イブキとあきら
一 【癒えぬ傷跡】
一番上の兄、現関西支部事務局長は、鬼以外の立場で猛士として生きる道を選んだ。
二番目の兄、先代の威吹鬼は、現役時代に魔化魍と戦って死んだ。
そして三男のぼくが「威吹鬼」を、宗家を継いだ。
あきらはどうなんだろう。お父さんは闇鬼(あんき)。お母さんは榊鬼(さかき)。どっちを継ぐつもりだったんだろうか。そもそも、鬼になるつもりはあったんだろうか。
「あきらが鬼になったら、なんて名前になるんだろうねえ」
笑顔でそんなことを言いながら、答えは半分くらい予想していた。
「名前なんて、どうでもいいです」
ぼくは不安で怖くて悲しくて、声を出して笑った。
なじみの「風神」を手放して、「竜巻」に乗りかえた。
なんのことかって、バイクの話だ。今まで使っていたのは二人乗りができないタイプだったから、吉野が新しいバイクを送ってきた。風神はスリムな車体が気に入ってたんだけど、竜巻もこれはこれでかっこよくて、乗り心地も悪くない。
車も勧められたけど、やっぱりバイクのほうが好きだ。風使いだからってわけじゃないにしても、走りながら風を感じられるのが性に合ってるんだと思う。
というわけで、あきらの最初の修行はバイクの安全な乗り方から。もちろん免許が取れる年齢じゃない。危険も多いタンデムで事故を起こさない、それが第一歩だった。師弟がいっしょに移動できるようになったら、ようやく本格的な修行のはじまりだ。
弟子としては、きっと優秀なほうなんだと思う。鬼だった両親といっしょに山歩きをしていたから、猛士の知識もオリエンテーリングの経験もゼロじゃない。一人になってから二ヶ月くらい吉野の寄宿舎にいて、歩の集団研修にも参加していた。
そうはいっても、鬼としては芽が出る前の、種の状態。もし両親が生きていたときから鬼になるつもりだったとしても、そのための修行はなにもしていなかった。ただの少女の身体を、一から鍛えるのはたいへんだ。
いちおうマニュアルはある。でも小さいころから父や兄の鍛錬につきあうのがあたりまえだったぼくには、実際の加減がよくわからない。その上、本人が限界以上までがんばってしまうのがまた厄介だった。むりな筋トレのせいで全身筋肉痛になってしまったあきらを、知り合いのマッサージ師のところに担ぎ込んだこともある。
あきらをあせらせている原因のひとつが、弟子としては先輩の戸田山さんだ。去年ザンキさんのところに入ったあの元おまわりさんは、基礎体力が人並み以上だそうで、ザンキさんのほうが音を上げることもあるそうだからすごい。
斬鬼の元で修行期間最短記録が塗りかえられるか、威吹鬼の元から十数年ぶりの女鬼が出るか。関東支部のみんながつい盛り上がってしまうのもわからなくはないけど……。
ある日、いつもどおりの現場で。
「早い人は何年くらいで鬼になるんでしょうか」
晩ごはんのレトルトカレーを食べているときに、そんなことを訊かれた。
それも「普通は」とか「私は」じゃない。「早い人は」だ。ぼくはまた怖くなって、笑った。
「早くて二年だね。でも個人差がすごくあるんだ。あきらの場合は、三年から四年ってとこかなあ」
「三年……」
三年後のぼくは、二十二歳。すごく変わっているような、ほとんど変わらないような。ちょっと想像がつかない。ヒビキさんみたいにかっこよくなれてるかなあ、とか考えていたら、また怖い質問がきた。
「努力しだいでもっと早くなれますか?」
鬼になるには、身体を鍛えるだけじゃ不充分だ。素質や気質も、もちろん大きい。修行をはじめた年齢だって無関係じゃない。
でもいちばん鍛えなきゃならないのは、精神。心を身体以上に鍛えて鍛えて、そして人から鬼になる。近道も裏道もない、鬼への道だ。師匠が弟子に教えるのは、心の鍛え方と言ってもいい。
そう、ぼくもあきらに教えなくちゃならないことがたくさんある。
「あきらはさ、どうして鬼になりたいの」
食べ終わったカレーの皿を脇によけて、顔を覗きこんだ。一瞬の間のあと、あきらはうつむいて答える。
「……魔化魍を倒して、人を助けたいからです」
吉野の研修用テキストに書いてあるとおりで、また笑ってしまった。今度は苦笑い。
同じことをたとえばヒビキさんが言ったとしたら、それはぜんぜんちがって聞こえただろう。でもあきらのそれは、優等生の答えだった。自分の気持ちは隠して、教科書に書いてあることをそのまま読む。学校ならそれでいいかもしれないけど、残念ながらぼくはあまり学校に行けないまま大人になってしまった。だから、ぼくにはその答えも無効。
あきらは人を助けたいんじゃなくて、魔化魍を倒したいんだ。いくらぼくでもそれくらいはわかる。
「イブキさんは、どうして鬼になったんですか」
じゃあおまえはどうなんだ、って口調だった。
「それがぼくのできることだからだよ」
その答えは気に入らなかったらしい。いつもの、けんか腰の視線が突き刺さる。
「宗家だからですか」
「半々かな。うーん、あらためて説明するのは難しいね。そうだ、あきらのお父さんとお母さんは……」
あきらはぼくの言葉を止めるみたいに、もうひと睨みして黙り込み、カレーを黙々と食べつづけた。
両親の話はまだダメか……。
師匠としてはもっとなにかいいことを言ってあげるべきなのかもしれないけど、そのときはなにも浮かばなかった。
いや、浮かばなかったんじゃない。いろんな人から聞いたたくさんの言葉が頭をよぎった。でも、今のあきらにそれが正しく伝わるか自信がなかった。
ぼくは鬼になるために生まれてきたんだと思う。
でも、「威吹鬼」になるために生まれたわけじゃなかった。ぼくがもらう名前は、ほんとうなら「宗家の威吹鬼」以外のはずだった。
「伊織が鬼になったら、なんて名前になるんだろうねえ」
まだ若かった父が、幼いぼくをひざの上に乗せて言ったこと。
あのときぼくは、なんて言ったんだっけ……?
ぼくとあきらは同じ間取りの部屋に住んでいる。十畳一間に、台所とお風呂とトイレは別。都心の一人暮らしとしてはかなり豪華なほうだと、ダンキさんが口をとがらせて言っていた。
でも、見た目の広さはぜんぜんちがう。あきらの部屋にはなにもない。
引っ越してきたばかりだし、仕事のときに使う道具はほとんどぼくの部屋に置いているからというのもあるけど……。
たとえばぼくの部屋には、バイクや音楽やファッションの雑誌が積んである。トランペットやトロンボーンもある。CDやレコードもそれなりに多いし、それを聴くためのオーディオもある。インターネット用のノートパソコンだってある。
そういう、なにかを楽しめるものが見あたらないのだ。最低限の生活用品だけ。服も少ないし、小さな本棚にも学校の教科書や参考書しか入っていない。
「テレビもラジオもコンポもないんですよ!」
と言ったら、ヒビキさんが無邪気に聞いてきた。
「コンポってなに?」
「……今、ヒビキさんの後ろで音を発しているものです」
「えっ」
たちばなの奥の間で、ぼくとヒビキさんは世間話をしていた。
ぼくはオフ、あきらは学校だから、ちょっと遊びに来たついで。ほんとうは香須実さんがいればいいなあ……と思ってたんだけど、残念ながらおつかい中だった。でもヒビキさんに相手をしてもらえるのもすごくうれしいんだ。いや、仕方なくとかじゃなくて。
「ラジカセっていうんじゃないの?」
ヒビキさんはラジオのクラシック番組を流しているその機械をちらっと見てから、お茶をすする。
「……ラジカセでもなんでもいいんですけど、音の出るものがないんですよ。あ、ポータブルの音楽プレイヤーは持ってたかな」
「ポータブルね、うんうん」
きっとなにかわかってないんだろうとは思ったけど、今はどうでもいいので話を進めることにした。
「ヘッドホンで同じ曲リピートしてるだけなんて、おもしろくないじゃないですか」
古い型だしパソコンもないから、新曲をダウンロードすることもできないはずだ。
「じゃあさ、そのポータブルを聞くヒマがないようにしちゃえばいいんじゃない?」
「ええと、それは……」
「だからさあ、もっといろんなとこに連れていったりさ。あ、修行以外でな。いっしょにいる時間をもうちょっと長くすればいいんだよ」
「そうですねえ……」
ヒビキさんはにこっと笑う。
「ま、あせらないでじっくりやればいいさ。時間はたっぷりあるんだ」
そんなに中身のある話はしてないはずなのに、ヒビキさんはこの笑顔だけでぼくを安心させてくれる。うん、あせらないでじっくりやろう、という気分になる。
「そうですよねえ」
「そうそう」
ぼくたちはずずっとお茶をすすって、ラジオにぼんやりと耳をかたむけた。
あきらの修行をはじめて二ヶ月が経った。
中学校も春休みだったから、かなり速いペースで訓練メニューも進んだ。基礎トレーニングは順調、最初の昇段試験もあっさりクリア。出来のいい弟子だとあちこちで褒められて、自分のことでもないのにうれしい。
うれしいと同時に、このまま進んでいっていいんだろうか、っていう不安もずっと引きずっていた。うまく隠されてはいるけど、技に心が追いついていってないのが感じられるから。
吉野のマニュアルは身体的、技術的な部分までしかない。精神面は師匠の鬼に一任されている。これは師匠にとっても修行だなあ……と思いながら、ぼくはそのあたりになかなか踏み込めないでいた。
「はい、今月のシフトね」
現場の帰りにたちばなへ寄ったら、香須実さんが来月のシフト表をくれた。
「ありがとうございます」
今、ぼくのシフトはだいぶゆるくなっている。季節的なものもあるけど、弟子をとったばかりだから危険な現場をはずしてもらった結果だ。
「それと、献立」
「はい、ありがとうございます」
「こっちはあきらちゃんね」
「……はい」
毎月、栄養士さんから送られてくる「鬼の献立表(通称おにこん)」は、食生活が偏らないようにという猛士のありがたい親心。年齢や性別に合わせて作られているから、ぼくとあきらの献立は微妙にちがう。
献立といっても、学校の給食みたいに毎日三食きっちり書いてあるわけじゃなくて(作るのは自分たちだし)、こういうものをこんなバランスで食べてくださいねっていう指導みたいなものだ。身体が資本でしかも不規則な生活のぼくたち現場の人間に、食事はなによりも大事なものだから、どこの支部でもやっている。言うまでもないことだけど、猛士はいろんな職業の人がいろんなかたちで支えてくれていて、これも「歩」の立派な仕事なのだ。
「あきらちゃん、ちゃんと食べてる?」
「はい」
香須実さんの問いにも、あきらの返事は短かった。
日菜佳さんのテンションには、引きながらもときどき笑ったりするけど、基本的には完全無表情だ。ずっといっしょにいても笑顔なんてめったに見られない。
「献立にも書いてあるけど、まず鉄分ね。貧血になったらたいへんだからね」
「気をつけてます」
「なら、いいけど……」
盛り上がらない会話に助け船を出そうと口を開いたら、横から声をかけられた。
「おいイブキ。メシ、別々なのか」
シフト表を眺めていたヒビキさんが、ふと思いついたように訊いてきたのだ。ぼくは香須実さんとあきらのほうを気にしながら、ヒビキさんに向きなおった。
「あ、はい。あきらは一人で食べたいって……学校もはじまったし、なかなか食事の時間が合わない……」
「はあ、なにそれ?」
いきなりの大声に、ぼくも香須実さんもあきらもびくっと背筋を伸ばす。
「おいあきら!」
「はい!」
つられて大きな声で返事をしてしまったあきらの肩を、ヒビキさんはテーブル越しにがしっとつかむ。そして、なんとお説教をはじめた。
「あのね、きみはイブキくんの弟子なのよ? 師弟の一歩は絆を深めるところから! 弟子は尊敬する師匠のために食事を作り、師匠はそんな弟子の気持ちに感じ入る……そこに師弟愛ってのが生まれるんだよ!」
弟子をとったことのない人が、師弟愛について熱く語っている……。
思わず呆然と眺めてしまってから、我に返ってあいだに入った。
「あ、あの、ヒビキさん、ごはんなら自分で作れますから……」
「じゃあおまえが作ってあげなさいよ、あきらは学校もあって忙しいんだから! 師匠がやらないでだれがやるの!」
「えー?」
ヒビキさん、言ってることがめちゃくちゃです。
同じことを思ったのか香須実さんが口を出そうとしたけど、ヒビキさんの迫力のお説教は止まらない。
「とにかく! 今日からいっしょにごはん食べなさい! それも鬼の修行のうちです! わかったわね?」
「は、はい」
「はい……」
わけのわからない剣幕に押されて、ぼくたちは素直にうなずいた。
たちばなを出てから、二人で顔を見合わせる。
「あのさ、今日はぼくが作るから、うちにおいでよ」
「……わかりました」
ヒビキさんと約束したことは守らなきゃならないみたいだ。ごていねいに、両手で二人同時に「指切りげんまん」させられてしまったから。
「買い物行かなきゃね。なに食べたい?」
「なんでもいいです」
「じゃあ、スーパー行ってから考えようか」
といってもうちの近所の店はどこもちょっと高めだから……たちばなに寄ったときには、ヒビキさんオススメのスーパーに行くことにしている。
どうせなら最近食べてないものがいい。カゴを持ちながら、入ってすぐの野菜に目がいった。もう春だけど、最近少しだけ寒さが戻ってきたから、あったかいものが食べたい。でもさすがに鍋って季節じゃないし……。
ポケットから、さっきもらった「おにこん」を出して広げてみた。
「うーん……シチューなんてどうかな?」
「はい」
野菜も肉もたくさんで、しかも一人じゃ作る機会も少ない。うん、なかなかいいんじゃないかな。
「ビーフシチューとクリームシチュー、どっちがいい?」
「……クリームシチュー」
うわ、あきらはクリームシチューが好きなんだ!
たったそれだけのことを本人の口から聞けたのが、なぜかすごくうれしくて、自分の足取りが軽くなるのを感じながら止められなかった。
「じゃあまず、にんじんだよね。あとはブロッコリー、じゃがいも、なす……」
「なす入れるんですか?」
「え、変かな」
「……なんとなく」
「あきらは、なに入れる?」
「タマネギと、きのこと、ピーマン……」
「えー、ピーマン入れるのー?」
「……いいです。最大公約数を取りましょう」
「いいよ、とりあえず買っていこうよ」
野菜だけでけっこうな量になったから、あきらがカゴをもう一つ持ってきた。明日からオフだし、二人ぶんだと思えば買いすぎってことはないだろう。
「ごはんとパン、どっちがいい?」
「ロールパンといっしょに食べるとおいしいですよ」
ぼくはごはん党なんだけど、たまには洋食屋さん風も悪くない。
「お肉は牛肉でいいかな?」
「それだとビーフシチューになっちゃいます。クリームシチューなら鶏肉です」
「あっそうか、そうだよね」
「……イブキさん、シチュー作ったことあるんですか?」
「えー、あるよー」
「なす入りの?」
「うーん……よく覚えてない」
あきらがくすっと笑った。
お人形みたいな顔が笑うと、ほんとうにかわいい。いつもこんな顔でいればいいのに。
「作るの、手伝います」
「えー、いいよ、今日はぼくが作るんだから」
「おいしいシチューが食べたいんです」
お、言うね。
ぼくたちは一瞬見つめ合って、にやっと笑った。
「わかった。じゃあいっしょに作ろうか」
師弟だもんね、ヒビキさんに言わせると。
うちの台所はそんなに広くないけど、二人が動けないほど狭くもない。シンクに向かって並んでみると、二人でちょうどいいんじゃないかっていう気もしてくる。
冷蔵庫の横にかけてあったエプロンをつけながら、ふと気づいた。
「あきら、自分のエプロン持ってきたほうがいいんじゃない?」
「……ありません」
「えっ、持ってないの?」
「はい」
当然、って顔をして言うけど、ぼくからしたらありえない!
「あのね、料理するのにエプロンしないなんて、バイク乗るのにメットかぶらないとか、魔化魍と戦うのに変身しないとか、そういうことなんだよ!」
「まずその二つがちがうと思います」
厳しいツッコミも、くすくす笑いながらじゃ迫力がない。
「しょうがないなー、ぼくの貸してあげるから」
「ありがとうございます」
ぼくはエプロンをはずしてあきらにかぶせてあげた。ぶかぶかだから、着物みたいにたくし上げて、エプロンのひもをおなかに回して結ぶ。あきらはもう一度お礼を言って、それからおもしろそうに見上げてきた。
「イブキさん、エプロンなしで魔化魍と戦うんですか?」
「あー……上は着替えてもいい?」
「どうぞ。野菜洗ってますね」
「じゃ、よろしく☆」
ふざけて鬼の敬礼をキザっぽくやってみたら、ぷっと噴き出してそのまましばらく笑っていた。なんだ、こんなかんたんなことで笑ってくれるんだ。
野菜を洗って、皮を剥いて。肉を切ったり下ごしらえしたり。広いようでやっぱり狭いシンクからじゃがいもが転がり落ちて、二人であわてて拾ったり。
皮むきはぼくのほうがうまいけど、味つけはあきらのほうが慣れているとか。いつものキャンプじゃわからないことがいろいろわかって楽しかった。
「野菜いっぱいあるから、サラダも作ろうか」
「あ、私ドレッシング作りたいです」
「いいね。なに味にするの?」
作るものが増えたから狭い台所はもっと活気づいて、ぼくたちは忙しく動きまわる。ときどきぶつかったりもして、そのたびに笑い合って、二人だけなのにとてもにぎやかだ。
どうしてもっと早くこうしなかったんだろう。ヒビキさんは正しかった。ああ見えて、やっぱりすごい人なんだ。
浮かれたぼくは、つい口をすべらせる。
「なんかさ、すごい楽しいねえ。あきらがこんなに笑うのって初めてじゃない?」
その瞬間、あきらの笑顔がすぅっと消えた。
あっと思ったときには、うつむいたあきらの顔は前髪に隠れて見えなくなっていて。
台所の温度が一気に下がる。
「あの、あきら……」
「すいません……」
小さな背中がこっちを向いた瞬間、ぼくはあきらの手をつかんでいた。
はっと振り向いた顔が、信じられないとでも言いたそうにぼくを睨みつける。
「あきら。楽しいのは悪いことじゃないよ」
「…………<」
真っ黒な瞳から涙が湧くのを、じっと見つめた。やっぱり。この子は、楽しんじゃいけないと思ってる。
「……父と母の代わりに楽しめっていうんですか?」
悲痛な叫びが響いた。
「あきら!」
彼女はぼくから逃げようとして、必死に身体をよじって腕を引っぱる。少しも動かないぼくの腕をめちゃくちゃに叩いて、爪を立てて、泣いてるのか怒ってるのかわからない悲鳴を上げる。
「イブキさんも! 死んだ人のぶんまで楽しく生きろって言うんですか!」
腕を引っかかれて、白い筋が何本もついた。
「ぼくは……兄さんのぶんまで笑ってるわけじゃないよ」
自分の声とは思えないくらい低くて硬い声に、あきらが凍りつく。
「イブキさん……」
彼女は呆然とぼくを見上げ、それから床に崩れるようにして座り込んだ。しゃくり上げるあきらに、それ以上かける言葉もなくて、ぼくは手の力をゆるめる。細い腕は、力なくぼくの手からすべり落ちていった。
シチューの鍋が煮立っていたから、火を止める。
ヒビキさんの言うとおりだった。
ぼくたちは、もっと早くいっしょに食事をするべきだったんだ。
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