往壓/放三郎

2006_天保異聞妖奇士,[!],[R18]

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悪夢

「!!」
飛び起きてから、そこがいつもの寝所であることに気づく。
ここで寝起きするようになってかなり経つというのに、今はまるで見知らぬ部屋だ。
目の裏に、赤い月が焼きついている。
穏やかな日々にまぎれて、久しく見なかったものを……
「はあ……」
深く息を吐き出したとき、隣室で人の動く気配がした。
「竜導?」
掛けられた声とともに、襖が開く。
「小笠原……さん……」
夜着姿の彼は目を見開いて、常ならぬ慌てた様子で布団の傍らへひざをついた。
「どうしたのだ」
真顔で覗き込んでくる目が、闇の中でも大きく見える。
「どうって……」
答える前に、指がすっと頬をかすめた。
「……?」
理由を求めて見上げるが、彼はおかまいなしにこちらを見つめている。
「……消えてゆく」
安堵して、しかしどこか名残惜しげに呟くのを聞いて、謎が解けた。
「寝ぼけて漢神でも出したのか」
「まあ……そんなとこだ……」
只の夢でないことは気づいていたから、知らずのうちに力を使おうとしていたとしても不思議ではない。目ざめなければ二度と戻れなかったかもしれぬと思い、密かに戦慄く。
そんな恐れを気に留める様子もなく、若き主は消えた紋の痕を指先で辿った。
「前々から気になっていたのだが……」
「ん?」
目の前の男に縋りたい心を、僅かな自尊心で抑え込み、笑みを作ろうとする。だが彼は、こちらを見ているようで見ていなかった。
「この紋様は、どこまでつながっているのだ?」
「ああ……」
この無邪気さが、今は救いだった。余計な詮索などされるよりよほどいい。
もう少しむりのない笑顔を作り上げると、学者らしい好奇に満ちた瞳を見返した。
「小笠原さんには、どこまで見えてるんだい?」
「そうだな……」
彼は、汗ばんだひたいの中央に冷えた指先を当てる。そこからすっと下ろし、頬から首筋へと文字を書くようになぞっていった。
「……っ」
こそばゆさに身を震わせたが、彼のほうには意に介する気配もなく、冷たい掌が胸に押し当てられる。そのまま腹へと撫で下ろされた。
「ここまでだ」
「そうかい」
襟から覗く肌がそこまでだからだ。それより先は……
青年のかじかんだ手を取った。
「実はな……俺にもわからねえんだ。その姿のときは、無我夢中だからな」
腕や腹ならば目に入ることもある。水に映った顔を見たこともある。だが背中まで広がっていれば知りようもないし、気にしている間もない。
「だが、身体の奥まで熱くなる……ひょっとしたら、このあたりまで出てるかもしれねえ」
言いながら、彼の手を腹の下へと引き寄せた。夜着の上からとはいえ、雄に掌を押しつけられた彼は、僅かに目をすがめた。
「……誘うのか。私を」
心を読ませぬ落ちついた声は、それでも怒ってはいない。
「誘われてくれるかい?」
にやっと笑いかければ、困り顔に近い笑みが洩れる。
「また腰が痛むなどとぼやいても、お役目から外したりはせぬぞ」
「わかってるさ。お役目のために、俺ぁここにいるんだ」
この男の役に立つために。
そのためなら、この身を竦ませる異界への恐ろしさなど如何ほどのものか。
「小笠原さん……」
甘ったるい声で囁けば、気丈な声が返ってくる。だから信じられる。
「往壓……」
この迷いのない声こそが、己をここにつなぎ止めているのだと。

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