往壓/放三郎

2006_天保異聞妖奇士,[!],[R18]

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『竜導、出かけるぞ』
『竜導、ついてこい』
『竜導……』

現世夢現(うつしよゆめうつつ)

前を歩く背中を見ながら、往壓はふと苦く笑う。
日光から帰ってきてしばらく経つが、ほとんど毎日がこんな様子だ。
己の半分しか生きていない男を「お頭」と呼び、命ぜられるままにあちらこちらへと供をする。使いっ走りだってやる。
侍の、しかも若造の用人などもってのほかだと思っていたが、一度なりゆきで真似事をしてみれば、なんということはなかった。
元から身分は与えられていたのを受け取らなかっただけだから、帰京してあらためて任ぜられる、などという仰々しいことはなかった。放三郎はあたりまえのように「竜導」と呼びつけ、こちらもそれに逆らおうとは思わなくなり、今では腹も立たない。
思えば、これまでもそうだった。盗みなど人の道に外れると疎んじていたが、強盗の手伝いをしてしまったが最後、どうとも感じなくなった。浮民など人ではないと蔑んでいても、なってみればそれなりに生きる道はある。
そう、今までと同じ……
「竜導」
店の中から名を呼ばれて、はっと我に返った。
書物問屋の暖簾をくぐると放三郎はすでに帰る支度ができていて、その脇で番頭がにこにこと包みを差し出している。持てということなのだな、と思い、受け取った。店の小僧に持たせるよりは手間がかからない。それが用人というものだ。
「次は薬種問屋かい?」
行き先を尋ねると、放三郎は見返りもせずに答えた。
「いや、屋敷へ帰る。それとつき合わせたい本があるからな」
「はあ」
心なしか声が弾んでいるのを感じて、これはなにか目新しい書物なのだな、と往壓は包みを抱えなおす。
それっきり、二人は言葉も交わさずに九段の屋敷へ向かって足を動かしつづけた。主従としてはあたりまえのことだ。
屋敷へ帰った放三郎は、とくになにを言うわけでもなくすたすたと自室へ向かう。放三郎の荷物を抱えている往壓も、その後につづいて入らないわけにはいかない。出迎えの者に荷物を渡して帰ってもよかったのだが、放三郎が帰ってよしとも言わぬうちからそれをするのは、用人としては正しいふるまいとは言えないだろう。
「うむ、ご苦労」
部屋で放三郎のために包みを開き、そこで往壓のすることはなくなる。ここで「帰れ」と言われれば、すぐさま部屋を出ていけるのだが、放三郎はすでに新しい本へと気が向いていて、そんな気遣いは期待できない。
もちろん、一言「帰るぜ」と言い置いていけばいい。放三郎も「ああ」などと答えるくらいで、本日のお役目はおしまい、ということになるはずだ。
女中が放三郎に茶を運んでくるのを、往壓は部屋の隅でぼんやりと眺める。
いつもどおりに「あとは呼ぶまで来なくてよい」と言う放三郎は、半ばほど心ここにあらずといった風情だ。今まで連れまわしていた用人のことなど、忘れているにちがいない。だからといって、こちらから声をかけて「そういえば」と気づかれるのも、なにか口惜しい気がする。
そんなこんなで辞するきっかけをつかめないまま、ひまになった往壓はごろんと横になった。主の前で寝そべるなどと本来は許されるはずもないが、その主がなにも言わないのだから、いいのだろう。
調べものに没頭する背中を見ているのもすぐに飽き、目を閉じる。横になってまぶたを下ろせば眠くなるのは人の常で、往壓はやがてうとうとしはじめた。
明るい部屋で目を閉じても、暗闇は見えない。ぼんやりと明るい、朱い幕の中で、往壓は一人きりになる。
そこは静かで、黙っていても心が浮き立つような、奇妙な世界だった。
目をこらしても、なにも見えない。ただなにかがその世界の中にあることだけはわかる。赤い景色の中、黒い影のようなものが往壓を招いていた。
遠くから少女が歩いてくるように見えていたのが、やがて巨きな竜のごとくうねりながらとぐろを巻き、近づいてくるにつれ馬のような影になる。馬なのに、翼を広げているように見えるのはどうしたことか。そこでようやくかたちをとったかと思うと、雲のように流れてまたはっきりと見えなくなった。
『待てよ……』
手を伸ばした。見えずとも、そこにいるのだ。心が躍る。身体の芯がざわめく。
『竜導……!!』
突如、静かな世界に異質な音が響きわたったかと思うと、黒い影は往壓の手をすり抜け、ぱっと散ってしまった。
「竜導!!」
「…………ッ!!」
飛び起きると、覗き込んでいた顔とぶつかりそうになった。
「小笠原さん……」
放三郎は暫し目を丸くしていたが、やがて軽く咳払いをして目をそらす。
「……大事ないか」
「ああ……」
夢を見て、うなされていたのだろう。だが、気分のいい、醒めるのも名残惜しい夢だった気がする。腰のあたりにも熱が集まりかけていたようだ。なぜうなされていたのか、己でもわからない。
頭の中に霞がかかったまま、ぼんやりと目の前の顔を見つめていたら、眉間の皺がさらに深くなっていくのがわかった。
「おれを、案じてくれるのか?」
この男の喜怒哀楽が手に取るようにわかる、というわけではないが、今は怒っているのでないことくらいは察することができる。
「あっ、あたりまえだっ! 貴様は私の……私の、用人なのだぞ!!」
往壓のほうへ身を乗り出していた放三郎は、背筋を伸ばして居住まいを正した。
気づけば部屋は薄暗くなっていて、燭台の横に火を用意しようとしたのが見てとれる。逢魔が時……あちらとこちらが、曖昧になる刻限だ。
往壓はわけもなくじっとしていることができなくなって、なにかに弾かれたように目の前の身体を抱き寄せた。
「竜……ッ」
この身体は、すでに知っている。細い腰も、甘い声も、熱い最奥も……
一度だけだが、それで充分だ。
「ああ……現世(うつしよ)だ……」
息とともに吐き出されたその言葉に、放三郎が身をよじって抗うのをやめた。
「……異界を、夢に見たのか」
「わからねえ……忘れちまった……」
よくは覚えていないが、この心のざわめきはそういうことなのだろう。
それにしても、腹の下にたまっている熱はそのままだ。放っておけば収まるだろうと思いながら、それも惜しい。
覗き込んでくる顔をとらえ、唇を重ねた。
「!」
はじめは身体を強ばらせた放三郎も、往壓の襟をつかんで自ら引き寄せてくる。
「ふ……」
どちらからともなく、熱い吐息が洩れた。息苦しさから逃れるよりも、身を寄せ合い舌を絡め合う悦楽を求めて、二人は厭きることなく相手の唇を吸う。
「竜、導……」
こちらがあたりまえの顔をして組み敷けば、相手もはじめからそうであったような顔をして組み敷かれる。
道を踏みはずすには、たった一度、足をすべらせるだけでいい。一度そこへ落ちてしまえば、あっという間に馴れて這い上がろうという気もなくなる。
今も、目こそ合わせまいと顔をそむけているが、放三郎はもう抗おうとはしない。
その姿を見下ろした刹那、目の裏が紅く染まった気がした。
「竜導?」
往壓は放三郎の肩から、震える手を引き剥がそうとする。
「おれは……なんだってこんな、こんなことを……」
十五年前のあのときと同じ。ただ、人並みの幸せという幻を手にしたくて。同時に、安穏と生きている他人の幸せを奪ってやりたくて。
「あんたを利用してるだけじゃねえか……」
せめて惚れた好いたの甘ったるい心でもあれば、まだ己も相手も騙しとおせたものを。同情からはじまったつながりは、馴れ合いにしかならない。
こちらを怪訝そうに見やった放三郎の瞳には、懲りもせず手近な者を食い物にしようとしている己が映っていた。
「畜生……」
往壓は、放三郎に跨ったまま顔を覆う。
「竜導!」
放三郎が身を起こし、身体から力が抜けていた往壓は転がり落ちそうになった。そうならなかったのは、力強い腕でしっかりとつかまれたからだった。
「すまねえ、小笠原さん……」
哀れな声で許しを乞う往壓を、放三郎はまっすぐに見つめる。
「私が、おまえの現世になろう」
「…………!」
「竜導……おまえが望むなら……」
竜導、と名を呼ぶ、その声はかすれていた。いつもどおり、あたりまえのように、ではない。それは馴れでも堕落でもない、覚悟だから。
「あんた……」
十五年前、一度は往壓を拒んだ世界が。同じ罪を犯そうとしている今、両腕を広げて抱きとめてくれようとしている。
だがその腕のぬくもりにも、すぐに馴れてしまうのだろう。馴れきったあげく、傷だらけにしてしまうかもしれない。どちらにしても、この先に「人並みの幸せ」など待っていようはずもない。
それでも、往壓に拒む気概はなかった。その腕にすがるよりほかなかった。
「くぅ……ぅあああっ!」
往壓は獣じみた呻り声を上げて、若者に襲いかかる。
着物を裂かれそうなその勢いにも、放三郎は臆することなく、往壓を見つめていた。

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