黒崎/池田
呼びかけ
習慣だという筋トレを床の上でこなしている男を横目に見ながら、池田は出されたビールをぼんやりと飲んでいた。
他人の部屋でこれほど寛いで過ごすことなど記憶になくて、感慨すら覚える。元々人づきあいのいいほうでも気安く他人と距離を縮められる性分でもない。友人との馴れ合いも苦手なのに、相手が恋人ともなればなおさらだ。
今、友人とも恋人とも言いがたい奇妙な関係になってしまった彼の横で、少しも緊張していない自分が不思議だった。
風呂上がりに借りた服はちょうどいいサイズで、体格的にはそれほど差がないのだと改めて思う。こうして晒された上半身の筋肉が動いている様を見ると、一回りくらいはサイズが違う気がしてくるのだが。
黒崎の部屋は、予想を裏切ることなく殺風景で余計なものがなかった。もしかしたら、本来は必要なものさえもないのかもしれない。ひとつ言えるのは、彼の収入からすると簡素に過ぎるということだ。テーブルの隅に無造作に置かれた郵便物を眺め、それからもう一度彼を見やった。
「……ふぅ」
背筋を伸ばして呼吸を整えている。どうやら本日のメニューは終了したらしい。
今まで腕立てをしていた場所に布団を敷いてから、黒崎は池田の横にやってきて腰を下ろした。そして、投げ捨てられていたTシャツを手に取る。
硬く締まった体つきに見入っていた池田は、その肉体がシャツに覆われてしまうことを残念に思った。
「着るのか」
アルコールが入っていて、少し口がすべったかもしれない。
シャツをかぶろうとしていた黒崎は驚いた顔で目を瞬かせたが、すぐに腕を抜いた。そして池田の正面に向きなおって顔を近づけてくる。
「いいぞ」
「あ……」
そういうつもりではなかった、とは今さら言えない。
半ばやけくそで、池田は彼の頭を抱き寄せ唇を重ねた。黒崎の体から立ち上る熱気と汗の匂いが池田を包む。
「黒崎……」
名前を口にしたとき、今さっき見た郵便物の宛名を思い出した。普段は意識もしていなかったが。
「……勇治」
「?」
黒崎がぎょっとしたような顔でこちらを見る。その意味は池田も口にした瞬間理解していた。
「やっぱり違和感があるな」
苦笑しながら言葉をつづけると、彼は噴き出した。くすくす笑いながらうなずいている。
知らないわけではないが付加情報としてしか認識していない名だから、彼を呼んでいる気がしない。相手も特別な意味を感じているようには見えなかった。そもそも黒崎が池田を呼ばないのだから、呼称にこだわっても仕方がない。
そう思った矢先。
「……池田」
彼が不意に呟いた呼びかけに、心底驚く。
覚えているかぎり、彼が自分の名前を口にしたのは初めてだ。山吹への耳打ちは山吹の言葉になって出てくるから、実際に黒崎が池田をどう呼んでいるかも知らなかった。
「池、田……?」
彼はそのまま考え込むように眉を寄せる。その意味がわかった池田は、笑い出さずにはいられなかった。
「上司の名前くらい覚えていろ」
だがわざわざ教えてやる気はない。覚えていないということは彼にとって大した情報ではないのだろう。ならば、二人の関係にも重要ではないということだ。
いや、名前以前に。
わずかに手を広げると、彼は心得た顔で抱きついてくる。
「なあ……」
どんなに呼びかけても、彼のほうからは答えをよこさない。うなずくか、目線をよこす程度。微笑みが返ってくるのはかなり心を開いてくれている証拠だろう。その希有な笑顔を見たくて、仕事中とは違う声音で囁く。
「……………」
彼は静かに笑い、池田の胸元に顔をすり寄せた。おもしろがっているようにも、甘えているようにも見える。
どう呼び合おうとも自分たちはこういう関係なのだと、彼の熱を感じながら再確認していた。
明かりを消した部屋で、もつれ合いながら布団の上に転がる。
黒崎を布団に押しつけ、借り物のシャツを脱いだ。彼に比べると見劣りする自分の体が、相手に見えないこの状況は気が楽だ。黒崎は無意味なコンプレックスに首をかしげるだろうけれど。
触れると、硬い筋肉が押し返してくる。汗を拭いたばかりの肌は湿っていて熱い。火照っているのは、ビールを二缶開けた池田も同じだった。
「はっ……」
格闘中は呼吸も乱さない男が、脇腹を撫で下ろされただけで大きく息をつく。脈動は池田を急かすように速くなっていた。耳を舐め上げられたかと思うと、噛みつかれる。いつものことだ。ぞくぞくと体を突き抜ける劣情に、すぐ息が上がりそうになるのも。
「俺が上だ」
なんとなくそういう雰囲気になっていたからべつに言わなくともいいのだが、殊更に宣言してみせると、黒崎はきまじめにうなずき、それから歯を見せて笑った。
池田は改めてジェルを手に広げる。
どこで買ってきたのかその潤滑剤は、無色無臭で黒崎らしいといえばらしい。少し多めに中へ塗り込んでいくと、がっしりした腰が刺激に揺れた。
「く、ぅんっ……」
肩をすくめて目をつぶり、内側を押し広げられる感覚に耐えている。
池田はその表情を少しの変化も逃さないように見つめながら、痛みを与えないよう慎重に、時間をかけて馴らしていった。なにを訊いても答えないから、表情や体の反応から知るしかない。
やがて、彼は目を上げ縋るように池田の腕を掴んできた。前で揺れる性器はすでに先走りに濡れている。早く挿れてほしいということか、それとも。
その意味を掴みかねた池田が、わずかにためらったのが気に入らなかったのか。
掴んだ腕を強く引かれ、そのまま布団に押しつけられる。
「黒崎!?」
乗りかかってきた彼は、池田の腹を押さえつけてひざ立ちになる。
まさか、と思っているあいだに、彼は自ら屹立を後ろへ飲み込もうとしていた。
「んっ……」
濡れているとはいえ狭い入り口へ、容易くは入っていかない。押し倒された身では迂闊に動けず、相手の腰を支えているのが精一杯だった。
「ぅん……っ!」
何かの拍子で力が抜けたのか、彼はがくんとひざを折った。有無を言わさず、つながりが一気に深くなる。池田の熱が黒崎の中を容赦なく貫く。
「っ!!」
池田も一瞬息が止まった。
黒崎の顔にはいつのまにか汗が滲んでいる。
「おい……」
大丈夫、というように、黒崎の指が池田の指に絡みついて握ってきた。
欲しがっていたものを根元まで飲み込んだ彼は、唇を舐めてから大きく息を吸って、ゆっくり腰を揺らしはじめた。
「ぁあっ……」
細いあごが反らされる。あごからしたたった汗が、池田の腹に落ちた。
池田は茫然と彼の痴態を見上げる。眉を寄せた切ない表情も、飲み込みきれずにこぼれる唾液も、ひたいに髪を張りつかせる汗も、眺めているだけで腰に熱を集めていく。そこは今、池田の意志ではどうにもならない状態でただ緩慢な刺激を与えられるだけになっていた。
「ぁあ……んぅっ……」
自ら快感のポイントを探るように、少しずつ腰を浮かせては身をくねらせる動きが、こちらからするとひどく焦れったい。一気に追い上げられるのではなく、少しずつ精を搾り取られていくような。繋がっているのに寸止めされている気分だ。
「悪い……っ」
申しわけ程度に謝罪の言葉を口走り、彼の腰を掴んで突き上げる。
「うぁっ……!」
黒崎の腰が戦きに揺れた。
あわててしがみついてくる体を抱きしめ、さらに奥を穿つ。きつく締めつけられてそのまま達しそうになるのをなんとかやり過ごした。
大きく息をついてこちらを睨む、濡れた視線が妙に心地よくて、わざと乱暴に揺すり上げる。
「……っ!!」
息を飲んだ黒崎は夢中で池田の肩に噛みついてきた。喉の奥から押し殺した喘ぎが洩れる。池田の肌を唾液が伝い落ち、鋭い歯が食い込む。
その痛みは、名前を呼ぶよりも熱烈な、黒崎の「返事」だった。
自分の部屋に他人がいるのは、奇妙な気分だ。
確かにシゲは時々来ていたが、彼はどこにいても自分の家のようにふるまう。池田は、性格上そこまであけすけにはなれないのだろう。黒崎に気を遣わせない程度に寛いでいる。
客など来ないから布団も一組しかなくて(シゲならそのへんに転がしておけばいいのだが)、もう一組買おうかと言ったら、無駄なことはしなくていいと笑われた。
結局、狭苦しい布団の上で背中合わせになったり手足を絡め合ったりしている。それはそれで悪くはない。ただ近づきすぎると眠るどころではなくなるのが難点だった。
暗い部屋の中で、まだ熱が引ききっていない体がふたつ。下着だけは身につけたが、それ以上は暑くて着る気がしない。
黒崎はついさっきまで自分を抱いていた男の背中に、ひたいを押し当てた。
「なんだ……」
池田がこちらを見返る。気だるさを残した流し目が、消えかけていた欲望の燃えさしに火をつける。。
黒崎は彼の肩を布団に押さえつて上向かせると、唇を重ねた。なんの抵抗もなく受け入れられた舌は池田を貪り、それでも足りずに両手の指を組んで脚を絡ませて、全体重で彼を捕まえる。
唇を離して覗き込むと、蕩けた目が見つめ返してきた。
「……………」
汗が引いていない肩に唇を押し当てる。
池田も筋肉質で細身だが、日に焼ける機会がないから肌が白い。柔らかい首筋を吸い上げると、脇腹をひざで軽く蹴られた。その抗議があまり力強くないことに笑いながら、黒崎は痕のつきやすい肌を犯していった。
シャツを脱がなければだれも目にすることはない。襟までピンで留めて守りを固めているスーツの下に自分が触れた唇の痕が残っていると思うと、ひどく楽しい気分になる。
「んっ」
胸の突起をつつけば決まって、かすかに声が上がった。舐め転がして硬くなったそこへ歯を立てながら、内腿をゆっくり撫で上げてひざを開かせる。
「や……っ」
抗議の言葉を飲み込んだ彼は、片手で顔を覆った。暗くて互いによく見えないというのに。
脇腹に噛みつくと、くすぐったいのか大きく身をよじる。黒崎は身を起こし、手で押さえたままのひざに口づけた。それから腿の内側にも、鬱血の痕を残していく。
「……な」
池田が何か呻いた。聞き取れなかったので彼の顔に耳を近づける。ついでにじゃまな腕もどけた。
「焦らすな……」
低い声で呟いた池田は、黒崎の腰を抱き寄せた。下着越しにぶつかった性器は、再び熱くなっていた。
再び全て脱ぎ捨てた二人は、互いの熱を握り込んで高め合う。ゴムの上に先ほどのジェルを使ったおかげでぐちゃぐちゃといやらしい音がして、行為のこと以外は考えられなくなっていく。
池田が上気した顔で、上目遣いに黒崎を見た。
「このまま、中に……」
「!」
その懇願を振り切れる忍耐力は、今の黒崎にはなかった。彼の両ひざを押しやり、ひくついている入り口に濡れた男根を押し込もうとする。
「ぐっ……」
池田は苦しそうに呻き、しかし黒崎を急かした。
「……ぁあ!」
強引に押し入った瞬間、快感が全身を突き抜ける。
思わず加減も忘れて腰を叩きつけていた。
「……んんっ! ぅんっ、ぁっ、ああっ!」
池田が身をよじって喘ぐ。細いが強い指でわしづかみにされた腕が、痺れるように痛い。
彼の腰を抱きかかえてさらに深く突き入れた。角度が変わってあらぬ場所に当たったのか、池田は悲鳴に近い嬌声を上げて黒崎に縋ってきた。
「……ああっ!」
締めつけてくる内壁の反応が返事よりも雄弁で、黒崎は擦り上げるようにして抽送を激しくした。責め立てるほどにきつく締めつけられ、長くは持ちそうにない。
だがそれより先に、黒崎の腹で擦られつづけていた池田自身が限界を迎えた。
「はぁっ……!!」
反らされた腰を抱きしめ、こちらも最奥を穿ちながら吐精する。池田が全身を震わせながらしがみついてきた。
「黒……」
途切れ途切れの息のあいだから、彼が名を呼ぼうとする。わかっていると伝えたくて、その口を夢中でふさぐ。
「んん……っ!!」
息が上がったままの口づけはひどく苦しくて、気を失いそうなくらい快かった。
『勇治』
最初に思い出されるのは、粘ついた甘ったるい呼びかけだった。
親愛と気遣いのオブラートに包まれた、優越感を伴う馴れ馴れしさ。黒崎がその距離に戸惑っているうちに、蜘蛛の糸と同じ成分の愛情で縛りつけられていく。
次に求められるのは必ず、言葉だった。言葉を発しない黒崎から、自分だけが聞くことのできる特別な言葉を引き出そうとする。自分が黒崎にとって、他の誰にも代わることのできない特別な存在であることを確かめたがる。
しかし黒崎が相手が望む言葉をなにひとつ口にできない、どころか持ち合わせていないとわかると、その声はとたんに攻撃的になるのだ。
『勇治』
呼びかけは糾弾へと変わる。直接的な暴言であったり、情に訴える泣き落としや色仕掛けであったり……ありとあらゆる手段を使って攻撃してくる。いっそ殴ってくれればいいのにと思う。肉体的な痛みなら我慢できるのにと。
黒崎は相手の望みどおりにしようと口を開く。だがそのときにはすでに、喉の奥まで糸の塊が詰め込まれ、舌すら動かない。
抵抗も防御もできない心だけを痛めつけた相手は、自らの絶望と悲嘆を免罪符に、用済みの黒崎を廃棄する。跪き懇願し、想いを伝えようとしてもすでに遅い。
『勇治』
最後の呼びかけは失望の色を隠さず、黒崎の存在そのものを拒絶していく。
そんなことをくり返すうち、「特別な呼びかけ」は傷つけられる恐怖と結びついていったのだった。
「黒崎」
そのそっけない呼びかけは、初めから今まで変わらない。
はじめのうちは、朝起きて彼が目覚めるまでのあいだ、あの粘ついた不快感に怯えていた。
抱き寄せて肌に触れ、口づけをしたい、つながりたい。そう願う一方で、過剰な親密さと同調を強要されるのではないかという怖れが黒崎の身をすくませる。
だが池田は、彼が必要だと感じる距離感を崩すことはなかった。彼自身の立場や、この関係に対する戸惑いもあるだろう。それでも、黒崎がなにも答えないこと、自分から呼びかけないことを、そのまま受け入れてくれている。
しかし、と今さらになって思う。
池田のほうはどうなのか。黒崎には理解できない「一般的な感覚」からすると、やはりファーストネームで呼んでほしいものなのだろうか。
遠慮がちに尋ねると、彼は困った顔で首を横に振った。
「……日常生活でまで、実家や妻のことを思い出したくない」
彼もまた、粘る糸に絡め取られていたのかもしれない。あるいは、彼自身が相手を縛ってしまっていたか。どちらにしても苦い記憶であることは間違いない。
実の家族はともかく別れた女にまで連想を向かわせてしまったのは申し訳ないと思う。頭を下げると、彼は感情を込めず「べつにいい」と返してきた。
「男なんてそんなもんじゃないのか。特別な関係だから特別な呼び方をしなきゃいけないわけじゃない」
「……………」
それは考えたことがなかった。自分だけが、あの呼びかけに苦しめられているのだと思っていた。
だが池田は名前など大して重要ではないと言う。もちろんその裏には、「重要なのは姓のあとにつづく役職である」というエリート指向も見え隠れする。しかしそのおかげで、名前という呪縛に囚われることがないのだとしたら、ひどく合理的で小気味よい。
黒崎を最も傷つけてきた「勇治」という言葉は、蜘蛛の糸でも鋭いナイフでもなかった。ただの認識情報だ。
急に気分が軽くなって、うれしいやらおかしいやらで、つい頬がゆるむ。なにも言わずにやにやと笑う黒崎を見て、池田は当然ながら怪訝そうに眉を寄せた。
「どうした?」
黒崎は笑いながら、先日確認した名前を記憶から引っぱり出す。
「……草介」
舌の上に乗せてみたが、それほどの感慨はない。彼の名だという気もしない。彼の言うとおり、「男なんてそんなもの」なのかもしれない。
だが池田は眼鏡の奥で剣呑に目を細めた。
「やめろ、うっかり外で呼ばれたら俺の立場が危うい」
それもそうだ。百合根にさえ人前では呼び捨てにされることを拒んでいた。あのころならともかく、今は自分たちのリーダーである彼をわざわざ貶めることはない。
「了解した……キャップ」
それでいい、と池田は真顔でうなずいた。
(by NICKEL, Aug, 2015)
確認してみた。
山「池田さんの名前、ですか…」
翠「あー、なんだっけ。どっかそのへんの始末書に責任者名書いてあるんじゃない?」
山「そうですね、このあたりに今日提出する始末書があったはずですが…」
青「大丈夫、こっちの始末書に書いてある…えーと、池田草介。ほうれん草のソウに、介の字貼りのスケ」
翠「なんか健康的ね」
池「おまえら、毎日見てるんだからいいかげん覚えろ! それ以前に始末書の数を減らせ!!」
赤「ふふん、侮るな。俺は貴様のプロフィールなど完璧に記憶済みだ。池田草介、滋賀県出身12月6日生まれ射手座のO型、離婚歴あり、同期の百合根友久に出世レースで敗北…」
池「どうでもいい情報ばっかりじゃないか! それにまだ負けてない!」
山「気にすることないですよ、草介さん☆」
翠「そうよー、草ちゃん☆」
青「心配しないで、ぼくらの天才的頭脳はしっかり記憶したから、草・介・くん☆」
黒「……(色じゃないのか)」
池「ていうか黒崎! 既出情報の確認方法が雑すぎる、わからないなら俺に直接訊け!!」
黒「……」
山「本人に訊くのは失礼だと思ったそうです」
池「本人の前で他人に訊くほうがよっぽど失礼だろ!!」
実際は警察関係者も事件関係者も等しくフルネームで記憶してると思います、STメンバーは。
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