ホームズ/ワトソン
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固い殻
その依頼人が出ていくのを見送り、ワトソンは感嘆のため息をついた。
「実に魅力的な女性だったな。恋は女性を美しく見せるものだ」
「そうかい。まるで気づかなかったよ」
椅子に身を沈めた探偵はといえば、持ち込まれた事件のことしか頭にないらしい。そこに付随するロマンスのほうには興味がないようだ。半ば上の空で呟かれた言葉に、少し不快な気分になる。
「きみはこういうとき、機械のように人間性を感じさせないな」
ホームズはパイプをくわえながら、上目遣いでちらりと相棒を見やった。
「恋愛感情はたしかに麗しいものだが、理性的な判断にとっては障壁でしかない。ぼくは自分の人生を乱されるような人間関係には興味がないというだけのことだ」
「ふん……」
散らかった机の上に控えめに飾られている写真立てを見やった。
アイリーン・アドラーの事件についてはワトソンもよく知っているが、なぜホームズが彼女にそこまで固執するのかは未だに聞き出せたことがない。
「きみが後生大切にしているその写真の女性については、どう説明するんだ?」
ふっ、と煙を吐き出し、ホームズは天井を仰ぐ。それから、机の上に転がっているクルミを投げてよこした。彼の机にはなぜそこにあるのか見当もつかないような品々が雑多に転がっているから、ワトソンも今さら驚かずに受け止める。
「クルミがどうかしたか?」
「きみは、素手でこいつを割れる女性に、敬意を払わずにいられるかい?」
ワトソンはクルミを握りしめてみたが、手が痛くなっただけだった。人間業では難しい。レディにはなおのこと。
こんな冗談でごまかそうとするのは、彼なりの照れ隠しなのだろうか。
「だが、アイリーンのほうはきみを愛してるんじゃないのか」
「まさか。ありえない」
そう答えた顔は真剣そのものだった。
「……その根拠は?」
「彼女は自分にとって有益な恋愛しかしない」
あまりにきっぱりと断言するものだから、彼の推理力に裏づけられているのだろうと信じて尋ねればこれだ。
「名探偵が聞いてあきれる」
クルミをテーブルに放り投げ、ワトソンは立ち上がる。
ホームズの前に立つと、彼はパイプを口から離して大きな目で見上げてきた。
「ホームズ……」
低い声で囁きながら彼の頬に触れる。あたりまえのように、ホームズはあごを上げて目を閉じた。
ワトソンは身をかがめて、煙草の味がする唇を存分に吸った。
濡れた音を立てて舌が離れ、ワトソンは息を切らせて身体を起こす。
「……この関係については、その矛盾点をどう説明する?」
ふいっと顔をそむけた名探偵は、再びパイプをくわえる。
「ぼくたちのあいだにあるのは……深い、とても深い友情だけだ。建設的で、ぼくの思考を妨げない……」
「建設的? 本気で言ってるのか?」
引きつった笑いを洩らすワトソンを、ホームズは上目遣いに一瞥して煙を吐いた。
「ぼくが有用だと思うものにきみが同意するとは限らないのは、コカインの件で了解済みだ」
「私をコカインといっしょにするのか……」
たいへんな侮辱だと腹を立てかけ、しかしそれはホームズが言うのとは逆の意味合いで真実であることに気づく。
一度手にすると離れがたく、中毒性が強い。一時的な快楽は得られるが、常用は確実にその人間を蝕み、堕落させていく……まさに、今の二人の関係だ。
警告しなければ。このままでは二人とも堕落していく一方ではないか。ワトソンが口を開きかけたとき、ホームズが深く息を吐き出して言った。
「きみがなんと言おうと、ぼくにはきみが必要だ。この先もずっと、永遠に」
「……!!」
倒れそうになった。実際、足下がわずかにぐらついた。
そんなとりすました顔をして、純粋なる推理から導き出された論理的な結論とでも言わんばかりに愛の告白をする輩が、どこの世界にいるものか。
思わず彼の前にひざまずいて永遠の愛を誓いそうになり、なんとか踏みとどまる。
彼から視線を引き剥がし、窓へ歩み寄った。勢いよくカーテンを押しのけて窓を開けると、やわらかな光と冷たい空気が部屋へと入り込んでくる。
ふり返ったワトソンは、声も高らかに宣言した。
「決めたよ。私は半年以内に結婚する」
陽光を避けて椅子へ沈み込みかけていたホームズは、椅子の背からあわてて顔を出した。
「だれと!?」
「妻となるべき人とだ」
もちろん二人とも、今のワトソンにそんな相手がいないことはよく知っている。彼は「はっ」と大仰に笑ってみせた。椅子から立ち上がって教師のように手を後ろに回し、諭す口調で語りかけてくる。
「無益なことはやめたまえ、ワトソンくん。きみにもいつかわかるさ」
わかっていないのはきみのほうだ。
そう言ってやりたかったが、飲み込んだ。彼の頑固さはいやというほど理解している。コカインはやめるようにと説得して彼が聞いたためしはない。きっと同じ結果になるだろう。
「さて、先ほどのお嬢さんの事件を片づけなくてはな……なに、今日中には終わるさ。さあワトソンくん、支度をしたまえ」
ワトソンの横を通りすぎるとき、その肩に手を置いたホームズは少し背伸びをして軽い口づけをくれた。上機嫌な証拠だ。
たまらなく甘いこの関係を、しかし彼は恋愛ではないと言う。
いかなる人間の感情をも即座に見抜く男が、自分の気持ちだけは自覚できないとはなんという皮肉だろう。医者の不養生よりなお悪い。
テーブルの上のクルミを拾い上げて握りしめる。
「素手で割るだと……?」
当然ながら固い殻はびくともせず、ワトソンはそれを最愛の友人が座っていた椅子に投げつけた。
それで、むりやりに気が晴れたことにした。
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