イブキとあきら
五 【重なる手】
杖をつき、左脚を引きずり、シュキさんは庭を歩きまわっている。ひざを折ることはできても、しゃがみ込むことはできないみたいだ。ふと気になって、訊いてみた。
「お庭の手入れは、どうしてるんですか」
黙って手元に集中しろ、とは言われなかった。
「知り合いに頼んでいる。猛士の人間だ。水やりや草むしり程度なら、調査員や元弟子たちが来たときにやらせることもある。おまえたちにもやってもらうぞ」
「はは……」
研修所の掃除みたいなものだと思えばいいかな。
「こんなところに住んでいて、不便じゃないんですか」
そう訊いたのは、あきらだ。
「怪我をする前に比べればな。だが、暮らせないほどではない」
この古い家に、この人はいつから住んでいるんだろう。鬼だったころから……もしかしたら、子供のころから。不便を強いられても、離れなくないほどに愛着のある場所なんだと思う。
「魔化魍が憎くないですか」
「なに……?」
あきらは真っ赤な彼岸花を手にしたまま、シュキさんを見つめている。きれいにお化粧しているせいか、いつもより表情にもすごみがあるような気がした。
「鬼をつづけることもできなくなって、生活も不便になって……いろんなものを奪っていった魔化魍を、憎いと思いませんか?」
「あきら……」
遠慮のない言葉を止めようとしたぼくを、シュキさんのほうが手を挙げて制止した。その表情は厳しいままだった。
「魔化魍が、憎いか」
「……はい」
空気が張りつめる。あきらとシュキさんは睨み合った。とても長い時間に思えたけど、実際は数秒だったのかもしれない。
「そうだな。憎しみはおまえを強くするだろう」
「え……」
ぼくは呆然とシュキさんを見上げた。鬼の口から出る言葉じゃない。
「シュキさん……」
「イブキ。おまえは魔化魍が憎いか」
まっすぐ向けられる目があまりにも強くて、ひざの上の手が震えかけた。身体が揺れそうになるのをこらえて、背筋を伸ばす。
「いいえ。憎しみは……鬼を滅ぼします」
あたりまえのことを口にするのに、魔化魍に立ち向かうくらいの勇気が必要だった。シュキさんの目は、それほど厳しくて怖い。あきらの言う「ほんとの鬼」みたいだ。
「憎しみは、鬼を強くする」
力強い声でくり返される言葉に、ぼくはあせりにも似た不安で動けなくなる。あきらはと見ると、なにかに憑かれたような表情でシュキさんの言葉を待っていた。まるで、魔に魅入られたみたいだった。
「ノツゴという魔化魍を知っているか」
シュキさんが再び口を開いた。ぼくはあきらに意識を向けたまま、慎重に返事をする。
「……いえ」
「だろうな。しばらく出ていないはずだ。……ああ、笛ならノツゴには会わないか」
初めて聞く「ノツゴ」というのがどんなタイプの魔化魍かは知らないけど、弦の鬼の相手なんだというのはわかった。
「最後にノツゴが出たとき、ザンキは鬼になったばかりだった。弟子を護りながら戦えるほど、ノツゴは楽な相手ではなかったのだよ。私はザンキを庇って隙を見せた。その結果が、これだ」
ぽん、と軽く左脚が叩かれるのと、あきらがびくりと身を震わせたのは、同時だった。
「脅しているのではない」
不自由な脚をさすりながら、かつての鬼は苦笑混じりのため息をつく。怒ったり、機嫌を悪くした感じはなかった。声もさっきより少しやわらかくなっている気がした。
「ノツゴが憎いかと問われれば、いまいましい相手だ、と答えるだろうな。だが、私がノツゴと戦ったのは、ザンキを護るためだ。やつが憎いからではない」
「でも!」
あきらが声を上げた。
「ザンキさんは……シュキさんの脚を奪ったノツゴを憎んだはずです! なにもできなかった自分のことも、憎んだはずです!」
止めるつもりが、なにも言えなかった。それはまさに兄を失ったときのぼくだった。魔化魍よりも、無力な自分を憎んで、弱いのに生き残ってしまった自分を憎んで……その憎しみから逃れるために、兄の死を心から追い出した。
「…………っ」
手の中で、実のついた枝が折れる。シュキさんは目を細めてぼくを見た。
「そうだな。ザンキはノツゴを憎み、己を憎み……それ以上憎しみを生まないために、鬼になった」
師匠のシュキさんを失い、自分も傷つき、ザンキさんは鬼になることを一度はあきらめた。でも、結局また鬼の世界にもどってきたんだ。
「怒り、憎しみ、恨み、悲しみ……負の感情を知り、それを乗り越えた者こそが強くなれる。時間こそかかったが、ザンキは全てを乗り越えた。今のザンキの強さは、おまえたちも知っているだろう?」
憎しみが、鬼を強くする。
恐ろしくて魅力的なその言葉の、ほんとうの意味を知ったあきらは、それでもまだ納得していないような顔で呻いた。
「でも、そのためにシュキさんは……」
シュキさんはその先を遮るようにぼくたちに歩み寄って、ゆっくり首を振る。
「師匠は命に代えても弟子を護る。親が子を護るのと同じだ。私に子どもはいないが、きっと同じだろう」
あきらが、はっと息をのむのが聞こえた。ぼくもいつのまにか、息を止めていた。
「ザンキには古くから受け継がれてきた鬼の血が流れている。その血を目覚めさせることが、私の仕事だった。そして私は、ザンキの中にいる鬼を引き出すことができた。この身を賭けて、ザンキに『護る』ことを教えたのだ。これ以上の修行はない。ザンキは財津原の名に負けない、強い鬼になると確信した……」
この人にとって、鬼は血でなるもの……ザンキさんから聞いたことを思い出す。その信念の強さが、ようやく理解できた。
鬼としてのキャリアを捨てても、自分の身を死の危険に晒してでも、弟子の命に未来を託して……。なんて熱い、なんて激しい信念だろう。
「護られることから、護るということを学ぶのだ。自分を護る者の姿をよく見ておけ。それがどんな姿でも、それこそが真の鬼の姿だ」
兄の顔が浮かんだ。
すぐそばまで迫った魔化魍を前にして、必死に、怖い顔でぼくを追い立てた。まるで鬼みたいな顔で……それから兄さんはほんとうの鬼になって、そして……。
なにかしゃべろうと思ったのに、喉がつまった。目の奥が熱くなって、シュキさんの顔が滲む。
「イブキ」
折れた枝を握りしめていた拳の上に、ひんやりした手が置かれた。
「あきらも。おまえたちは、鬼になるべき人間なのだよ」
「天美の子だから……ですか?」
あきらが震える声で尋ねた。シュキさんは肯定も否定もせず、ただ微笑む。
「憎しみを知る鬼は、強い」
鬼になるべき人間。
たしかにぼくはそう信じて鬼になったはずなのに。
初めて鬼になる理由を教えられたような気がしていた。
◆「できたか」
「はい」
「……はい」
どこか不格好な、でも華やかな生け花が二山……二皿っていうのかな? いちおう完成する。なにを指示することもなく、黙って作業を見ていたシュキさんは、穏やかな声でぼくたちに尋ねた。
「なにか、訊きたいことは?」
あきらを見ると、うつむいて自分のひざを見つめている。それから、決心したように顔を上げた。
「……生理痛のときって、どうすればいいですか?」
うわ、今ここで訊くんだ。
シュキさんはにやっと笑った。どこかザンキさんに似ている。どんなに意地悪そうな顔になっても、とても優しい目をしているところが。
「充分に休養をとれ。薬は飲まないほうがいいが、ひどいようならかかりつけの医者に行くといい」
その答えは、意外に普通だった。
市販の薬はできるだけ避けろ、っていうのは、鬼のあいだでは迷信にも近い約束ごとで、べつに特別なことじゃない。極端な話、内科関係は食べて寝れば治る、とまで言われているくらいだ。
「でも、イブキさんたちに迷惑が……」
「気にするな。立っている者は師匠でも使えと言うだろう。おまえの苦しみを知らない男に遠慮はいらない。医者に連れていかせるなり、食事を作らせるなり、存分にわがままを通すといい」
「はい……」
もしかしてザンキさん……? ちょっと遠い目をしてしまった。
「イブキは?」
ぼくはちょっともぞもぞと動いてから、思いきって口を開いた。女ばっかりの中に男一人なんて、実家やたちばなで慣れてるじゃないか。
「あー……ぼくやっぱり、パンツのほうがいいかなって……」
勇気を出して口にしたわりには、回答はそっけなかった。
「慣れろ。実用的に不都合はないはずだ。六尺が手間なら越中という手もある」
そんな、トランクスかブリーフか、みたいな感じに言われても。そもそもボクサー派なんですけど。
ちらっと横を見ると、あきらが真っ赤になってうつむいている。やっぱりこういう話はダメなのかと思っていたら。肩を震わせて笑いをこらえていた。あー、なんかぼくだけ恥ずかしい……。
「男も女も、それぞれ厄介ごとにはぶつかるものだよ。むりをしてどちらかに合わせることはない。相手には自分とはちがう部分があると覚えておけばいいだけのことだ」
シュキさんの声は、いつのまにかとても優しくなっていた。最初の怖い印象は、もうどこにもない。
「さあ、おまえたちの作品を床の間に飾るぞ。ついてこい」
「はい!」
二人同時に返事をしたら、満足そうな笑みが返ってくる。
ああ、ぼくがよく知っている顔だ。
ヒビキさんやザンキさんやバンキさん、それに父や兄たちと同じ。
優しい、鬼の顔だ。
それから残り二日、ぼくたちは花の手入れや屋敷の掃除をして過ごした。日課の筋トレ以外は、とくに身体を使う修行もしなかった。
あきらは着物の着付けを教わって、和服に合わせた化粧の仕方も覚えた。なんだかんだいっても、やっぱりそういうのは楽しいみたいだ。女の子だからかなあ。
ぼくもいろんな服を着るのは楽しいんだけど……和服の男物って暗い色ばっかりで地味なんだよね。ちょっと残念。
「立花の娘たちにでも、若向けの化粧を教えてもらうといい」
シュキさんはそう言って、話を通しておくとまで約束してくれた。あきらもいやがっている感じはなくて、逆に興味を持ってるみたいだ。
「でも、中学生のうちからお化粧って、どうなんでしょうね」
肌とか荒れちゃいそうだし、支度に時間がかかりそうだし……素朴な疑問を投げかけたら、そのへんは技術と慣れなんだって。
「古来、化粧には魔よけの意味もあった。化粧をすることで、己の強さや美しさを侵されぬ自信を持てるなら、それはむだではない。そのまじないが今は女にのみ許されているのなら、それは今の女の特権だ。取捨選択の自由があるのだからな」
特権と自由かあ。そう言われると、ちょっとうらやましくなるなあ。
って言ったら、「イブキさんもお化粧します?」だって。うーん、もし流行ることがあったらね。
「シュキさんは、現場にも化粧をしていったんですか?」
あきらの問いに、今は薄化粧のシュキさんが笑って答える。
「いや。私はものぐさだったからな。だが、姫より美しく装っていた鬼もいたぞ。どちらもありということだ」
女鬼の知り合いがいないから、ぼくも初めて聞くことばかりでおもしろい。
「鬼になるからといって、人であることや女であることを捨てる必要はない。心が望むままに、楽しむことを忘れてはいけない」
自由に花を生けるように……っていうことなのかな。
「今を、自然に生きろ。花も、人も、鬼も、それがいちばんいい」
「はい」
シュキさんの話は、ときどきとても難しくて、ぼくもあきらもちゃんと理解できているかどうかはわからない。
それでも、ここに来る前に二人して抱えていた重しみたいなものが、かなり軽くなっているような気がする。ひとつだけじゃなくて、いくつかまとめて。
ザンキさんより年上に見えないこの女の人が、同業の鬼たちのあいだでも伝説になるくらいすごい鬼だというのが、理屈じゃなくて肌で納得できた三日間だった。
帰りは、タクシーじゃなくてバスを使うことにした。いちばん近いバス停まで、歩いて二十分くらい。
いちおう舗装されているとはいえ、でこぼこくねくねした道を、二人で歩いていく。
ぼくは歩くことだけに夢中になりかけて、はっと後ろを見た。あきらはきちんとついてきていた。
「あのさぁ」
「はい?」
化粧を落とした顔は、ぐっと幼く見える。女あつかいも子供あつかいも……と言われたけど、やっぱりどう見ても女の子だ。
「手、つないでいい?」
「なっ、なんでですか?」
「なんとなく」
おそるおそる差し出されたあきらの手は、初めて出会ったときと同じに冷たかった。
シュキさんと同じだ。
ぼくはその手をぎゅっとにぎって、ぶんぶん振りまわしながら歩いた。手の長さも肩の高さもぜんぜんちがうから、あきらは踊ってるみたいに振りまわされている。
「ちょっと、イブキさん、歩くの速い……」
ずっと握っていたら、少しずつあったかくなってきた。
「あきら!」
「は、はい?」
息の上がった返事がおかしくて、ぼくは声を上げて笑う。
「強くなろうね! もっともっと強くなって、もっともっと人助けしようね!」
「……はいっ!」
明るくて、元気な声だった。
二度目の白玉あんみつをザンキさんにおごる。
今日は戸田山さんとあきらもいて、ザンキさんのついでに戸田山さんにも大量のお団子をおごることになった。どっちがついでなのか、わからなくなったけど。ぼくとあきらは一皿の羊羹を二人でつつく。
「どうもありがとうございました」
「うん。おまえらが生きて帰ってきて安心したよ」
ええー……。
「ザンキさん、シュキさんとなにがあったんですか……」
「いや、まあ師匠ってのは厳しいもんだからな」
「そんなことないッスよ、ザンキさんはすごい優しいッスよ! イブキさんだって優しいですよねえ、あきらくん?」
「は、はい」
勢いに押されてがくがくとうなずきながらも、あきらは困ったようにぼくを見る。たしかに、戸田山さんがムキになるところって、どうもつかめないっていうか、ツボがわからないっていうか……。
「自分は、ザンキさんの弟子でよかったと思ってるッス!」
「うんうん、わかったわかった」
からら、と引き戸が開き、「いらっしゃいませ」と言いかけた日菜佳さんが「おつかれさまでーす」に言いかえる。入り口に目をやったザンキさんの眉がぴくりと上がった。
「『すごい優しい』師匠がもう一人来たぞ」
「え?」
ふり返れば、入ってきたのはバンキさんの優しい師匠、サバキさんだ。もちろんサポーターの石割さんも。
「おっイビキ! 元気か!」
「イブキですよぉ」
おなじみの言いまちがいをして、関東最年長の鬼はぼくとあきらの肩にどかっと腕を置いた。
「調子はどうだ、あきら?」
「……元気です」
「ちょっと見ないあいだに、美人になったんじゃないか? いや、もとからかわいいけどな、大人っぽくなった感じが……」
「そういうの、セクハラオヤジっぽいですよ」
「え、そうなの?」
石割さんが淡々と声をかけるのを、サバキさんはきょとんとした顔でふり向く。あきらはその横で黙って下を向いていた。
サバキさんには悪いけど、あきらにとってはお父さんと同じくらいの歳のおじさんだ。どう返事をしていいのか困っている感じだったので、あわてて口を挟んだ。
「そうだ、この前シュキさんのところに行ってきたんです」
「げっ」
サバキさんの腕がぼくたちの肩から上がる。
「なんですかそのイヤそうな顔」
石割さんがあきれた顔で眼鏡を押し上げた。
「だって怖いんだよあのおばさ……お姉さんはさあ。酒入ると手がつけられないし」
まるで本人が近くにいるみたいに、サバキさんはひそひそと囁く。
「おまえはすぐに逃げてただろ」
黙々とあんみつを食べていたザンキさんが、低い声で呟いた。
「自衛だよ、自衛!」
そう言いながら、サバキさんはザンキさんの隣の席に腰を下ろす。ため息をついた石割さんも、ぼくの隣に座る。
「おれが鬼になったばっかりのころは、弦はシュキとザンキがいればいいって言われてたからなあ。あ、ザンキってもそこにいるおっさんじゃなく、先代のほうな」
「うるさい。本物のおっさんに言われたくない」
「新人のおれなんか肩身が狭くて、笛や太鼓やってたよ……」
「まさかそれが三つ極めた理由なんですか?」
「石割くん、あいかわらずキレのあるツッコミだなあ」
ザンキさんのよくわからない褒め言葉に、話に加わりたいけどなにも言えず口をぱくぱくさせている戸田山さん、お茶を持ってきた日菜佳さんも入れて、えーと、七人。お客さんがだれもないはずのお店は、すごくにぎやかになった。
わいわい騒いでるところに、また引き戸が開いて、今度こそお客さんかとぼくたちは一瞬黙り込む。
着物姿のおばあさん……というには少し若い女の人が入ってきた。
「うっわー! おひさしぶりですおばさーん<」
ふり向いた日菜佳さんがぶんっと手を振って駆け寄る。
あれ、この人は……と思ったら、サバキさんが勢いよく立ち上がった。
「ひ……お師匠? なんでここに……」
同じく立ち上がったザンキさんが、深々とお辞儀をした。
「ご無沙汰してました。お呼び立てしてすみません」
あきらとトドロキさんも、わけがわからないまま頭を下げる。
「サバキさんのお師匠さんッスか?」
トドロキさんがひそひそと訊くと、サバキさんはぶんぶんと手を振った。
「バカッ、あの人が先代のザンキさんだ! 弦の鬼全員の大先輩だぞ!」
「え……」
そう、このおばさんは、先代のザンキさん。
忘年会のたびに会うからぼくは知ってるけど、そういえば戸田山さんはまだ忘年会には行ったことなかったんだっけ。
初対面のあきらと戸田山さんに向かって、おばさんは会釈した。
「ザンキの母でございます」
「えっ」
「ええーっ?」
シュキさんと並んで最強とうたわれた女鬼……二人目の臨時講師は、落ちついた笑みを浮かべて若い弟子たちを眺めた。
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