往壓/放三郎

2006_天保異聞妖奇士,[!],[R18]

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士道の名残

こんなときだけ、と思う。

こんなときだけ、男は侍の顔になる。
同輩を尊び、絆を尊び、人の道を貫こうとする、厳粛な侍に。
だがこちらにその気はない。今このときに、己の立場など思い出す必要はないのだ。
それでも男は、かつて侍だった己に立ちもどる。
身分など忘れて欲に溺れたい、閨の中でだけ。

「はぁっ……ぁ、あ……ああっ!!」
声など出さぬという固い決意も、この男にかかればたやすく崩れ落ちてしまう。
「りっ、りゅうど……」
哀れな嬌声を上げて、男の肩にすがりつく己が許せない。
浅ましく乱れたこの姿を、いっそ嘲り蔑んでくれればよいものを。
男は、厳しくも慈しむようなまなざしをくれる。
「小笠原さん……」
律儀に、真面目に、的確な愛撫を施しては、何度も名を呼ぶ。いつもこの名を呼ぶときに込める、皮肉な調子はどこにも見られない。
武士が絆を深めるためどのように睦み合うのか、そもそも士道にそのような作法などあるのかは、知らない。
若い仲間内での慰め合いには興味がなかった。もっと他にすべきことがあったし、それに怖じ気づいてもいたのだ。この行いそのものに。
しかし、遠い昔に身分を捨てた男ならば、ただ欲を満たしてくれるだけの相手になると思った。
この男もそのつもりなのだと思った。
だが、男は昼間は見せない侍の顔に変わる。
武士の身分を捨てても、刀のあつかいは侍以上の腕を持っているように。
学者の家を飛び出しても、難解な文書をたやすく読み下すように。
なにひとつ、忘れてはいない。武士の財産をなにも捨てられていない。未だに背負いつづけている。
「……ずるいぞ」
男にしがみついたまま息を整えながら、思わず呟いていた。
「なにがだ?」
すぐに答えられるほど頭は回っていなかったから、腕に力を込めてもう一度言った。
「おまえは、ずるい」
「ああ……そうかもな」
苦笑いとともに、腰を抱き寄せられた。
「もう少し老けたら、あんたにもわかるさ」
こんなときだけ、男は大人のふりをする。

こんなときだけ。

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