往壓/放三郎

2006_天保異聞妖奇士,[!],[R18]

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「これではまるで……横恋慕ではないか」
嗤おうとしたが、喉の奥から洩れたのは、苦悶の呻きだった。

恋情、惑ひ溺れて

駁に身を変えての激しい戦いを終えた往壓は、人の姿に戻った後も、眠りについたまま目を覚まさなかった。
駁の片割れの馬のほうはしゃんとしていて、汗と妖夷の血にまみれた往壓の身体を舐めて清めようとしていたが、放三郎はそれをむりやりに引き離した。おしゃべりな馬はぶつぶつと不平をこぼしながらも、飼い主の少女に曳かれて厩へと帰っていった。
社の奥へ往壓を寝かせると、四人で代わる代わる見守る。いや、見張るといったほうが正しい。放三郎は駁の力を恐れていた。往壓の意志に関わらず、彼の中の妖夷が暴れ出すかもしれない。だからこそあの馬の妖夷を遠ざけたのだ。
二度目の明け方に往壓が目を覚ましたとき、そこにいたのは放三郎だった。
「竜……」
のそりと起き上がる気配に気づき、声をかけようとする。だが往壓は、放三郎など目に入らないかのようにあたりを見回した。
「雲七……?」
往壓がなにを求めているのかを知り、包三郎の頭に血が上る。こちらは全員が昼も夜もなく彼を案じていたというのに……
「竜導っ!」
びくりと身を震わせた往壓は、今ようやく目が覚めたような顔をしている。
「なんだよ……」
「貴様……」
あらゆる言葉が頭の中を駆けめぐったが、結局なにも口にはすることができず、放三郎は目の前の本を閉じた。
「ケツアルコアトル……雪輪なら、厩にもどっている。おまえとちがって元気だ」
なぜそんなことまで教えてやらねばならない、と思いながら、往壓にとっては半身も同然なのだから仕方がないのだ、と己に言い聞かせた。
「そうか……」
往壓はさびしそうに呟き、それからまた近くを見回して、きれいに畳まれた着物に手を伸ばす。
「竜導……」
「今、何時(なんどき)だい?」
憚りもせず放三郎の前で下帯をつけはじめる往壓から目をそらし、舶来物の懐中時計を懐から取り出す。時を告げる鐘も聞こえず、昼も夜もなく明るいこの場では、日の高さで時刻を知ることができない。
「そろそろ卯の刻だ」
「もう朝か……」
のんびりと言い着物に袖を通す姿に、またしても憤りを覚えた。
「竜導! 貴様、一晩しか寝ていないと思っているのか!」
「え……」
「我らが寝ずの番をするのは二晩目だ! おまえはその姿に戻ってから丸一日と一晩、ずっと眠っていたのだぞ!」
「なんだって……」
帯を締める手が止まった。ふっとため息をついて、放三郎は彼を見上げる。
「竜導……気づいているのだろう? 眠りが長くなっている。それだけ、人へ戻るのにかかっているということではないのか?」
「……」
往壓は無言で帯を締めると、肩にかかったままの蓬髪を結いはじめる。
「もう、駁にはなるな。おまえの力なら、あの妖夷の力を借りずとも戦えるはずだ」
「それはできねえ。近ごろの妖夷は強いからな……」
きっぱりと言い切るものの、決してこちらを向こうとはしない。言葉を裏切る煮え切らない態度に、放三郎は思わず声を荒げていた。
「竜導! なにを隠している!? 駁になる理由は他にあるのだろう!?」
「…………」
いつもよりはていねいに髪を結い上げてから、往壓はふっと息を吐き出した。
「小笠原さん……」
社の入り口から下りる階段の、いちばん上に座り込む。
「あんた……明日から妖夷の肉が食えねえ、いや目の前にはあるんだが食っちゃならねえ、ってことになったら、どうする?」
「話をそらすな……」
「そういうことなんだよ。正直、妖夷退治なんぞ言い訳だ。おれはもう、雲七なしじゃ生きていけねえ。この身は、あの交わりなしじゃ……」
放三郎の全身に鳥肌が立った。
「交わり……」
座っているのに、ひざが震える。着物の下にじっとりといやな汗がにじむ。
「……やはり、そうだったのか」
予感はあった。
往壓が放三郎に「雪輪」の存在を隠していたこと。その「雪輪」へ向けるまなざしが、友に対する以上の熱を持っていたこと。戦いの程度に関わらず、駁から戻るのに長い休息を要すること。
ただそれはあまりにおそろしくて、認めるわけにはいかなかったのだ。
その不快さは、言葉では表しようもない。妖夷の肉を喰らい、死人の腹も自ら腑分けする放三郎だが、妖夷と交わるというそのおぞましさは比ではない。
かすれる声で、放三郎は懸命に問いかける。
「妖夷の味を知ってしまえば、並みの食べ物は砂のように感じられる。では、妖夷との交合を知れば……」
どうなる、とまで声が出なかった。
「あんたに、それを言わなきゃならねえかい?」
少しずつ、足元が崩れていくような心持ちになる。それでも放三郎は問わずにはいられなかった。たとえ己を奈落へ突き落とすことになろうとも。
「では……」
舌が渇いてうまく動かない。ひりつく喉から、むりやりに言葉を搾り出す。
「私との戯れにも、興味が失せたということか……」
戯れなどとは、思ったこともない。だが往壓がそのつもりであったのなら、それはほんの暇つぶし、ちょっとした行き違い程度のつながりでしかなかったということだ。
「それはちが……」
往壓がなにかを言おうとしたとき、社の外で水音がした。
「おやおはよう、往壓さん」
「よかった、目が覚めたんですね」
元閥とアビが舟から降りてくるのを、往壓は立ち上がって出迎えた。
「おう、迷惑かけたな」
何事もなかったかのように彼らは言葉を交わし、いつもと変わらぬ一日がはじまる。少なくとも往壓はそうしようとしていた。
「…………」
薄暗い社の中で、放三郎はひとり顔を覆ってうずくまる。
頭ではなく身体が、その事実を拒もうとしていた。
妖夷と交わるということ……
それはもはや、人であることにすら固執していないということだ。武士だの浮民だのといった上っ面の身分を拒むのとはわけがちがう。
『それでも生きていかなきゃならねえんだ』
さまざまなものを壊し、拒み、逃げてきた往壓は、そう言った。この世で生きていくのだと。その言葉は本心だと信じていた。
放三郎のいるこの世で、ともに生きるのだと……
浅ましい。
己の浅ましさに腹が立つ。
「これではまるで……」
心が通い合っていたと思っていたのは、こちらだけなのだ。
逃げることをやめた往壓の安寧は……
「横恋慕ではないか」
嗤おうとしたが、喉の奥から洩れたのは、苦悶の呻きだった。

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