イブキとあきら
六 【鳴り響く笛】
初めて鬼になったときのことを、実はよく覚えていない。
初めて自転車に乗れるようになったときとか、初めてトランペットの音を出せるようになったときとか、そういう感じだ。できてしまったら、もうそれがあたりまえ。
でも、すっごくすっごく痛かったんだろうと思う。今はもう、痛いと感じることもやめてしまったけれど。
かまいたちの爪に似た鋭い風が、身体中の皮膚を細かく切り刻んでいく感じ。細切れになった皮膚が肉から剥がれ落ちそうだ、と思った瞬間、ぼくは鬼になる。自転車に乗るように、なにも考えず。
あきらはまだ、その痛みを知らない。
戸田山さんが、鬼になった。
といっても独立したわけじゃなくて、鬼の姿になれるようになった、ということ。でも大きなステップアップだから、師匠のザンキさんはもう自慢したくて仕方がないって顔で近づいてくるし、戸田山さんはもっと直球に「やりましたよイブキさん!」となぜか抱きついてくるし。
「それは……おめでとうございます」
たちばなの暖簾が明るいうちから降りているからなにかと思ったけど、この大騒ぎじゃ早じまいも仕方がない。日菜佳さんが「いよっ、トミゾー! 日本一!」とか言いながら、紙吹雪を飛ばすマネをして大はしゃぎしている。香須実さんや事務局長は苦笑しているけど、やっぱりうれしいんだと思う。
ぼくは戸田山さんにしがみつかれてよろけながら、あきらを見た。寡黙な女子中学生は目を大きく見開いて、あっけにとられてバカ騒ぎを眺めている。
「これもイブキさんたち先輩方のご指導の賜物ッスー!」
「いえ、ぼくはなにもしてませんけど……」
戸田山さんが弟子入りして一年。異例の、というよりはほとんど異常な速さだ。
ヒビキさんは自分の記録とほとんど同じなので、けっこう本気でむっとしている。
「鬼になるだけならだれにもできるんだよ、肝心なのはそのあとだよそのあと!」
鬼になるのだってだれにでもできませんってば。
口をとがらせて戸田山さんにブーイングを飛ばしている姿は、どこから見てもただのおじさんで、ちょっと悲しくなった。そのおじさんに「悔しいか、ああ? うちの戸田山はすごいだろう」と柄にもなくはしゃいで自慢しているザンキさんは、もっとただのおじさんっぽくて、悲しさが二倍になった。
戸田山さんはようやくぼくを放してくれたと思ったら、今度は全開の笑顔であきらの肩をばんばん叩く。
「あきらくんも、がんばってくださいね!」
あ、しまった。
ザンキさん、お弟子さん監督不行届ですよ。と思ったけど、ザンキさんは上機嫌でヒビキさんに絡んでいる。ああ、ダメだ。今のザンキさんはザンキさんじゃない。
「はい……」
あきらもなんとか笑おうとしているけど、顔が引きつって失敗している。
「あ、あの、事務局長! 報告を……」
「ああ、そうだね」
ぼくはあきらと事務局長を追い立てて、地下の事務局に逃げ込んだ。
「そうだ。この前の昇段試験はどうだった?」
事務局長が、眼鏡をずらして訊いてくる。もちろんなんの問題もなく、たぶん優秀な成績で合格しました、っていう通知がそろそろ来るはずなんだけど、ちょっとタイミングが悪かった。
「まあ、戸田山は年齢の問題があるから、ちょっと急いじゃったけどね。あきらはじっくりやっていくといいよ。師匠も若いんだし」
「がんばります」
無表情に答えるあきらの横顔を、つい見つめてしまう。
シュキさんや先代のザンキさんのところで修行してから、少し気持ちにも余裕が出てきたように見えて安心してたのになあ……。
戸田山さんがザンキさんの弟子になったのは、あきらの弟子入りより半年くらい前。関東では、いちばん近いライバルってことになる。だから、あきらがいつも戸田山さんの昇段を気にして、その間隔を数えていることくらいはぼくも知ってるのだ。
もちろん、年齢や性別やいろんな点で、戸田山さんのほうが資質は上に思える。でも実際は、二十代も後半でしかも猛士のことをなんにも知らないで入ってきた人が、鬼の修行をすること自体、無謀に近い。あきらが女だという以上のハンデだろう。
今でも戸田山さんは、猛士の関係者なら子どもでも知っているようなことを知らなかったりする。それでも、十代のヒビキさんと同じスピードで鬼にまで辿りついた。あきらじゃなくても、猛士の人間ならだれでも、あせってしまうかもしれない。
「あのねえ、あきら」
「はい」
「戸田山さんは警察官だったから、基礎鍛錬はほとんど省略してるんだ」
「知ってます」
「それに師匠のザンキさんも、ヒビキさんと並ぶベテランだしね」
「知ってます」
「あと、笛の鬼は武器のあつかいが難しいから、みんな独立するまでけっこうかかるんだよね」
あきらはふっとため息をつく。
「べつに、戸田山さんが鬼になったからって気にしてません」
「……そうだね」
あんまりしつこく言うのも気まずくなりそうだから、話を切り上げた。
でも……。
鬼になれるのは破の段に入ってから。今はまだ、地道に鍛えつづけるしかない。前に進んでいる自覚も薄い。なにか、鬼に近づいてるっていう印がないかなあ。
ぼくは普段使わない頭を一生懸命絞って、おかげでちょっと熱が出そうになった。
次の週、二人でプールに行った。
水泳は身体を鍛えるのにもうってつけだし、まだ残暑も厳しいから楽しい気分転換にもなる。夏休みも終わった平日のプールは人も少なくて、ぼくたちは朝から昼過ぎまでたっぷりと、自分たちの決めたメニューを全部消化することができた。
お昼ごはんは、いつかヒビキさんに教えてもらった美味しい定食屋さんで。
「トンカツ定食二つ、大盛りでお願いします」
店員のお姉さんが笑顔のままストップする。
「いえ、でもうちのトンカツ、すごい大きくて……一枚でこれくらいありますので、並盛りでもかなりのボリュームが……」
「知ってます。大盛りで」
「大盛りで」
あきらも重ねて言うから、若い店員さんはトンカツの大きさを示す手を広げたまま、困った顔をしてもどっていった。ぼくもあきらも、見た目はそんなにたくさん食べる感じじゃないから、こんなことはめずらしくない。
「あきら、タイム伸びたね」
「まだまだです」
生乾きの髪を耳にかき上げて、あきらはテーブルを睨みつける。休みなしに泳ぎつづける姿は、修行をはじめたばかりのころみたいだった。ちょうどいいところで引き上げなかったら、一日中でも泳いでいたかもしれない。
「だからね、戸田山さんは特別で……」
「戸田山さんは関係ありません。戸田山さんと私じゃ比較にならないことくらいわかってます」
わかってはいても、気になってしまう。比べてしまう。だからつい、必要以上にがんばってしまう……。
才能なら、あきらだってヒビキさんや戸田山さんに負けていないはずだ。さすが天美家の子、と言われるだけの実力はすでにある。だからかもしれない。外から入った戸田山さんを意識してしまうのは。
「あきらぁ……早く鬼になりたい?」
頬杖をついて、首をかたむけて、あきらと目線を合わせる。あきらはぱっと目をそらそうとして、でも結局は上目遣いにぼくを見ながら小さくうなずいた。
「……なりたいです」
「そっか」
前に比べれば、ずいぶん素直に気持ちを出してくれるようになった。でもがんばりすぎるところは、まだまだ師匠のぼくがセーブしてあげないといけない。自分で加減を覚えるまで。
それからまもなく、さっきの店員さんがあきれ顔で大盛りのトンカツ定食二人前を運んできて、食べ盛りのぼくたちはエネルギーを補給することに専念した。
「……そろそろ時間だね」
「はい」
午後、ぼくたちはそれぞれ別の用があって、たちばなに行くことになっていた。あきらは昇段の手続き、ぼくは開発局にちょっとしたお願いをしに。
いつも使わせてもらってる駐車場が、隣のビル工事の資材置き場になっていたから、店から少し離れた有料の駐車場にバイクを止めて、歩いて店に向かう。
疲れているのか、考え込んでいるのか、あきらは一言もしゃべらない。難しい顔をしているから、やっぱり考えごとをしているんだろう。
大きな通りの歩道で、幼稚園のお散歩とすれちがう。「はーい、みんな赤だから止まってー」と先生が言うのを、微笑ましく眺めた。
ぼくたちがお散歩の集団を通りすぎようとしたとき。一人の子どもが、青信号を待たずに車道へ出てしまった。とたんに、クラクションが鳴り響いて……。
「…………っ<」
とっさに身体が動いていた。
こちら側へ引っぱり上げるのは間に合わない。ガードレールを飛び越えながら、小さな身体を抱え込む。そのまま転がって反対側のガードレールにぶつかったところで、すぐ後ろを車が走り抜け、急ブレーキで止まった音がした。
「イブキさんっ!」
道の向こうからあきらが叫んでいる。ガードレールに肩をぶつけて少し痛かったけど、子どもはどこもぶつけていないみたいで安心した。
「……だいじょうぶ?」
子どもは泣き出す。幼稚園の先生が走ってきて、何度も頭を下げながらその子を連れていった。車の運転手も降りてきて謝ってくれたけど、事故にならなかったんだから、ぼくとしては謝られることはなにもない。
「イブキさん、だいじょうぶですか?」
あきらが道を渡って駆け寄ってきた。平気平気、鍛えてますから、と笑って、服の埃を払う。あー、新しいジャケット、ひじ擦っちゃったよ……。
「ここ、けっこう見通し悪いんだね」
幼稚園のお散歩行列は、まだつづいている。ぼくは横断歩道の端にある黄色い旗を取り上げて、それを振った。
「はーい、走らないでねー」
あきらは少し考えるようにぼくを見上げ、反対側に渡って同じように旗を取る。
うん、そこまでは正解。でもそんな無表情だと子どもが怖がるよ……。
目が合うたび「笑顔笑顔」と笑いかけていた甲斐があったのか、だんだん表情がやわらかくなってくる。お散歩の列が終わる前に、下校時間の小学生までやってきて、それが途切れるまで、ぼくたちは一時間くらいその横断歩道で旗を振っていた。
「約束の時間、二時でしたよね?」
「遅れちゃったねえ」
さすがにのんびり歩いていくわけにもいかなくて、ジョギングしながらたちばなに向かう。泳いで疲れているはずなのに、あきらはとても楽しそうに笑っていた。ほんとうの気分転換は、水泳よりこっちだったみたいだ。
「あきらちゃんの音笛ねえ……」
たちばなの地下、秘密の研究室。
もぐもぐと昔懐かしの細長いスナック菓子を食べながら、みどりさんは眼鏡の奥で目を細めた。
「いいけど、ちょっと早くない? 今何段だっけ?」
「ちょうど序の四段になったところですから、もう持ってもいいと思います」
眼鏡美人は同じお菓子の別の袋をぼくに差し出し、ぼくが辞退するとすぐにそれを開けてまた食べはじめる。ふと見たら、小さなバスケットに十本くらい、いろんな味が詰め込まれていた。ぼくがここに来て五分で三本消えたから、最初は何本あったんだろう……。
「そうねえ……でもサポーター用じゃなくて、鬼用でしょ? やっぱり早いわよー」
「でも、自分の音笛ってやっぱうれしいじゃないですか。サポーター用のは仮って感じしますし」
「愛着わきすぎて、デコったりしないわよねえ?」
みどりさんはちょうど机の上にあった音弦を手にとって、くるくると裏返して眺めている。たぶん戸田山さんのだろう。携帯電話サイズのそれにラインストーンやキャラクターシールがくっついているのを想像したみたいで、「ぶふっ」と噴き出した。
「あきらをそのへんの女子中学生といっしょにしないでくださいよ」
ごめんごめん、と今度はチョコレートを口に放り込む。
「でも関西支部にいたよー、音叉にプリクラ貼ってた子」
「その子、鬼になれました?」
「そのときはもう鬼だったからねー」
「……へえ。いいこと聞きました」
今度あきらにその話をして、いっしょにプリクラ撮りに行こう。
「でもねえ、なーんか、イブキくんらしくないっていうか」
「え、どのへんがですか?」
みどりさんはもう次のチョコの包みを開けていた。
「ザンキさんに自慢されてあせった?」
あのとき、しらふで三次会モードになっていたザンキさんは、今はさすがに反省しておとなしいみたいだ。ヒビキさんに師匠バカとからかわれても言い返せないらしい。
「いや、ぼくはいいんですけど、あきらが……」
ちょっと、穏やかじゃないみたいで。そう言ったら、みどりさんは「ふふん」と笑って、きれいな指先でチョコをつまんだ。
「イブキくん、口開けて」
「はい?」
「いいから、あーん」
年上の女性には逆らわない、というか逆らえない。ぼくはおとなしく口を開けた。チョコが放り込まれる。甘い。めちゃくちゃ甘い。
「おいしい?」
「……おいひい、です」
甘党のザンキさんだったら喜ぶ甘さだろうなあと思いながら、笑顔で飲み込んだ。上に戻ったらお茶をもらおう。
「そう、このチョコはおいしいの! だからあきらちゃんにも持ってってあげなさい、甘いものは気持ちを穏やかにしてくれるんだから」
「はあ……」
「若い二人が揚げ物定食の大盛りなんか食べてないで、たまにはおしゃれなスウィーツのお店にでも行ってらっしゃいよ」
「ありがとう……ございます……」
突き出されたチョコの袋を受け取る。でも、なんでトンカツ屋さんに行ったことがわかったんだろう……ぼくは自分のシャツに鼻を寄せてみた。でも今はチョコの匂いしかしない。さすがみどりさん……?
「ご注文の品は、来週にはできますからぁ。普通なら三日でいけるんだけど、今回は特別仕様だし、戸田山くんの音弦の修理と重なっちゃったしでねえ、ごめんねえ」
「いえ……こちらこそ、なんだか難しいことお願いしちゃってすいません」
「んーん、だいじょうぶ。だって最初にあの機能つけたの、あたしだし。これから標準仕様にしちゃおうって話もあるくらいだから」
みどりさんは何本目かわからないスナック菓子をほおばりながら、Vサインを出した。
◆ あきらは目を丸くして、手の中のものをじっと見つめていた。
「少し遅くなったけど……序の四段、昇級祝い。どうかな?」
「これ……私の、ですか……?」
「そう。あきら専用の音笛だよ」
ぼくが持っているのと同じかたちだけど、あきらの手に合わせてすこし小振りになっている。色はぼくのよりも淡い水色。
「サポーター用のとは使い方がぜんぜんちがうんだよね。やってみて」
ぼくはベルトからディスクを一枚はずして放り投げた。彼女は今までと同じように音笛を吹く。ディスクは地上に落ちる寸前でヘビのかたちに変わりかけ、またすぐに円盤に戻って地面に落ちた。
彼女は悲しそうな顔で自分の足下を睨みつけてから、ディスクを拾う。
「息だけじゃなくて、いっしょに気を吹き込む感じで……練習が必要なんだ。この子たち貸すから、しばらくやってみるといいよ」
ぼくはアサギワシも置いて、その場を離れた。
コーヒーを飲みながらスケジュール表や鍛錬メニューのチェックをする。
テントの向こうでは、不規則な間隔で笛の音とディスクが起動したり落ちたりする音が聞こえつづけていて、ぼくは口元がゆるむのを抑えられなかった。
一時間近くも経ったころだろうか。
「イブキさん!」
めずらしく弾んだ声が木々のあいだに響く。
ずっと笛を吹いていたからなんだろう、顔を真っ赤にして、息を切らせて、あきらが駆け寄ってきた。
「見てください」
自慢そうに目を輝かせて、彼女が笛を吹く。ニビイロヘビがしゅるしゅるととぐろをほどいて、アサギワシが元気に舞い上がった。
「おめでとう。前の笛と比べて、どう?」
「前よりも、自分の力で動かしてる感じっていうか……ディスクアニマルに、ちゃんと気持ちが伝わってるのがわかります」
式神を動かすには、人の気が必要で、それはどんなに技術が進んでも変わらない。サポーター用でも、全く気を込めないで使えるわけじゃない。鬼よりも、その力を道具に頼っているというだけ。
逆にいえば、鬼の音笛や音叉はもっとシンプルだ。使い手の力しだいで、式神以上のものを動かすことだってできる。その究極が、自分自身。
「これ、変身もできますか」
「できるよ。それはこの先ずっとあきらの音笛だから。……今すぐ、変身したい?」
「したいです」
はっきりとした強い声に、ぼくはうなずいた。
「やってごらん」
「いいんですか?」
「覚悟があるなら。少しでも自分に可能性があると思うなら、やってみるといい」
今度は、あきらが力強くうなずく。
「……見ててください」
「うん」
ぼくはあきらの斜め後ろ、視界に入らないところに立った。
あきらが気を込めて笛を振ると、両側から角が飛び出す。サポーターレベルの鍛錬じゃ角も出せない。ぼくの見よう見まねにしては上出来だ。
「……………」
あきらの気が高まっていく。
呼吸を静め、周りの音を聴き、自分の中の響きを感じる。そう、ここまでは完璧。
笛に唇が寄せられる。
澄んだ音が鳴った、その直後。
「<」
彼女と音笛のあいだに火花が弾けて、小さな身体もはじき飛ばされた。
その身体が地面に叩きつけられる前に抱きとめる。
「……あきら」
返事はない。
呼吸を見て、脈をとって、ただ気を失っているだけなのを確かめて、テントに運ぶ。心配そうについてくるニビイロヘビに音笛を取ってくるよう頼んだら、急いで運んできてくれた。
あきらはすぐに気がついた。
はっと飛び起きて、ぼくの顔を見て「ごめんなさい」と呟く。
「感想は?」
怒るかな、と少し思った。だめと言われてもあきらならやるかもしれない。それなら、ぼくの目の前でやってくれたほうがいい。
「ありがとうございました」
ふっきれたような笑顔が返ってきて、ほっとする。
「来年、できたらいいね」
「はい。がんばります」
音笛が反応するのは、もう鬼としての下地ができてるってことだから。もしかしたら来年は変身できてしまうかもしれない。そしたら、ヒビキさんや戸田山さん並みのスピードだ。ぼくとしては、そんなに急いでくれなくてもいいんだけど……。
「ところでね、あきら。その音笛、特別製でね。変身に失敗すると壊れちゃうんだよ」
「えっ」
彼女はあわてて音笛を手に取り、さっき覚えたとおりに吹いてみる。ディスクの起動どころか、音もしない。振ったり叩いたりしても、なんの反応もない。
「そうなると、みどりさんのとこに持ってくしかないの。だからこっそり練習とかできないんだよね」
気を集めて身体の中の力を高めることができるようになれば、下地は鬼と同じ。でもそこまでなら、鍛えたサポーターくらいのレベルだ。まだいくつかの段階を踏まないと、鬼になるための「境地」は見えない。そこまでいかずに何度やっても、身体を傷つけるだけだ。口ではそう説明されても、音笛は反応するから、ついその先を目ざしてしまう弟子も少なくないのだという。
がむしゃらにがんばりすぎる弟子のため、開発局にその対策を依頼した師匠がいたのだと、吉野にいたころだれかから聞いたのを思い出したのだった。
あきらはぼくと笛を呆然と見比べて、それからくすくすと笑い出した。
「イブキさんにしてはめずらしく、頭脳プレイですね」
「めずらしくはひどいなあ。仮にも師匠だよ、ぼく」
「はい。イブキさんは私の偉大な師匠です」
「それは嫌味だよー」
「考えすぎです」
あきらは、壊れた音笛を大切そうにポケットにしまった。
「鬼になるって、どんな感じですか?」
たまたまたちばなで会った戸田山さんを、めずらしくあきらのほうがつかまえて話を聞いている。自分でも予行演習みたいなのをしたせいか、早く鬼になりたい気持ちが強くなってるみたいだ。
でも、あせっている感じはないし、前向きな姿勢でいいと思う。
「……痛いッス」
予想外の返事に、あきらは目を丸くした。
「痛い……んですか?」
戸田山さんはそのときの感覚を思い出したのか、顔をしかめて肩をすくめた。
「うん……こう、全身感電したみたいに、びりびり~ってなって。変身する前に感電死するかと思いました」
うわ、痛そうだな……。
「いやあ、ほんとに感電してるわけじゃないんスよ。気のせいなんですけどね……でも、変身が解けて自分の身体が無傷なのが信じられないくらいで」
真剣な顔で聞いていたあきらは、その表情のままでこっちを向く。
「イブキさんも?」
「ぼくは……戸田山さんとはちょっとちがうかな」
「痛くないんスか? やっぱオレが未熟だからッスか?」
腰を浮かす戸田山さんをあわててなだめて、ぼくもその隣に座った。
「いえ、痛いですけど。たぶん痛さの種類がちがうんですよ。戸田山さんは雷の痛さ。ぼくは風の痛さ。ヒビキさんとかは、火の痛さなんだと思います」
そういえば、鬼はあんまり変身するときの痛みを口にしない。慣れっこになっているからなのか、ただのやせ我慢なのか。
今度、ヒビキさんに訊いてみよう。あとは水のエイキさんと、土のゴウキさんと、雪のフブキさんと……。
そこまで考えて、なんだか背中がぞくぞくした。痛い話を聞くのは、けっこう痛い。自分の知らない痛みだとよけいに想像してしまって痛い気がする。やっぱりやめよう。そうだ、だからみんなこの話をしないんだ。
「でも、鬼になれた!っていう気持ちは、痛さの上をいきますから! あきらくんもがんばってくださいね!」
「はい」
なんだかんだ言っても、やっぱり戸田山さんはお兄さんだ。戸田山さんがいつか弟子をとったら、こうやって自分の元気を分けるみたいにして励ましてあげるんだろう。
歳は上だけど、鬼としてはぼくの後輩になるこの元おまわりさんが、早く独立できるといいな、と思った。
鬼になるのは、激しい痛みを伴う。
それでもぼくは、鬼になる。あきらを、鬼にしてみせる。
ザンキさんが鬼になるように。かわいい弟子の戸田山さんを鬼にしたように。
ぼくもいつか、あきらに風の痛みを教えることになる。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます