黒崎/池田
ROSE FESTIVAL
池田はラボにあふれる色と香りの中にただ佇んでいた。
普段は無機質な(ただし散らかり放題の)空間に、色とりどりの薔薇の花が所狭しと置かれている。その中に埋もれるように、黒い服の男が一人で動き回っていた。
「あいつの鼻はおかしくならないのか」
素直な疑問を口にすると、自席でパソコンに向かっていた青山がいかにも小馬鹿にした笑い声を上げた。
「黒崎さんは警察犬並みだよ。現場に残っていた薔薇の香りと同じものを黒崎さんが見つけ出せなかったとしたら、それはこの花をかき集めてきた人間の落ち度ということになる」
その言葉に、池田の隣に立っていた桃子が露骨な舌打ちをした。気持ちはわかる。業者を巡ってあらゆる種類の薔薇を取り寄せる作業を、池田も半分かそれ以上は手伝ったからだ。
現場には薔薇どころか花も香水もなかった。しかし黒崎の意見を重視する赤城と青山の命令で(彼らの口調は決して依頼ではない、命令だ)、こんなばかげた検証を実行するはめになった。主に自分たちの労力を思うと、なんとしても見つけてもらわなければならない。
無言のプレッシャーをものともせず嗅ぎまわっていたSTの黒い警察犬が、やがて黄色い小ぶりの花を一輪掲げた。
「これでまちがいありませんか」
山吹の確認に、彼は力強くうなずく。
すかさず、翠がリストから品種と取扱業者を抜き出して桃子に渡した。
「ありがとうございます!」
桃子が飛び出していくのを見送って、青山はくるりとパソコンに向きなおる。プロファイリングに新たな情報を加えるつもりらしい。
「じゃあキャップ、花の片づけはよろしく……」
上司を雑用扱いするな、と言い返そうとしたところで、青山がこちらを一瞥してにやっと笑った。
「あ、片づけなくてもいいや。そのうちしおれて花びら落ちるでしょ。そしたらいい具合に散らかって居心地良くなると思うから……」
その言葉に今すぐ撤去してやると決めたが、松戸管理官から連絡が入った。今回のエキセントリックな捜査方法について質問があるという、つまり呼び出しだ。池田は休む間もなく、薔薇に占拠されたラボを後にしなければならなくなった。
直属の上司だったときには毎日少しずつ聞かされていた小言や皮肉を、半月分ほどまとめて浴びせられるだけの簡単なお仕事だ。ネクタイを締めなおしてラボを出たときから覚悟は決めているので今さらそれほどのダメージでもないが、疲れることに変わりはない。
二時間ほどして疲労困憊で戻ってくると、大量の薔薇はどこかへ片づけられていた。
翠のデスクに大輪の紫が三本ほど飾られている。彼女の表情から見て、気に入った花をもらったのだろう。
「……ご苦労だった」
全員にそう言うと、翠と黒崎が軽く手を振り、山吹が小さく頭を下げた。
脱いだ上着を掛けて自分の席に沈む。今日のメイン業務は、薔薇集めと管理官のサンドバッグだけだった気がする。
不意に、デスクの前に音もなく人が立った。
顔を上げると、黒崎がタンブラーに挿した一輪の花を差し出している。薄く緑がかった白い薔薇は、翠のデスクにあるものとも先ほどの「手がかり」ともちがう品種だった。なにより、そのタンブラーは黒崎の私物だ。
「え……」
思わずタンブラーごと受け取ったが、意図がわからず自席に座っている山吹に助けを求める。
「キャップに似合う香りなのだそうです。どうしてもお渡ししたいと」
「……そうか」
常人には、鼻を近づけてもかすかな香りしか感じられない。他の品種とのちがいなどわかるはずもない。黒崎だけが嗅ぎ分け、そして選び取った。池田のために。いや、どちらかといえば黒崎自身の満足のために。
黒崎が眩しそうに目を細めて見下ろしている。
「あ……」
礼を言おうとしたが言葉が出てこない。池田は顔を背け、眼鏡を押し上げた。
「……仕事に戻れ」
返事の代わりに息だけで笑うのが聞こえ、そしてまた足音も立てずに席へ戻っていく。
池田はため息をつき、花瓶代わりのタンブラーをパソコンの横に置いた。
香りはわからないが色ならどうだろう。これが自分に似合うというのなら、黒崎に似合う花はどんな色なのか……
さっきまで目の前に広がっていた薔薇の海を思い浮かべながら、池田の表情はわずかに和んでいた。
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