ホームズ/ワトソン
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視線
彼はただ、私だけを見つめていた。
それに気づいたのは、サングラスと帽子とこの距離が、私も彼の姿を認めているという事実を隠してくれたからだ。
無防備な表情で、彼は私を眺めている。呆れているといったところだろう。
たしかに、犯人を取り押さえたはいいが、ヤードに身柄を引き渡したところでくたびれきって、噴水のそばに座り込んでしまっている。上々の首尾とは一見言いがたい。私よりも体力がある彼から見れば、不甲斐なくも思えるだろう。
それにしても、彼はなぜ私に声をかけないのか。
私が気づいていないと思っているからだ。現場検証の警官たちがひしめく広場で、自分も人混みに紛れていると思っている。だから、そんな観察するような目を遠慮もなく向けてくる。
しかし、我々のあいだにはそもそも遠慮などないはずだ。彼の思考を辿っていくと、私はいつもそこで行き詰まる。
彼はなぜ、私を人混みから見つめるのか。
私は顔を上げてぐるっと広場を見わたし、初めて友人の存在に気づいたという素振りをしてみせる。帽子を少し上げて合図をすると、彼はようやく歩み寄ってきた。
「気が済んだかい、ホームズ」
冷たい声が降ってくる。
見上げれば、その声と同じくらいにクールな色合いの瞳が私を見下ろしていた。
「やあ、久しぶりだねワトソンくん」
「ああ……五時間ぶりかな」
正確には五時間四十五分ぶりだ。懐中時計はしばらく見ていないが、さっき聖堂の時計が鳴ったからまちがいない。
私が手を伸ばすと、彼は当然の顔で腕を引っぱり上げてくれる。ほとんど力も入れず立ち上がった私を、まだ強い硝煙の匂いが迎えた。
別れる前はなかった袖の綻び、帽子の汚れ、コートのボタンも一つとれかけ、仕込杖のつなぎ目に拭い残した血がついている。そして彼自身に怪我はない。古傷を抱えた足を庇いながら歩いてきた姿も普段どおりで、どこも痛めていないことは明白だ。
彼が私の期待通りの働きをしてくれたのがわかってうれしくなり、握手を求めた。しかし返ってきたのは相変わらず冷淡な表情と言葉。
「すぐに終わると言ったよな?」
「だから、夕食の前には終わらせたじゃないか」
論理的に答えたつもりだったが、その返答は彼を不機嫌にさせたらしい。さっさと私に背を向けて、馬車を拾うために歩き出す。
「ワトソン」
私はその場に立ちつくしたまま、コートの汚れを払いながら彼を呼び止めた。サングラスを外してポケットにしまい込んでいるあいだに、彼が嫌そうな顔をしてもどってくる。
「なんだ?」
冬空にも似た、ブルーグレーの瞳が私を覗き込む。その瞳が揺らぐのを見たくて、私はあごを上げた。
「きみはどうか知らないが、私はこれくらいの距離できみの顔を見ていたいね。それもこんな往来ではなく我々の部屋の中で」
「ホームズ……ッ!」
言葉に詰まった彼は、予想どおり狼狽の表情を浮かべて私につかみかかろうとする。その腕をすり抜けて、私は軽快に石畳を蹴った。今夜はさぞやかましくあれこれと言われることだろう。
そんな時間を予想しながら、辻馬車を拾いに向かう。追ってくる足音は聞こえない。迷っているのだ。帰る場所は同じなのだから迷っても仕方がないのに。
しかし彼が私だけを見つめていることは、推理するまでもなくわかっていた。
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