往壓/放三郎

2006_天保異聞妖奇士,[!],[R18]

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声を掻き消すほどの豪雨

 雨に打たれる紫陽花は風情があるものだが、と往壓はぬかるんだ道を歩きながら思う。花も落とす勢いで叩きつける雨は、どうにも気が滅入る。しかもそれが何日もつづけば、空の水瓶もいいかげん尽きぬかと不安になるほどだ。
「……聞いておるのか、竜導!!」
「!!」
 肩を掴まれてはっとする。傘がぶつかるほど近くに放三郎が立っていた。
「神田川は入り口がふさがっておる! お堀から入るぞ!!」
「ああ!? なんだって!?」
 雨音が激しすぎて、互いの声もよく聞こえない。放三郎は業を煮やしたように往壓の耳を引っぱり大声で怒鳴る。
「お堀から行くと言っている!!」
「……………」
 返事をする気力もなくて、耳を押さえてうなずくしかできなかった。

「雨女郎……ですか」
 アビが耳慣れぬ言葉に首をかしげる。
「憶測の域を出ぬがな」
 そう前置きして、放三郎は江戸の怪談めいた話を語りはじめた。
「とある旅籠に、器量のいい飯盛女がいたそうだ。だが客をとった翌朝に必ず雨が降るという噂が立ち、客が寄りつかなくなったという」
 雨が降れば、出立が遅れる。雨を喜ぶ旅人などいない。雨を呼ぶ女と夜を過ごそうと思う男もいない。そして、客をとれぬ女郎に生きるすべはない。女は暮らしが立ちゆかなくなり、自害した。所以もない噂に殺される……江戸の町ではよくある、哀しい物語だ。
「その恨みで、こんな雨を降らせているというのですか」
 宰蔵の真摯な問いに、元閥が苦笑を洩らした。
「なんでも妖夷のせいにしたいんですよ、お上は」
 無礼ともとれる神主の言を、幕臣の放三郎は咳払いで制する。
「しかし、たしかにこの雨は尋常ではない」
「ええ、そうですね。この二百年、前島聖天が沈んだなどという記録はない。あたしだってなんとかしたいと思ってるんです」
 奇士たちが顔をつき合わせている社の外には、いつもとは異なる光景が広がっていた。舟着き場はおろか、社から下りる階段も、五段より下は水に沈んで見えない。いくつかの水路は舟も通り抜けられない。
 江戸の町が水浸しになろうとも、水位が上がることなどほとんどないこの地下空間には、深刻どころではない状況ではあった。
「降りすぎる雨……女郎……」
 いくつかの書を開きながら考え込んでいる放三郎を横目に、元閥は往壓へと意味ありげなまなざしを向けた。気づいた往壓は肩をすくめる。
「……もう少しだけ、待ってくれ。まだ確証がねえんだ」
「前島聖天のお社が、鮒や鯉の住処にならぬうちにお願いしますよ」
「わかってるさ」
 二人は、足下まで迫った水面を覗き込む。どこからまぎれ込んだのか大きな鯉が、階段の下を横切っていった。

 草木も眠る丑三つ時……とはいえ、降りつづく雨のおかげでにぎやかなことこの上ない。
 小笠原屋敷の離れで、往壓は布団の上に座って待っていた。そろそろだ。
 ここ数日のならいに違わず、白い夜着姿の彼が現れた。雨ざらしの渡り廊下を歩いてきたせいで、着物の裾は濡れ、鬢もほつれ乱れている。
「往壓……」
「小笠原さん……」
 まっすぐこちらを見つめているようだが、どこか虚ろな目つきだ。往壓はため息をつく。
「いや、雨女郎……と呼んだほうがいいか?」
 放三郎の表情は変わらない。それどころか、ためらいもなく往壓の正面に手をつき、身を乗り出してきた。鼻先が触れそうなほどに顔が近づく。
「往壓……」
 縋ってくる腕を払いのけるわけにもいかず、往壓は細い身体を抱きとめた。気丈な放三郎にはあるまじき振る舞いだ。
 つまり、「これ」は放三郎ではない。
「行くな往壓……ずっと、私の元に……」
 彼の声で、彼の言葉で、雨女郎は優しく囁きかけてくる。だがそれは彼の真意ではない、ということだ。往壓は胸の奥に鈍い痛みを感じながら、目をそらした。
「雨を降らせば、愛しい男のそばにいられると思ったか……」
 濡れた夜着の襟をくつろげ、白い胸に手を当てた。この中に雨女郎の正体が隠されている。それを引きずり出してしまえば、長雨を終わらせる糸口がつかめるだろう。
 だが、その手を上から押さえ込まれる。
「!!」
 早鐘のような鼓動も、硬くなめらかな肌も、たしかに彼自身のものだった。だからこそ、今まで手が出せないできたのだ。雨が降りはじめてから、彼は毎晩のようにやってきたというのに。
「あと一晩……今宵だけでも……」
 放三郎の身体は、他でもない往壓を欲しがっている。心はちがうのだと知りながらも、逆らうことができない。
「くそ……っ」
 ねだる身体を布団に押しつけた。帯を解き夜着を引き剥がし、その肌に噛みつく。
「往壓……っ!!」
 身も世もなく喘ぎ啼く声は、激しい雨の音にかき消されていった。

 確証がなかった。その名が話題に上るまで、水煙のようにぼんやりとした気配しかつかめなかった。
 戦う術を見いだせなかったのもある。相手は雨だ。切ることも打つこともできない。妖夷としてのかたちもあるかどうかわからない。
 だがどれほど言い訳をしようとも、結局は己に負けたのだ。
「あ、ぁあ……っ!」
 躊躇いも羞じらいもない声が上がる。
 縋るように締めつけてくる内側が、まともな頭のはたらきを鈍らせる。求められるままに奥まで突き込めば、彼は悦楽にすすり泣きながら、ひたすらに囁きつづける。
「行くな……ぁっ、行かないでくれ……」
 彼の声で、彼の言葉で。往壓は心が縛られていくのを感じながら、逆らうことさえできなかった。
「黙れ……」
 低く呟き、その口をふさぐ。普段は堅苦しい言葉だけを紡ぐ舌が、手練れの遊女のような巧みさで絡みつき、男を誘う。腰に熱を集めているせいもあって、息苦しさに眩暈を覚えた。
「はっ、はぁ……っ」
 舌が絡み合う音も、局部からの濡れた音も、荒い息も甘い喘ぎも、すべてが雨音に負けて消えていく。
 だからなのか。遠慮をかなぐり捨てて二人は求め合った。だれにも……自身にさえ、聞こえないのだから。
「ゆき……っ!!」
 愛しい男の名を呼びながら、彼は果てた。
 往壓の背に爪を立てていた手がすべり落ち、瞼が閉じられる。
「おい……小笠原さん……?」
 いらえはない。気を失ったようだ。
 今までそんなことはなかった。先に疲れて眠りにつくのはいつも往壓のほうで、気づくと放三郎……放三郎の身体を借りた雨女郎は、離れから姿を消していた。
 彼自身が弱っているのかもしれない、と思い、身震いする。あれこれと理由をつけ、欲望のままに雨女郎と交わることで、彼の身を削っていたとすれば……
「……っ!!」
 障子戸を開ける。やかましい雨音が一斉に耳を突き刺した。
 叩きつける雨はもはや壁のようだ。闇夜を水煙で鈍色にぼやけさせ、向こう側の母屋すら雨の壁に塗り込めて見えなくしている。
 往壓は暗い雨を睨みつける。もう、猶予はない。
「うちのお頭、返してもらうぜ……」
 白い胸に手を当てた。
 往壓の力に逆らいながら、文字が身をくねらせて引きずり出される。
「この字は……」

 淫。

 あふれんばかりの水。なにかを求め伸ばされた手。
 その字義は。
「降りすぎる、雨……」
 かすれた声が聞こえ、往壓は腕の中の男をはっと見る。目を閉じていたはずの放三郎が、往壓の腕に縋りながら身を起こそうとしていた。
「光だ……」
「小笠原さん!?」
「雨を晴らすには、光を……」
 白い手が往壓の胸に押し当てられる。この中にある力を使えば、敵を倒せるということか。
 往壓はその手を握り、自らの胸から光を取り出した。
「これは……」
 月の光と、日の光。
 壓の字から取り出した二つの漢神は、かたや弧を描き、かたや円を形づくり、鋭い刃となって回転しながら空目がけて飛んでいく。
 二つの刃は手裏剣か戦輪のように空を飛び交い、雨雲を切り裂いて回った。
 悲鳴とも雷鳴ともつかない音が夜空に響いていたが、しばらくして静かになった。雨も、いつのまにか細かい銀糸へと変わっている。
 ただ空を見上げていた放三郎が、わずかに身じろぎした。
「私は……」
「雨女郎だよ、小笠原さん」
 往壓はもう一度、濡れた白い胸に手を当てる。
「あんたの中に、雨女郎がいた」
 先ほどとは逆に、その手を放三郎の手が覆った。
「雨女郎……」
「その女は、客に惚れちまったんだろう。その想いが雨を呼んだ。雨が降りつづければ、客は旅籠に足止めされるからな。だが雨がつづくほど、女は嫌われる。哀しくて、悔しくて……いつしか妖夷になっちまった。なんにしろ、切ねえ話だ」
「そう、か……」
 放三郎は再び夜空を見上げる。今や雨はきれいに上がり、切り裂かれた雲の合間からは、星が覗いていた。
「すまねえ、俺がもっと早く……」
 詫びの言葉を遮るように、彼はぽつりと呟く。
「行くな……ずっと、私の元に……」
 半ばぎょっとして見下ろしてくる往壓に、放三郎は苦く笑った。
「雨女郎は、なぜ私に憑いたのであろうな」
 気丈な声でそう言いながらも、細い腕が往壓の首にまわされる。
「去りゆく男に恋い焦がれる女など、この江戸にはいくらでもいように……」
 いつかは旅立ち、去ってしまう男を想い、女は雨を降らせた。男を止められないのは、いやというほどにわかっているのに……
 わけもわからず不安に襲われ、往壓は細い身体を抱きしめる。
「……どこにも行かねえよ! ずっとあんたのそばに置いてくれ。どんなに晴れてたって、俺が行くとこなんざ他にねえんだ……」
 放三郎は答えず、ただ寂しそうな笑みを浮かべただけだった。


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