往壓/放三郎

2006_天保異聞妖奇士,[!],[R18]

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春時雨

 今まで晴れていたのに、さあっと降ってきて。あわてて軒下へ駆け込めば、何事もなかったかのように上がってしまう。ほっと息をついてまた歩き出せば、剃り上げたばかりの月代へ、またぽつりぽつりと雨粒が当たりはじめる。
 なぜ傘を持たずに出たかとひとり苛立ってみても、隅田川を目の前に今さら引き返すことなどできない。ここまで来れば進むほうが早い。
 雨宿りと小走りをくり返し、目ざす家についたころには、着物に浸み込んだ雨と跳ね上げられた泥で、ひどい有様になっていた。その長屋も今は泥の中に建っているようなものだったが、ここまで着たらもう泥もなにも気にしようがない。
「竜導、私だ」
 返事の代わりに、戸になにかがぶつけられる音がした。それが「いるぜ」という意味だとわかっていたから、ためらわずに戸を開ける。ほとんど真っ暗な中に、男がだらしなく寝そべっていた。
 放三郎は暗がりの中に足を踏み入れ、戸に投げつけられたかわらけを蹴り飛ばす。
「なんだい……こんな天気だってのに」
 しゃがれた、眠そうな声が放三郎を迎える。
「布団くらい上げたらどうだ」
「今日みたいな日は、寝るより他にするこたぁねえだろ」
 だが昼まではよく晴れていたのだ。わざわざ敷きなおして寝ているのか、と思い、思わず深いため息が洩れた。
「……ありがたく思え、忙しくなるぞ」
「妖夷か」
 そこだけは声を硬くするのが、往壓らしい。放三郎もうなずき、裾をさばいて腰かけた。
「稲荷の狐どもが、また騒ぎはじめている。本格的な騒動になる前にどうにかするのが、此度のお役目だ」
 相手がなじみの狐だと知って、身を起こしかけた往壓は半笑いで布団に倒れ込む。
「こんな雨の日は、狐だってお社に籠もって昼寝でもしてるさ」
「貴様は……」
 やる気のない男に苛立ち、ついでに頬に張りつく髪に苛立つ。髪だけでも直そうと鬢を撫で上げてみるが、幾度かの通り雨に叩かれた髪は、そうたやすく直ってはくれない。そこの布団に張りついている男と同じだ。
「とにかく! 私とともに来い。稲荷ならば江戸のどこからでも調べられる……」
 その声をかき消すように、急に強くなった雨が薄い屋根を打ちはじめた。
「……ま、やんだらな」
 男はごろりと転がり、湿った布団にうつぶせになる。動くようすもない。
「竜導!」
 とはいえ、たしかにこの雨の中をわざわざ出ていくのはばかばかしい。どうせすぐにやむだろうと、放三郎は忌々しい雨音に耳をかたむけた。

 雨は少しも弱まる気配がなく、もとより気の長い質ではない放三郎はすぐに厭きてしまった。
「……竜導」
 息をしているのかと疑いたくなるほど、わずかも動こうとしない男に、声をかけてみる。
「ん? 稲荷の話なら、晴れてからに……」
「いつまでこんなところに住んでいるつもりだ」
 往壓が、もそりと頭を動かしてこちらを見た。
「つまらん意地を張るのはやめて、私の屋敷へ来い」
「意地だと……」
 放三郎はそう思っていた。
 往壓がこの長屋に住みつづける理由はなにもないはずなのだ。奇士となった今、異界から逃げつづけて転落していく意味もない。かたちだけでも放三郎の用人に収まれば、少なくとも、浮民よりはましな生活ができる。そしてこちらも、泥だらけになってこんなところまで呼びに来ることもなくなる。
 だが、往壓は決してこの泥に沈みかけた長屋を出ようとはしない。その心がわからないから、歯がゆくてたまらない。
「あんたこそ」
 なにを言う気かと眉を上げると、往壓はにやりと笑う。
「つまらん意地は捨てて、その重い羽織を脱いだらどうだ」
「なに……」
 思いもよらない切り返しに、そのつながりを考えることでせいいっぱいだった。つながりはなにもないと気づくのにも、暫しかかった。
「……話をそらすな!」
 だが往壓のほうが上手だったらしい。今、この場に関わりのある話はどちらかと問えば、往壓の住処ではなく、放三郎の身なりなのだ。
「すぐ出るから、羽織も草履も脱ぐのが手間だ、と言いたいんだろうが……そのままじゃあ、身体を冷やすぜ」
「……………」
 雨は先ほどのどしゃ降りではないが、それでもまだやむ気配はない。
 どうせ脱いだとたんに晴れ上がるのだろうと、放三郎は水気を含んで黒さを濃くした羽織を肩から落とす。思っていたよりも身が軽くなったことに驚きながら、草履も脱いで板間に上がれば、薄汚れた手ぬぐいを差し出された。
「……すまぬ」
 濡れたままの顔を拭き、ようやく人心地ついたような心持ちになる。そして、この家にこうして上がり込んだのは初めてだということに思い当たった。
「……で、狐がどうしたって?」
 いつのまにか布団をよけて放三郎の正面に座り込んでいた往壓は、もそもそと首を掻きながらも先ほどの話をつづけようとしている。
「雨がやむまでお役目の話はせぬのではなかったか?」
「他にあんたとする話もなかろう」
 放三郎は胸の奥に鈍い痛みを感じた。
 べつに往壓と楽しく世間話をしたいわけでもないが、他にない、と言いきられてしまえば今の話もなかったことになる。だが、そらされっぱなしの話とお役目を、秤にかけるわけにもいかない。
「……本郷の稲荷神社で、殺しがあった」
「そりゃ奉行所の仕事だ」
「そこまではな。しかし運悪く血を浴びてしまった狐が、人の怨念を背負って妖夷となった。稲荷はつながっているからな、悪しき力が社を通して江戸中に伝わってしまう危険もある。早めに片づけないと、大事に……!」
 ふいに、くしゃみが出た。往壓が声を上げて笑う。
「雨ん中、むりして来るからだ」
 自業自得と言われたようで、放三郎も思わず声を荒げる。
「な、だれのためにわざわざ……」
「だれのためだって? あんた、おれのために来たのか?」
 怪訝そうに覗き込んできた顔が、含みのある笑みを浮かべた。
「なんで足の軽い宰蔵や、アビをよこさなかったんだ?」
 しまった、と唇を噛んでも遅い。
「おれに逢いたかったか?」
 往壓がにやにやと覗きこんでくるのが腹立たしかった。
「……帰る!」
 だん、と薄い板間を踏み鳴らし立ち上がりかけたところに、弱くなりかけていた雨音が、再び喚声を上げる。
「……帰るな、だとよ。いや……帰りたくない、か?」
「…………!!」
 腹立ちまぎれに、刀と羽織をまとめてつかむ。まさかほんとうに帰るとは思っていなかったのか、往壓が腰を浮かした。
「おい、小笠原さん!」
「うるさい! 雨が上がったら貴様も来るのだぞ!」
 江戸中が水浸しになっていようとも、ここを立ち去るつもりだった。だが往壓は腕をつかんでまで引き止めようとする。
「悪かったって、そんなつもりは……」
 ではどんなつもりだというのか。苛立ちを募らせた放三郎がその腕を振りほどこうとすると、往壓はそのまま自分のほうへ引き寄せようとした。どちらも本気で、手加減なしの綱引きをしていた。
「すまねえ! いや……そりゃあ、からかうつもりも困らせるつもりもあったさ。でも雨ん中を追い返そうなんて気はまったくねえんだ。ただ……」
 うれしかったんだよ、という呟きに、放三郎の力が一瞬ゆるんだ。その拍子に、思いきり力を入れていた往壓は後ろへ倒れ、腕をつかまれていた放三郎は往壓の上に倒れ込む。
「ってえ……」
したたかに背中を打ったらしい往壓は、それでも放三郎の腕をつかんだままだ。
「離せ……」
「そしたら、帰っちまうんだろ?」
 聞き分けのない童のように、往壓はそう言って放三郎を両腕で抱き込む。
 帰らぬから離せ、というのも、収まりが悪い。ここで離されたところで、やはり気まずくていられないだろう。なにより、冷えた身体にこの腕はひどくあたたかい。
「……当然だ。この腕が離れたら、すぐにでも帰る」
「そうか」
 往壓は暫し考え込むように黙り、それから襟元へ頬を押しつけてきた。ざらついたその肌がひどく熱く、放三郎は己の肌が冷えきっていたことを知る。
「……ぁ」
 胸元へ、首へと、往壓の唇が触れ、熱い息がかかる。それだけで、芯まで一気に熱くなった。
 ふと聞こえない雨音が気になって、小さな明かり取りの窓から外を見上げてみた。
 白い空には、しかし雨の銀糸は見えなかった。

 袴が皺になる、と思ったが、口に出すのは憚られた。放三郎の思惑を知ってか知らずか、往壓は濡れた着物をばかていねいに脱がせては放り出し、冷たくなった肌をあたためようとする。
「竜導……」
 相手を見下ろし、放三郎はその腰の上に収まり悪く跨っていた。
 板目を背中に感じそうなほど硬い床に、往壓は放三郎の身体を押しつけることはしなかったのだ。襦袢が張りついた細い身体を受け止めるように抱き、ゆっくりと後ろをほぐしていく。下帯を乱され、後庭を無骨な指で犯されているときでさえ、放三郎は往壓の優しく真剣な目を感じずにはいられなかった。
「やっ……」
 往壓の肩にかじりつき、後ろを弄られている放三郎は我知らず腰を揺らす。昂ぶった二人の熱がぶつかり、こすれ合い、さらに二人の息を荒くした。
「そんなに……煽るなよ……」
 笑みの混じった声で囁かれ、放三郎の顔に朱が差す。二本の指で広げられて、奥まで探り当てられ、そう長く堪えつづけることなどできない。
「…………ッ!!」
 往壓の着物と肌を汚し、放三郎は声を殺して果てた。
「すっ、すまぬ……」
「いいさ……」
 首を抱き寄せられるがままに、唇を重ねる。乱れる息とぬめる舌の感触に酔っていると、放三郎の精で濡らされた往壓の熱が、解された後ろへと押し当てられた。
「っ、りゅうど……ぁ、あああっ!!」
 貫かれた衝撃に思わず声を上げてしまってから、はっと口を押さえる。
 ここは長屋だ。薄い壁の向こうには、見ず知らずの者が往壓のように暇を持てあましているにちがいない。なぜ今まで気づかなかったのか。他人に己の情事を聞かれるなど、放三郎には耐えがたかった。
「安心しな、隣はしばらく空き部屋だぜ」
 そう言うなり、往壓はぐいと突き上げてくる。
「は……んんっ!」
 それでも情けなく喚くのはためらわれ、唇を噛んで堪えた。それは、痛みに耐えるよりもはるかに難しいことだった。
「いや……か?」
 表情を見つめていた往壓が、そっと尋ねてくる。放三郎は苛々と首を横に振った。
 男の胸にすがりついているだけなのが不甲斐なく、その胸の上で身を起こす。
「ふ……っ」
 腹の中で角度が変わり、思わず身をよじらせていた。それが、きっかけだった。
 相手の目が、浅ましくもいきり立った己の雄に注がれているのはわかったが、自然と腰が揺れるのを止められない。
「っ、ぁ、ぁあっ、竜導……」
 動くのに合わせて突き上げられ、つながりが深くなるたびに声が洩れる。己のものとは思えないほどに艶めいた声は、往壓だけでなく放三郎自身をも煽り、昂ぶらせていく。
「ぅっ、小笠原さん……」
 不安げな声とともに伸ばされた手を、必死につかむ。
「竜導……」
 言葉で伝えたかった。どれほど指を絡め、身をくねらせ、声を上げても伝わらない想いを。
「私の元へ、来い……」
 こちらを見上げている顔は、哀しそうに笑っていた。

 ぬかるんだ道を、二人は肩を並べて歩く。
「日が長くなったな……」
 やわらかな風が、芝のほうから寺の鐘の音を切れ端だけ運んでくる。少し前なら、もう暗くなっていた時分だ。今はといえば、落ちかけた日が潤んだ空をあかね色に滲ませていた。
「きれいな色だ」
 放三郎の返事はない。今しがた、大きな水たまりに足をつっこんだばかりなのだ。こみ上げてくる不平をすべて飲み込んで、ただ歩みを進める。
「なあ、小笠原さん……」
 やわらかな緑の芽を噛んで遊んでいた往壓が、口の中のそれを道ばたに吐き捨てた。
「おれはただ……武士の屋敷に住みたくないだけなんだ」
 あんたのそばがいやなわけじゃない、と小さな声でつけ足して。また道ばたから、濡れた若草の葉を引き抜く。
 放三郎は答えず、ただ大きく息を吐き出す。
 武士の身分を捨てた身で、巧みに剣を使い。腹の底では侍を毛嫌いしながら、いざとなれば侍の心に従ってしまう。幕臣ふぜいがと罵ったその口で、帰らないでくれと懇願し……。
 異なる場所に惹かれながらも逃げつづける、そんな生き方は楽ではないだろうに。そういうものなのだと、それしかないのだとでも言うように、往壓は滅裂に生きようとする。
「……まるで時雨だな」
 せわしなく降ったりやんだり。激しく打ちつけ、優しく濡らし。気まぐれな雨に、こちらの衣は乾く暇もない。
「ああ? なんか言ったか?」
 呟きは聞こえなかったらしい。そのほうがいい、と放三郎は苦く笑った。きっと、また喧嘩になる。
「よっと」
 往壓がいきなり大股に飛び上がる。それが、大きな水たまりを越えたためだと気づいたときには、放三郎の足は再び水たまりの中だった。ぐっしょりと濡れた足元を忌々しげに見つめると、往壓が喉の奥で笑う声が聞こえた。
「く……っ」
 今度こそ悪態をつこうと口を開いたが。
 飛び出してきたのは、大きなくしゃみだけだった。

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