、勝利の笑みを浮かべた。
ワトソンは目を細めてゆっくりと友人の手を解放したが、ふっと意地悪く微笑むとホームズの脇腹をつかむ。
「わっ、ワトソ……」
最後まで言えなかったのは、ワトソンが無防備な腹をくすぐりにかかったからだった。腰の上に乗られていて逃げることもできない。ホームズはじたばたと身をよじらせて笑う。
「はっ、あははははっ、やめ、やめろワトソン……」
「最終的には、実戦経験がものをいうんだ」
自分も楽しげな笑い声を上げ、ワトソンは躍起になってホームズを責め立てた。
やがてホームズの呼吸が喘息のように荒くなってきてからようやく、少しだけ攻撃の手をゆるめる。すると、ホームズはワトソンの背中を思いきり蹴り上げ……そう、自身で解説したとおりに……よろめいた彼の肩をつかんで、瞬く間に身体の位置を逆転させ、敷物に押しつけた。
あっさりと形勢逆転されたワトソンは、呆然とホームズを見上げる。
「ぼくの勝ちだな、ワトソン」
「……………」
ワトソンが言葉に詰まり、部屋に静寂が訪れたとき、こつりとドアを叩く音が聞こえた。
つづいてわざとらしい咳払い。
二人は同時にドアのほうを見る。
「……よろしいでしょうか、紳士方?」
心底苦り切った顔をしたハドソン夫人が、二人を見下ろしていた。
ぽかんと口を開けていた二人のうち、先に我に返ったのはワトソンで、下から乱暴にホームズの肩を押し上げる。
「さっさとどけ、ホームズ」
「ああ……すまない」
気まずそうな表情で起き上がるワトソンとは対照的に、ホームズはごろんと毛皮の上に寝転がって、虎の頭に腕を置いた。
「なんだいハドソンさん。用事があるなら早く言ってくれればいいのに」
「クラーク巡査がいらっしゃってますよ……と先ほどから何度も申し上げているのですけれど」
女主人の後ろから、気まずそうな顔をした警官が覗き込んでいる。
階下から、踊り場から、ドアの前で、何度も声をかけたが返事がなく、そしてついにドアを開けた彼らが見たのは、大声で笑いながら取っ組み合いをしている二人の紳士だった。
顔なじみの巡査の姿を認めると、ホームズは陽気な声を上げる。
「やあクラーキー!」
「お取り込み中のところ、申し訳ありません……」
彼の弱りきった表情を見て、ワトソンがネクタイを直しながら咳払いをした。
「いや、かまわないよ。ちょっと彼に格闘技を習ってたんだ」
「そう、日本式のね」
にやにやと笑うホームズはまだ起き上がる様子がない。
「ホームズ! クラーキーはきみに用があるんだぞ」
ホームズが不承不承ながらも身を起こして片腕を上げれば、ワトソンがその手をつかんで引っぱり上げた。それから皺が寄って曲がっている襟を直してやっている。言葉もない自然な流れに、部外者はコメントを差し挟むこともできない。
パイプを拾い上げたホームズは、ちらりと巡査を見まわす。
「例の男娼殺しかい?」
「まあ……」
善良なハドソン夫人が息を詰まらせて胸を押さえたのは、恐ろしい犯罪よりも男娼という罰当たりな単語のせいだろう。もちろん罰当たりな事件に慣れっこになっているホームズもワトソンも、今さら表情など変えない。
「はい、ホームズさんの予想どおり……次の被害者が出ました」
「ぼくの意見を無視するからだ」
そう呟きながらもホームズはすでにコートをつかんで袖を通している。
「レストレード警部を待たせすぎてはいけない。そう、下に馬車で来てるんだろう? すぐ出かけようワトソン」
コートのポケットにパイプを突っ込み、帽子を頭の上に乗せて。動きはじめた彼は止まらない。そのまま開いているドアから出ていこうとする相棒の腕を、ワトソンはあわててつかんだ。
「ホームズ、銃を……」
「きみが持ってるだろ?」
「そういうことじゃない」
「きみが強いのはさっき教えてもらったからね」
「いや、だからホームズ……」
ワトソンの腕を振りほどいて廊下へ飛び出していったホームズを、同じようにコートをつかんだワトソンが追いかけていく。そして、階段の踊り場から怒鳴った。
「なにしてるんだクラーキー、置いていくぞ!」
「……………」
彼らよりずっと紳士的な巡査は、女主人に同情と共感を込めた敬礼をしてから、あわてて階段を駆け下りていった。
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