黒崎/池田
痕跡
顔を洗ったあとで眼鏡をかける。
鏡を見た池田は、思わず目を閉じていた。だがずっとそうしているわけにはいかないので、再び目を開けて鏡に映る自分をしぶしぶ眺める。
歯形、鬱血、食い込んだ爪の痕。胸、腹、腕にまで。視界には入らないが背中や脚にもいくつかある。ちょっとした事件だ。
不意に、鏡にもう一人が割り込んできた。彼は池田と鏡を見比べ、それから気まずそうに顔を背けて自分の頬をさする。
「……見えるところにつけなかっただけよしとしてやる」
眼鏡を押し上げながら鏡の中の彼にそう言って洗面所を出ようとすると、背中から抱きすくめられた。
謝罪したいのだろうが、その一言が出てこない。出てこないからこうして言葉以外の手段で伝えようとする。理解できないわけではないのだが、どうしてこう進歩がないのだろう。彼に限ったことではないが常人離れした能力以外は幼稚園児並みだ。自分が身につけるのはスーツではなくエプロンではないのか。池田はため息をついて、腕を伸ばし後ろにある頭を抱き寄せた。
真横に来た頬に軽く口づけて、その耳元で朝食を作る旨を伝える。黒崎はうなずき、おとなしく池田を解放した。
ほんとうに、チューリップ柄のエプロンが必要かもしれない。もちろんそのときはふわふわ頭の百合根センセイも巻き込んでやると心に誓った。
黒崎の接触は唐突に始まる。そして池田はそれを止めるすべを知らない。
「おいっ、黒崎……」
壁に追いつめられたが最後、池田の腕力ではどうあがいてもかなわない。そのまま強引に奪うのならまちがいなく犯罪行為だが、黒崎はそんな愚かなことはしない。
「…………」
無言で目の奥を覗かれると、顔を背けようが目を閉じようが彼の視線から逃れられなくなる。呼吸の仕方を忘れ、ネクタイをゆるめたくなる。池田は喘ぎながら、彼に助けを乞うことになる。この事態の元凶に。
「……っ」
自分で人工呼吸を要求するかのように、黒崎の頭を掴んで唇を重ねた。息苦しさは変わらない。理屈に合っていない行動を省みる余裕はなかった。顔のあいだにじゃまな眼鏡の存在を感じながらも、外す手間すら惜しく黒崎の唇を貪り、彼の舌に絡め取られるがまま受け入れた。
ゆるんだネクタイを黒崎がひっぱる。だが結び目は却って締まり、黒崎は苛立ちと困惑に眉を寄せた。池田が自ら結び目を解こうと手をかけると、彼は今度はベストのボタンを外そうとする。
ベストはまだいい。問題はシャツだ。小さなボタンホールは焦る指ではうまく外れないらしく、眉間の皺がさらに深くなった。普段は禁欲と忍耐を絵に描いたような男が、全て外し終える前にシャツの襟元へ鼻先を突っ込んでくる。
肌に歯が当たったかと思うと強く吸い上げられ、襟からネクタイを抜こうとしていた池田は、たまらず黒崎の肩に縋りついた。彼が抑えきれないほどに自分を求めているのがわかって背筋がぞわりとしたが、その感覚の意味は言葉にはできない。
シャツをはだけさせて肩に噛みついた黒崎は、今度は早鐘を打つ鼓動を確かめるかのように心臓の上へと頬を寄せる。そして小さくも張りつめた胸の突起を、きつく吸い上げた。
「んっ……」
池田は奥歯を噛みしめて洩れそうになった声を殺した。黒崎の手は裾からシャツをひっぱり出し、わき腹から腰へと硬い指をすべらせてくる。そのどれもが彼以外には与えられたことのない、池田が知らなかった感覚だった。
壁にもたれた背中がずり落ちそうになると、脚のあいだに彼のひざが割り込んでくる。頑丈な腿がスラックスの上から押しつけられた。腰が近づき、彼の中心も熱を持ち始めているのが否応にも知らされる。
「っ、黒崎……」
震えそうになる声で必死に彼を呼ぶ。池田の肌に自分の痕をつけることに夢中になっていた黒崎は、虚を突かれた顔で頭を上げた。いつもの番犬のような表情ではない。赤い唇を濡らし、恍惚とした……雄の顏。池田をおかしくする、理性を奪う目つきでこちらを見ている。
「……ぁうっ」
つい喉を反らせてしまったのは、脚のあいだにある腿が股間を強くこすり上げたせいだ。
黒崎は池田の腰を抱き寄せ、さらに互いを密着させた。熱い息が首筋にかかる。耳を甘く食まれて力が抜けそうになるが、強い腕に支えられてひざを折ることさえできない。
ひどく不安定な、落ちつかない状態だった。だが具体的にどうしてほしいと口に出して求めることはできない。
彼の首を引き寄せ、ひたいを押し当てた。眼鏡が当たるが互いに気にしてはいられない。彼の目を覗き込む。
「…………」
黙ってうなずいてみせると彼の目が見開かれ、池田を抱く腕に力が込められた。
次の瞬間、首の根本に加減なしで噛みつかれる。痛みに呻く間に、ベルトが外されていく。下着ごとズボンを引きずり下ろす動きに少しのためらいもなく、池田の羞恥など斟酌してはくれない。
肌にかかる息がどんどん荒く、熱くなり、食い込む歯の力も強まっている気がした。彼は自分のボトムの前も焦れったそうな仕草で開け、池田の腰に直接押しつけてくる。
「ぁ……っ」
殴りかかられても呻きひとつ洩らさない男が、池田の肩に顔をうずめて小さな喘ぎを洩らす。だがそれを興味深く観察する余裕は池田にはなかった。
「ひっ……!」
喉の奥から声にならない声が洩れる。骨ばった長く硬い指が、奥まで這い込んできたせいだった。
「や、ぁんっ……」
後ろからは中を探られ、前は同じくらいに猛った熱で擦り上げられ、声を抑えることもできない。ただ相手に身を任せるしかなかった。
やがて黒崎はデニムのポケットに手を突っ込み、コンドームを取り出す。準備がいいなと思った池田はほんのわずかに冷静になったが、それも一瞬だった。
力の入らないひざを片方抱え上げられたかと思うと、むりやり開かされたそこへ黒崎の中心が宛がわれた。
「おぃ……ぁああっ!!」
抗議の間もなく、リビングに悲鳴が響く。
突き上げられるまでもなく、自重で一気に根元まで飲み込まされ、満足に息もできない。
「はっ……く、黒……」
ずれた眼鏡と滲んだ視界の向こうに、眉を寄せた顔が見える。
「……いける……っ」
何がだ、と言い返す前に、彼はもう片脚も抱え上げて、池田を完全に自分の腰の上に乗せてしまった。
「……っ!!」
反らされた喉は、音も出さず息を飲んだだけだった。
背中は壁に押しつけられ、両脚を抱え上げられて、それでも黒崎とつながっている……この不安定な体勢から自分で脱けることは不可能だ。
「くっ、黒崎……っ」
落とすなとか離すなとかそんなことを言いかけたとき、相手が動きはじめた。
「んっ……ぅんっ、んぁ……っ」
無口な男は、むしろ饒舌なほどに喘ぎ声を上げていた。甘く濡れた声とは裏腹に、池田を抱える腕も打ち込まれた楔も、恐ろしいほどに力強い。
「やっ……」
なんの抵抗もできないまま、激しく揺さぶられる。腰から脳天まで突き上げる衝撃は、すでに痛みとも快楽とも判断がつかない。ただ、二人の腹のあいだに挟まれ乱暴に擦り上げられている屹立は、すでに一度達してなおその熱と硬さを失っていなかった。
「ぁあっ、んっ、ぁんっ……」
自分がいかにみっともない姿かを省みる余裕はない。黒崎の頑丈な腰に両脚を絡ませ、振り落とされまいと必死に黒いシャツを掴むが、布地は彼の肩からずり落ちて剥がれていく。
池田は苦痛と快感の濁流に飲み込まれそうになりながら、黒崎にしがみついた。突き出た肩胛骨は汗ですべり、指は幾度も彼の背を掻きむしる。そのたびに黒崎は眉を寄せて呻き、池田を決して落とすまいと腰を抱えなおす。
「ぁあ、あっ……」
耳元で黒崎が鼻にかかった喘ぎを洩らした。池田自身も、終わりが近いことを感じ取っていた。
黒崎が洗面台に向かったとき、池田は彼の背中を目にした。
いくつもの赤く長い筋がくっきりと残っている。
「あ……」
つい、自分の切りそろえてある爪を見つめ、それから鏡越しに彼の顔を見た。黒崎の表情はなにも語ってはいない。謝ろうがなかったことにしようが、彼はきっと池田を責めたりはしないだろう。
「…………」
確かに、言葉は喉の奥に引っかかって容易には出てこない。交錯する感情の前に、言葉はなんと無力なのか。
なにも言えなくなった池田は、先ほどの彼と同じように自分が傷つけた背中を抱きしめる。今度は黒崎が後ろに手を伸ばし、池田の頭を軽く叩いた。
鏡の中の彼は、優しげに微笑んでいた。
(by NICKEL, Mar, 2015)
菊「…解剖の結果、被害者は車内で『駅弁』を食べていたことが判明している」
桃「しかし『駅弁』を買ったのは被害者ではなく容疑者だとの証言もあります」
赤「まちがいない、鍵はその『駅弁』だ!」
池「…………」
翠「キャップぅ、さっきから呼吸と心拍数が不安定でうるさいんだけど、『駅弁』がどうかしたのー?」
池「なっ、なんでもないっ!!」
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます