イブキとあきら
三 【語り継ぐ願い】
たちばなの地下は、ちょっとした秘密基地だ。
猛士関東支部の事務局があって、その奥には開発室とか保管庫とか書庫とか、いろんな部屋がある。ぼくの実家もそんな感じで、だからなんだかなつかしくて、けっこうお気に入りの場所だったりする。
中でもいちばんのお気に入りは書庫。そこにある、少しかびくさい古文書の山。怒られるとわかっていながら、勝手に持ち出したりしたっけ。
父のひざの上で。兄の布団にもぐり込んで。みみずが踊ってるような字を、「解読」してもらうのが大好きだった。古い本に書かれているのは決まって、「むかーしむかし」の鬼の話。ぼくにとっては、浦島太郎よりかぐや姫より、ずっとなじみ深い世界だった。
「そうか、タツコとオオヘビか……」
事務局長が、優しい顔を苦しそうにしかめていた。
「すまなかったね、私の責任だ。支部が変われば魔化魍も変わるとはいえ、オオヘビとタツコがつながらなかったとはねえ……迂闊だった」
たちばな地下の事務局で、魔化魍のデータファイルを広げて、ぼくたちは向かい合っている。
写真で見るタツコは、たしかにオオヘビとよく似ていた。身体の色と、ツノのかたちが少しちがうくらい。
「でもこういうケースって、けっこうありますよね?」
「うん……まず、因縁の魔化魍から遠ざけるという手があるね。時間が解決してくれるのを待つ、というのに近いかな。それから、荒療治でその魔化魍にぶつける、というのもある。失敗すれば心も命も危ないが……」
両極端の対処法だけど、どっちもそれなりに効果があるんだろう。
「まあ、師匠にマニュアルはないからね。結局はケースバイケースだ。イブキがあきらにいちばんいいと思う方法をとればいい。こちらは、すべてきみの意向に合わせます。シフトを組むときも優先するから」
「ありがとうございます……」
結局、選ぶのはぼく。それが師匠の役目だ。
「でも、今はへんに気を遣ったりとかしないほうがいいと思うんです。だから、いつもどおりにシフトを組んでください。ヘビに当たればそのときはそのときってことで」
事務局長はなにか言いたそうにぼくを見つめて、でも眼鏡を押し上げただけだった。
「……わかった。きみにまかせるよ」
今のままじゃ、なにも変わらない。あきらは、ぼくたちは前へ進めない。
でもむりやりヘビにばかりぶつけたって、感覚が麻痺しちゃったりしたら逆効果だ。シフトはぼくたちの生活リズムでもあるから、そのリズムの中で克服していこう。それができるかどうかは、ぼくにかかっている。
話が終わってたちばなのお店に上がったけど、あきらはいなかった。
「あの、あきらは」
「書庫にいるわよ。時間つぶしにどう、ってあたしが言ったの」
店番の香須実さんが笑顔で答えてくれるのにお礼を言って、もう一度地下に下りる。書庫の扉は半開きで、明かりがついていた。
「なに読んでるの?」
はっと顔を上げたあきらは、あわてて本を閉じる。
「すいません、もう帰りますか?」
「ううん、まだいいよ。……あきら、それ読めるの?」
「いえ……わかりません。絵を眺めてただけです」
手に取ってぱらぱらめくってみると、オオヘビの絵があった。つい取り上げてしまいたくなったけど、それで逆にあきらを刺激しちゃうんじゃないかと思ったら、いつもどおり笑顔を作るしかなかった。
「イブキさんは読めるんですか?」
「ちょっとならね」
「えっ!」
予想以上に驚かれた。そりゃあ……中学校の数学もできないようなぼくが、こんな昔の字を読めるなんて思わないだろうけど……。
「ちょっと傷つくなあ」
「すいません」
あきらはくすくす笑っている。その笑顔がうれしくて、ぼくは読んでみせようと本を開きなおして机の上に置いた。
「吉野にも、こういう古文書がたくさんあってね。これはええと、応仁元年、陸奥の国にオオヘビが現れて……」
「応仁って……何年くらいでしたっけ?」
「知らない。ええと、オオヘビが……ちょっと、笑ってないでちゃんと聞いてよ」
「すいません……やっぱりイブキさんだなと思って……」
「ひどいなあ。わざわざ威吹鬼っていう鬼の本を探してくれたんでしょ」
「え、これ、そうなんですか?」
「あれ、ちがうの?」
あきらがずっと眺めていたのは、村にオオヘビが現れて困っています、という物語のはじめの部分。ページをめくっていくと、鬼が登場する。でも絵の部分は虫が食っていて、鬼の姿はほとんど見えない。これじゃあ、読めなきゃわからないわけだ。
「ほら、ここに威吹鬼って。読める?」
「ほんとだ……じゃあ、イブキさんのご先祖……?」
あきらはおそるおそる「威吹鬼」の文字を撫でた。
「それはどうかな。このころは、あんまり血筋とか関係なかったみたいだから。でも、ひょっとしたら……」
ぼくの目は先を追いながら、どうしてあきらはこの本を選んだんだろうと考えはじめていた。威吹鬼の文字にも気づかなかったから、知っているはずがないんだけど……。
「これ、鬼の腕ですよね。これが威吹鬼なんですか?」
虫食いだらけの絵を指さして見上げてくる顔には、ただ先を知りたいだけの無邪気さしかなくて、ぼくもせいいっぱいの笑顔を返す。
「こっちは別の鬼だよ。鬼は二人いてね、協力してオオヘビを倒したんだ。上のほうは破れちゃってるけど、馬に二人で乗ってるでしょ? 今でいうとバイクかな」
「名前は? もしかして、響鬼さんとか?」
「……………」
言わなくて済むなら、ぼくはその名前を口にしたくなかった。だから、無言でその字を指した。普通の中学生なら読めないかもしれない。でもあきらなら。
「……闇鬼」
それは、あきらのお父さんの名前だった。
「このころは……血筋は関係なかったんですよね?」
かすれた声で、あきらは呟く。ぼくは声のトーンを上げた。
「……威吹鬼と闇鬼は、いっしょに旅をしてたんだね。それで馬に乗ってたのかな。二人でこの村に来て……それまでこの村では娘を生け贄に差し出してたんだけど、闇鬼が生け贄になりすまして、オオヘビを倒したんだって」
「いっしょに……イブキさんと私みたいですね」
笑いながらそう言ったあきらの声は、泣いていた。
「今とおんなじ……」
「あきら……」
「昔から、ずっと戦ってるのに……どうしてなにも変わらないんですか!」
悲鳴のような叫び声で、香須実さんや事務局長が飛び込んでくる。
ぼくはどうしていいかわからなくて、ただあきらの肩を抱き寄せてさすってあげることしかできなかった。
「魔化魍は、いなくならないんだよ」
事務局長が静かな声で言うのを、あきらは黙って聞いている。
魔化魍は、自然のものだ。熊とか狼とか、今で言うとスズメバチとかゴキブリとか。人に害があるからって全滅させるわけにはいかないし、そもそもそんなことはできない。それに「魔」は「人」の力に応じて大きくなるとも言われてるから、人が生きているかぎり、魔化魍もいなくならない。
そういう、猛士の研修で最初に教えられるようなことを、事務局長は淡々とあきらに説いた。
「私はね、学生のとき、友だちを魔化魍に殺されたんだ。悲しくて、悔しかったよ。だから、今この仕事をしてるんだ。私のような思いをする人を、完全になくすことはできないかもしれない……でもね、せめて減らす手伝いくらいできないだろうかってね」
その思いは、鬼並みに……鬼よりも強かった。だから、まったくの部外者だったこの人が、関東支部の事務局長をしている。
「昔と同じだなんて、そんなことはないんだよ。被害は確実に減ってるんだからね。猛士はいつだって、その時代の最先端の技術を使って、全力で魔化魍に向かっている。あきらが鬼になるころは、もっと被害が減っているはずだ……」
あきらはずっと黙りこくったまま、赤くなった目を伏せていた。
駐車場で、あきらにメットを渡そうとして止まる。
「イブキさん?」
できるだけ早く、言わなきゃならないことがあった。
「あのね、あきら」
「はい」
威吹鬼と闇鬼のこと。あきらは、あの話の終わりを知らない。
「さっきの本のことなんだけど。威吹鬼と闇鬼は魔化魍を倒したじゃない? そのあと二人は村に残って、オオヘビの呪いからずっと人々を守りつづけたんだって。めでたしめでたし、っていう話」
あきらの表情は変わらなかった。ぼくはちょっとじれったくなって、あきらにメットを押しつける。
「だからさ、闇鬼はちゃんと生きてたんだよ。魔化魍にやられないで。生け贄から娘たちを救って、末永く幸せに暮らしたんだよ。だからさ……」
ああ、ぼくは今、笑っていない。笑顔で話せるハッピーエンドなのに。
「だから、あきらもそういう鬼になろう?」
魔化魍になんかやられないで、たくさんの人を助けて、自分も幸せに生きる。なにも変わっていないっていうなら、そういうところも同じだっていいはずだ。
「……威吹鬼だって、村で幸せに暮らしたんだ」
軽くつけ加えたつもりが、思ったよりも硬くて低い声になってしまって。あきらがはっとぼくの顔を見る。
その目から逃げるように、フルフェイスのヘルメットをかぶった。それから二人でバイクに乗って……あの威吹鬼と闇鬼のように、二人で道を駆けはじめる。
そのときぼくの頭にあったのは。
自分じゃなくて先代の「威吹鬼」……死んだ兄だった。
何百年も昔の鬼たちが、少し前まで息をしていた鬼を思い出させるなんて。
今までそんなこと、考えたこともなかった。
◆ 季節柄、ヘビ関係は少なくない。避けようとしても難しい。
今回はツチノコだ。
あきらのためには出てくれなきゃ、でもできれば出てほしくない、と思いながら、森の調査から入る。昨日童子を倒したから、もう育ちはじめていることは確定だった。
「あきら、今日はバンキさんがいないからね。戦えないと思ったら、すぐ逃げるんだ」
「……はい」
「あきら?」
「はい!」
どこかに不安を抱えたまま、先導のニビイロヘビを追う。
「!」
来た。
木のあいだをすり抜ける、茶色い影。
「あきら!」
地を這うようにして、ツチノコが現れた。
オオヘビのようなツノや足はない。頭が大きく横に張り出していて、カナヅチみたいなかたちをしている。その両端についた眼が、ぎろりとぼくたちを睨んだ。
まだそんなに大きくない。あきらを遠ざけて、すぐに片づけてしまおう……。
「あら、おいしそう」
甲高い男の声が聞こえた。これは……!
「よかったわ。こどもはやわらかくておいしいからねえ」
ツチノコの頭の上に、土色の肌をした女が乗っていた。姫だ。
まずい。魔化魍の子と親では強さがぜんぜんちがうといっても、二手に分かれられるのは厄介だ。
ぼくはちらりとあきらを見る。だいじょうぶ、ちゃんと自分の足で立っている。
「子どもじゃない……」
笛を出した。短く吹いて、ディスクアニマルたちにあきらを守るよう伝える。
「鬼だ<」
大声とともに気を笛に吹き込む。姫がツチノコの上でよろめいた。
「おに……!」
よろめいたまま落ちた、と思った瞬間、ツチノコの巨大な頭が迫ってきた。その頭と岩に挟まれるギリギリのところでかわして、姫を捜す。
ツチノコがまたこちら目がけて襲いかかってくる。口を開けてくれればその瞬間を狙えるが、地面を這って頭突きで相手を叩きつぶそうとするツチノコには難しい。胴体を狙うにはたくさんの鬼石を撃ち込まなきゃならないから、少し時間がかかる。
「くっ<」
両眼を撃ち抜いた。
呻り声を上げながら、長い身体がばたばたとのたうつ。その衝撃で地面が揺れて、木の葉がばさばさと落ちてくる。まずい、このままだとあきらを見失う……。
「きゃああああ<」
高い悲鳴が森の空気を裂いた。
敵に襲われたら、大声を出すように言ってある。これは弱さを晒すことじゃなく、身を守るために大切なこと。
ぼくは声のするほうに駆け出した。
「だまれ、こども」
姫の指が伸びて、あきらの首に絡みついていた。烈風をかまえてから気づく。だめだ、この位置から撃ったら、あきらに当たる。でもこの距離だと……。
「あきら、しゃがめ! アカネ、護れ<」
あきらが縮こまった瞬間、姫を撃つ。金属音がして、ディスクが一枚弾けた。直後に、姫も弾けて消えた。
「イブキさん!」
しゃがみ込んで頭を抱えたままのあきらが、ぼくの後ろを見て叫ぶ。
しまった、間に合わない……!
背中からツチノコの頭に体当たりされ、そのまま木に叩きつけられた。
「ぐ……」
あばらにひびが入る音がした。
でも「これくらいなら平気」「次がチャンス」と、頭より先に身体が考えて、そのとおりに動く。あれこれ考えている時間なんかない。
向かってきたツチノコの頭に、鬼石を撃ち込む。暴れながらもこっちに突進してくる魔化魍に渾身の音撃。巨大な口がぼくを飲み込もうとした瞬間、ツチノコは吹き飛んだ。
ツチノコ……童子、姫、魔化魍。オールクリア。
はい、終わり。おつかれさまでした。
「っつ……」
わき腹が痛い。怪我の痛さとはちがう……怪我そのものよりも痛いくらいだ。これは、自分で治ろうとする鬼の力が暴れている痛み。もうしばらく鬼の姿で我慢していれば、骨も治る。
ぼくはゆっくりと立ち上がり、あきらのところへ向かった。
「イブキさん……」
あきらは壊れたアカネタカを抱えて、立ちつくしていた。
無機物へ還ったその式神を、鬼爪の先でそっと撫でる。ぼくが撃った鬼石がめり込んでいた。
「……ごめんね」
ディスクアニマルにも命が……ぼくたちの命とはちがうのだけど、魂がある。ひとつひとつがちがう魂で、同じものは二つとない。
その魂を、ぼくはあきらを護るために犠牲にした。初めてじゃない。まだ戦う力を持たない弟子を庇うのは、ディスクアニマルの使命のひとつだ。そのたびにぼくたちは壊れた彼らの弔いをする。
「帰ろう。弔ってやらなきゃ」
「……はい」
あきらは涙声で答え、動かないアカネタカを抱きしめた。
古い傷が癒えないうちから、新しい傷が増えていく。それが鬼の人生だと言ってしまえば、それで終わるのかもしれないけど。
「……だいじょうぶ?」
ふり向いても、ぼくの目の高さからは、前髪に隠れたあきらの顔は見えない。ただ、抑えた声の返事が聞こえるだけだ。
「もう、慣れました」
ぼくは足を止めた。
だめだ、そうじゃない。そっちにいっちゃいけない。
「あきら」
向きなおって、あきらの肩に手を置く。それでも顔が見えなかったから、地面にひざをついた。ぼくたちの目線が逆転する。
「強くなるってことは、痛みに鈍くなることじゃないんだよ」
「え……」
もちろん、痛みに慣れることも、強くなるには必要だ。鬼になるときの痛みとか。敵にやられたときの痛みとか。怪我が治るときの痛みとか。痛いことはいっぱいあって、ぼくたちはそのたびに泣いていられないのだけど。
「なんていうのかな……」
慣れちゃいけない痛みもある。人の命を救えなかったときの痛み。遺された人に責められたときの痛み。仲間を失ったときの痛み……。
「痛みは、鬼の力のアクセルで、ブレーキでもあるんだ」
「よく……わかりません」
正直な答えが返ってくる。
自分で思ったよりも肩を落としてしまったらしくて、「ごめんなさい」と小さな囁き声が聞こえた。
「うん……あせらなくていいよ」
どう言ったらいいんだろう。でも、ぼくがどんなに言葉を尽くしても、今のあきらには伝わらない気がする。
大きく息を吐いて、ぼくは立ち上がる。
「あせらなくて……いいんだ……」
わかっていた。
ほんとうは、あせっているのはぼくだったんだ。
今日は、バンキさんがあきらの家庭教師に来てくれている。
教室はぼくの部屋。授業料はぼくのごはん。
二人のために張りきって晩ごはんの用意をしていたら、台所にバンキさんが来た。
「今、計算問題やってるんで。先生はちょっと休憩です」
「あは、おつかれさまです」
手伝うって言ってくれたけど、そこはぼくの役目だからと辞退する。ときどき煮物の味を見てもらいながら、あきらのじゃまにならないように小声で雑談をしていた。
「たちばなにある絵草紙なら、おれもけっこう読みました。サバキさんがときどき連れてってくれたんで」
この前の威吹鬼と闇鬼の話をしていたら、やっぱりというかサバキさんの話になる。ぼくの師匠は兄と父だったから、師匠自慢をするのはなんとなく気恥ずかしいんだけど、バンキさんはそんなことを気にしない。
「でもサバキさん、記憶と勘で読んでるからあてにならなくて……途中からあきらかにちがう話になるんですよ。信用できないから、自分で読むようになりましたけど」
あ、それはぼくも同じかも。ちゃんと文字を読み取ってるわけじゃないし。
「蛮鬼って鬼、いました?」
「この名前はサバキさんオリジナルだから。……おれだけなんです、蛮鬼って」
その口調ははどこか自慢気だった。ほんとうにサバキさんが大好きだから、サバキさんからもらった自分の名前も大好きなんだと思う。
「いいなあ、それも」
昔の本に自分の名前を見つけるのもうれしいけど、自分だけの名前っていうのもなんだか羨ましい。
「でもおかしいですよね。すごく昔の話で、ほんとだったかもわからないのに。名前が同じ『威吹鬼』っていうだけで、すごく気になっちゃうんですよ」
「おれも……『本流』の話は気になったっていうか、ちょっと親近感がありました」
久しぶりに耳にした単語に、思わずふり向いてしまった。『宗家』以上に普段は使われない言葉だった。
『本流』……鬼の弟子が、師匠から必ず教えてもらう三人の鬼の話。
「そういえば、まだあきらには教えてないです」
吉野の研修でも公式には教えてはいないから、ただの昔話にすぎないはずなんだけど、鬼の人たちはみんなこの話をけっこう大事にしている気がする。
「じゃあ『本流』の話でもしてあげたらどうですか。ちょうど、おれたちみんなが顔を知ってる鬼ばっかりですし」
「あ、そういえばそうですね」
ぼくが『本流』と呼ばれる鬼たちの顔を思い浮かべたとき、部屋からあきらの声が聞こえた。
「バンキさん、終わりましたー」
「はーい」
答えてから、バンキさんは身体を起こす。
「あと十分くらいでごはんですよ」
部屋にもどろうとする背中に声をかけると、手をひらりと動かす鬼のあいさつが返ってきた。
「了解です」
これは、サバキさんと同じなんだよね。名前はちがうのに。
ごはんを食べて、片づけて。
食後のお茶と、バンキさんが持ってきてくれたケーキを出して、勉強再開の時間をちょっと先に延ばした。
「あきらくん……息抜きに昔話でもしようか」
「昔話ですか?」
勉強や修行と関係あるんですか、という感じの顔で聞き返すのを、バンキさんはちらりとぼくを見ながら答える。
「そう。おれとイブキさんが交代で」
「え、交代ですか?」
鬼なら『本流』の話なんてだれでも知ってるから、ぼくよりバンキさんのほうが上手に話せると思うんだけどなあ。
「むかーしむかし、あるところに……」
出だしを聞いて笑いそうになったあきらは、次の瞬間に頬をひきしめた。
「鬼になれる男の人がいました」
たちばなで見た威吹鬼や闇鬼と同じ話なのだと、頭を切り替えたんだろう。
「その鬼は他の鬼と同じように、人里離れた山奥に住んでいた修験者で……あきらくん、修験道ってわかる?」
「……聞いたことはあります」
「うん、山にこもって修行するお坊さんみたいな感じなんだけどね。その鬼も、孤独に自分を鍛え、人知れず魔化魍と戦ってたんだよ。
……あるとき、ふもとの村から一人の男が、自分の年老いた母親を背負って山に入ってきたんだ。そして、歩けない母親を置いて去ろうとした」
それは、だれもが知っている昔話だった。古文書じゃなく、絵本にもあるあの話。
「姥捨て山……」
「そう。どこにでもある話だったんだよ、悲しいことにね」
でもこの話には、鬼しか知らないつづきがある。
「それを見た鬼は怒って、男をこらしめようとした。でも、力の加減ができなくて、男を殺してしまった。老いた母親の前で。息子を殺された母親は、自ら鬼の爪にかかって死んでしまった。
激しく悔いた鬼は、俗世とのつながりを完全に絶った。彼の弟子になりたいという者がいても、鬼の秘術はなにひとつ教えようとしなかった。ただ『鬼は人を裁かず』と言い聞かせつづけた。鬼は魔化魍だけを裁く者だと……。
彼の意志を受け継いだ鬼たちは、『裁鬼』と呼ばれるようになった」
「本流ですか……」
思わず呟いたあきらをちらりと見て、バンキさんがうなずく。
遠い昔から現代まで、血筋に関係なくその力を持つ者だけに継がれてきた鬼は、宗家とは別に『本流』と呼ばれる。本流の名は鬼の心得の中に入っているから、もちろんあきらも知っているはずだ。
即ち。
人を裁かざること、裁きの力なり。
人を導かざること、導きの力なり。
人に響かざること、響きの力なり。
「……その話は、ほんとうに『本流』の話なんですか?」
疑いじゃなく、単純な質問として、あきらが尋ねた。バンキさんは苦笑しながらケーキをつつく。
「昔のことだからね。古文書とかの文字には残ってない伝承だし。だから吉野でも教えないわけだし。でもおれの師匠のサバキさんを見てたら、ほんとだったのかもって思えるんだ。姥捨て山の鬼と、あのサバキさんは別人だけど、鬼としての思いは変わってないんじゃないかなって……」
「……そうですね」
思わず相づちを打っていたのは、あきらじゃなくてぼくだった。
馬に乗っていた威吹鬼と、ぼくの兄はちがう。でも、きっと同じ気持ちで、人を助けたいという気持ちで、戦っていたんじゃないか。
「名前が同じっていうことは、思いが同じっていうことかもしれないですね」
生まれた時代や、生きた長さがちがっても。同じ思いで戦った仲間がいた。それは「変わらない悲劇」じゃなくて、「変わらない心強さ」なのかもしれない。
「思いが……同じ……」
その言葉の意味を確かめるように、あきらがゆっくりと呟く。
きっと、あの闇鬼のことを思い出しているんだろう。いつものように、唇を噛みしめている。バンキさんの前で泣くのを我慢しているみたいだったから、カップにお茶のお代わりを注いで渡した。
静かになった部屋の中で、バンキさんが少し声を明るくしながら、ぼくに笑いかける。
「次はイブキさんですよ。『導鬼』の話」
「えー、ぼくがですか?」
「そりゃあ、おれよりイブキさんでしょ」
たしかに今の『導鬼』はぼくの父だ。今はもう引退して、猛士のえらい人になっちゃってるけど、ぼくが小さいころにはまだ現役だった。サポーターだった事務局長とのコンビは、年配の人のあいだでは今でも語りぐさになるくらい有名だったそうだ。今は、岡山にいる父の弟子が『導鬼』を名乗っている。
師匠の兄を失ったぼくは、独立するまで父にあずけられて修行していた。その父が語った『本流』の話は……。
「えっとですねえ……導鬼は、もともとダンサーだったそうです」
「なんですかそれ!」
話を知っているはずのバンキさんが噴き出す。まあ、そうだよね。
「あ、つまり、全国を回って歌や踊りを見せる人たちの一人で……」
バンキさんが言いなおしてくれるかなと期待したけど、おもしろがっているみたいで黙ってにこにこしながらうなずいている。さっきまで硬い表情だったあきらも、興味津々って顔で話のつづきを待っていた。もういいや、和泉家バージョンでいこう。
「導鬼はスターの後ろで踊るその他大勢だったんだけど、あるとき……」
結局、あきらの勉強もそっちのけで、ぼくたちは自分の知っているかぎりの昔話を聞かせあった。真剣に耳をかたむけたり、声を上げて笑ったり、みんなで考え込んでしまったり……。吉野の研修みたいだったけど、それよりずっと楽しかった。
おとぎ話みたいな「むかーしむかし」の世界と、ぼくたちの今は地続きだ。
まるで親戚のことみたいに遠い先祖の話をしたり、仲間のことみたいに本の中の鬼たちを心配して、応援したりする。
そして彼らのほうも、今生きている鬼に大切なことを教えてくれる。
悩んだり苦しんだりあせったりもするぼくたちの仕事は、「むかーしむかし」からずっとつづいているんだってことを、教えてくれる。
吉野のマニュアルとはちがう教科書を、ぼくたちは知らないうちに持っていたんだ。
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